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一方その頃、トレセン学園。
生徒会のメンバー達は、夜になっても、例の断行によって起きた事への対応に苦闘していた。
学園の一室では、副会長のダイイチルビーと役員のダイタクヘリオスの二人が、報道やスポンサー等の電話対応にあたっていた。
断行した昼以降、二人は休む暇なく延々と続く電話対応に追われおり、流石に疲労の色は隠せなかった。
「ルビー、ちょっと休まない?」
何十回目の電話対応を終えた後、ヘリオスはふーと大息を吐きながら、傍らのルビーを見た。
「そうね。」
ルビーも、頬に美しく光る汗を拭って頷いた。
受話器を開けっ放しにして、二人は休憩した。
「想像してたけど、やっぱり大変ね。」
缶ジュースを飲みながら、ヘリオスは溜息を吐いた。
「そうね。まるで嵐ですもの。」
ルビーもカップに淹れた紅茶を喫しつつ頷いた。
断行して以降、学園の電話という電話は抗議や苦情やらでずっと鳴りっぱなしだ。
中傷紛いのものも多いので、自分達と別に対応にあたっている職員達には関係者以外からのそれは無視するよう指示している。
「天皇賞・秋後の騒動の時も、有馬記念出走者発表の時も大変だったけど、今回はレベルが違うね。」
ヘリオスは窓の外に眼を向けた。
夜闇の中見える学園の門前には、かなりの人数の報道陣が騒がしく群れていた。
「それは、ウマ娘が人間に相対したのだから、規模も雰囲気も違うのは当然よ。」
「でも、まだ先の騒動よりは良いと思うわ。」
ルビーは続けた。
「どうして?」
「今回は、私達が毅然とした態度を取れているからよ。天皇賞・秋後の騒動では、私達生徒会は人間との衝突や軋轢を恐れ過ぎて、何も出来なかったから。」
「そうだね。」
ヘリオスは同感と頷いた。
最も、今回の件をきっかけに起きうるリスクの大きさは先の騒動の比じゃないけどとと思いつつ、ジュースをこくりと飲んだ。
「私達が大変なのは構わない。でも、」
ルビーはカップを机の上に置き、眼を瞑って言った。
「オフサイドトラップの、有馬記念のレース中に故障し帰還する”という行為だけは、なんとしても阻止しないといけないわ。彼女がどんな思いであれ、レース中の悲劇は、永遠の悲しみしか残さないのだから。」
「…。」
ヘリオスは、瞑目しているルビーの手元を見た。
両膝の上に組まれた手は、僅かに震えていた。
それを見て、ヘリオスはしばし黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。
「ケイエスミラクル。」
「…。」
ぽつりと呟いたヘリオスの言葉に、ルビーはピクっと反応し、眼を開いた。
眼を開いたルビーを見つめ、ヘリオスは続けた。
「ずっと前から気づいてたけど、まだルビーの心には、ミラクルの姿が残っているんだね?」
ヘリオスの言葉に、ルビーはまた眼を閉じて一口紅茶を喫し、それから再びヘリオスを見た。
「7年ぶりね。あなたの口からケイエスミラクルの名前が出たのは。」
「ルビーこそ。たった今、その名を口にしたのが7年ぶりだよ。」
ヘリオスもルビーも、寂しい微笑を浮かべていた。
ダイイチルビー・ダイタクヘリオス。
二人とも現役時代は共に短距離戦線で活躍し、幾つもの栄光を手にしたスターウマ娘。
そして同期であり、何度も大舞台で闘った好敵手。
そんな二人には、決して忘れられない一つ年下の同胞がいた。
名は、ケイエスミラクル。
7年前、2年生の春にデビューした彼女は、類い稀なスピードを武器に短距離レースで快勝を連発、未来の短距離界を担う逸材と注目された。
その年の秋には古バ混合の重賞レースに参戦すると、ルビー、ヘリオスら短距離の先輩猛者達を相手にレコードタイムで勝利した。
その時点で8戦5勝、うち3勝がレコードタイム。
まさに彗星の如く現れた新スターウマ娘だった。
「どこか、サイレンススズカに似てたわね。」
「うん。」
ルビーの呟きに、ヘリオスはこくりと頷いた。
ミラクルはデビュー前、病と脚の怪我で2度命の危機に晒されたことがあった。
2度とも“奇跡”が起きてその危機を乗り越え、デビューを果たすという心揺るがす経歴をもっていた。
彗星の如く出現したミラクルを、当時短距離王者だったルビーもそれに肉薄していたヘリオスも好敵手と迎え入れた。
その後行われたマイルCSではヘリオスが優勝、ルビーが2着でミラクルは3着だった。
今後の短距離界の覇権はこの3人によって争われるだろうと、周囲の多くは予想した。
そして、迎えた年末のスプリンターズS。
ヘリオスは別レースの為出走しなかったが、ルビーとミラクルは勿論出走した。
ミラクルが1番人気でルビーが僅差の2番人気。
以下の人気は離れており、この二人の一騎討ちと見られていた。
レーススタート後、ハイペースの展開の中で、ミラクルもルビーも好位置につけてレースを進めた。
そして残り300mを切ると、ミラクルは一気にスパートをかけ先頭に迫った。
彼女の後ろにつけていたルビーも同時にスパートをかけ、ミラクルに迫った。
ところが。
誰もが両雄の一騎討ちになると思った次の瞬間、先頭に躍り出かけたミラクルが突如急激に失速した。
次と他バに抜き去られた後、彼女はよろめきながら残り150mで競争中止した。
故障発生だった。
その後、搬送されたミラクルに下された診断は、無情にも『左第一趾骨粉砕骨折・予後不良』。
ケイエスミラクル。
彗星の如く現れた奇跡のウマ娘は、あまりにも速く儚い形で、この世を去った。
「本当に、スズカと似てたわ。」
ルビーは眼を瞑りながら、当時のことを思い出していた。
天皇賞・秋のスズカと同じように、故障寸前までミラクルは後ろからみても抜群な手応えで走っていた。
なのに、まさかの突然の悲劇だった。
ミラクル故障後、レースはルビーが優勝した。
ルビーはその後の優勝インタビューもウイニングライブも全てやり通し、ミラクル悲劇の悲しみに暮れるファン達に笑顔を振り撒いてそれを癒した。
しかし、彼女の心は誰よりも悲しみに暮れていた。
そんなルビーの心中を誰よりも理解していたのが、他ならないヘリオスだった。
「ミラクルの悲劇の後、ルビーは走りを失った。それはつまり、そういうことよね?」
「…。」
ヘリオスの言葉に、ルビーは眼を瞑ったまま答えなかった。
でも、無言のうちにそれを認めていた。
「あたしはそれに気づいてたから、なんとかルビーを支えて、走りを取り戻して貰いたいと頑張ったんだけどね。マイラーズC・安田記念で一緒に走って…でも、ダメだったなー。あたしじゃ、ミラクルの代わりになれなかった。」
言いながら、ヘリオスは悔しそうな微笑を浮かべると天井を仰いだ。
「ヘリオス、」
その言葉を聞き、ルビーは静かに眼を開けた。
そして、嘆じるように天井を仰いでるヘリオスに、眼を伏せながら言った。
「私、気づいてたわ。」
「え?」
「ミラクルの悲劇の前から、あなたの私への想いには気づいてたの。あなたに大きな夢を阻まれた高松宮杯の時から、ずっと。」
「そっか…」
ルビーの言葉に、ヘリオスは、照れくさそうな微笑に変わった。
「そう…だったんだ。」
ぽつりぽつり呟きながら、頬の紅さを隠すようにジュースを飲んだ。
「ごめんなさい。あなたの想いに応えられなくて…。」
「いいの。叶わない想いだろうなってことは、あたしだって分かってたから。」
小声で謝ったルビーに手を振りながら、ヘリオスは答えた。
「それに、ミラクルの帰還で、その想いは永遠に封印するって決めたから。」
「ヘリオス…」
「出来れば、ルビーに強さを取り戻して欲しかったけどね。“華麗なる女王”と、ターフでもう一度闘いたかった。」
「…。」
ルビーは俯いた。
前述のヘリオスの言葉のように、ミラクルの悲劇のショックからかルビーはそれ以降惨敗を繰り返し、間もなく引退した。
「でも仕方ないよ。ルビーの悲しみがどれだけ深いか、分かってたし。」
あのレース、故障の苦痛にもがくミラクルのすぐ傍らを、ルビーは傍目も振らずに駆け抜けていた。
あの時の彼女の心境は、想像するだけでも辛い。
「あなたは、」
ルビーは、俯いたまま尋ねた。
「あなたは、ミラクルの帰還を前にどう思ったの?」
「勿論、凄く悲しかったよ。今でもその悲しみは残ってる。」
ヘリオスは眼を半分瞑って答えた。
「ミラクルは、私にとって二つの意味でライバルだったからね。彼女には絶対に負けたくなかった。私がマイルCSで優勝出来たのは、ある意味彼女のおかげよ。その後も、ミラクルとはライバル関係を続けられると思ってた。その矢先の悲劇だった。」
答えながら、ヘリオスは指先を目元に持っていった。
「…。」
少し間を置いた後、ルビーは再び尋ねた。
「さっき、私への想いは永遠に封印すると言ってたわね。…どうしてそう決めたの?」
その尋ねに、ヘリオスは即答した。
「あのレースでの、ミラクル故障後の、ルビーの凄まじい走りを見たから。」
「え?」
「本当凄かった。ミラクルの故障を目の当たりにして、どれだけショックだったか量り知れないのに、ルビーは容赦なく末脚を繰り出し、ぶっちぎって走り切った。…私自身ショックの中で、その末脚の凄さに震えたよ。」
未だにその印象が残っているのか、ヘリオスは数度首を振った。
「余程、あのレースに懸ける思いが強かったんだろうね。いや、ミラクルに絶対に負けるものかという、女王の覚悟と言うべきかな。あの走りを見て、私は負けたと思ったよ。」
「負けた?」
「ルビーにあそこまで本気の走りをさせたミラクルにね。」
それも、目の前で悲劇が起きても揺るがない程の。
「私では、あそこまでルビーを本気にさせられない。そう思った時、ああミラクルには負けたなって思ったの。」
「負けだなんて。」
ルビーは小さく首を傾げた。それを言ったら、ヘリオスのマイルCSも凄まじかったじゃない。
スタートから先行し、私にもミラクルにも全く影を踏ませない内容で優勝したんだから。
「それだけじゃないの。もう一つ理由があるの。」
ルビーが考えていることを察しつつ、ヘリオスは静かに言った。
「ルビーのあの凄まじい走りには、ある想いが感じられたから。」
「…。」
ルビーは、今までと違う眼光でヘリオスを見た。
その宝石のような美しい眼を見つめ返して、ヘリオスは続けた。
「ミラクルを守る、という悲壮な想いが。」
レースに出るウマ娘には、勝敗と同じ位大切とされていることがある。
それは、最後まで走り切ること。
その理由は、走りきれなかったことでレースの印象を変えてしまってはならないから。
特に、故障発生での競走中止は、レースに大きな翳を落としてしまう故、最も避けるよう言われてきた。
だが、ミラクルはそれを起こしてしまった。
それも1番人気を背負ったG1レースで。
絶好調の走りの中で、最大の悲劇となる故障を。
「ミラクルの故障を見た時、ルビーはすぐに分かったんじゃない?」
ミラクルが予後不良の故障だと。
そして、
「このレースが、“悲劇のレース”になってしまったことを。」
「…。」
ヘリオスの言葉に、ルビーは何も答えず、再び眼を瞑った。
ヘリオスは淡々と続けた。
「それは同時に、ミラクルが重い罪悪感を背負うことを意味していた。」
自らのせいで、レースを悲劇にしてしまったという罪悪感だ。
「ルビーは、瞬時にそこまで悟ったんだよね。そして、レースの悲劇の印象を消さねばと決意した。その決意が、あの末脚になった。」
悲劇の印象を変えるのは、レースの内容しかない。
勿論、悲劇を消し去るのは不可能だけど。
「それでも、少しでもその印象を消そうと、あなたは走った。愛したミラクルの為に、絶対にと思ってね。」
そして、ルビーは優勝した。
他バが止まって見えた程の電光の末脚で、2番手に4バ身差をつける圧勝。
更には同距離の日本レコードタイムを出すという、圧巻の内容だった。
悲劇の色はレースに濃く残ったが、一方で勝者の栄光も、讃えられるべき強烈な印象・内容として残された。
「そのことは、ミラクルにとっては確かな救いになったね。最も辛い、勝者の栄光が貶される事態にはならなかったのだから。」
「…。」
ルビーは瞑目したまま、ずっと黙っていた。
「ルビーの走りは、ミラクルを守ったよ。それに気づいた時、私も悟ったんだ。やっぱり、ルビーとミラクルの間に、私が入る隙はなかったなって。だから、ルビーへの想いは、永遠に封印することにしたの。」
最後は少し感情を込めて、ヘリオスは言葉を終えた。
「そうだったのね。」
ルビーは、呟きながら静かに眼を開けた。
そして僅かに微笑を湛えて、ヘリオスを見た。
「流石はダイタクヘリオスね…全て、あなたの言った通りだわ。」
「そっか。」
ヘリオスは、少し俯いた。
「ありがとう。」
俯いた彼女に、ルビーは言葉を続けた。
「私の胸中をここまで理解してくれたのは、多分あなただけだわ。」
「…。」
ヘリオスは俯いたまま、ほんの少し微笑した。
その微笑を見て、
「ありがとう、ヘリオス。」
ルビーは、つと椅子をヘリオスに寄せた。
「何度も言わなくていいよ。」
「ううん。これは、私を助けてくれたことへの感謝よ。」
「え?」
ヘリオスは顔を上げた。
ルビーは、その眼を見つめ返した。
「さっき言ったように、あなたの想いには気づいた。だから、ミラクルの帰還で悲しみのどん底にいた私を、レースで共に走ることで支えようとしてくれたことにも気づいてたの。」
「アハハ、そうなんだ。」
でも駄目だったよねと、ヘリオスは残念そうに笑った。
「ルビーは復活出来なかった。やっぱり、私はミラクルの代わりにはなれな…」
「そんなことないわ!」
ルビーは、思わずヘリオスの手を握った。
「あなたが支えてくれたから、私は悲しみを乗り越えることが出来た。ターフを去ることになっても、第二のバ生を歩み出すことが出来た。それは、苦悩・悲しみを共に分かち合えるあなたがいたからだわ。絶望の闇の中にいた私にとって、あなたは闇を消してくれた“太陽”だった。」
「そっか、良かった。」
手を握られちょっと驚いていたヘリオスは、ルビーの言葉に目元を拭いながらニコっと明るく笑った。
「私の願いは、愛した同胞の確かな力になることが出来てたんだね。」
「うん。」
ルビーも頷きながら、涙を拭った。
少し経った後。
お互い椅子に座り直した後、ヘリオスがぽつりと言った。
「今回の天皇賞・秋でのオフサイドトラップの言動も、ルビーと同じだよね?」
「そうね。」
過去の経験から、二人ともそれは分かっていた。
「オフサイドは、スズカの為にあのような言動をしたんだわ。」
でも、全部裏目になってしまった。
「それにスズカだけじゃなく、もう一つ彼女には喜ばないといけない理由があったと思うよ。」
「そうね。」
二人の脳裏に、一人の同胞の姿が浮かんだ。
ナリタブライアン…
「これは私の勘だけど、オフサイドはブライアンのこと…親友以上に想ってたんだろうね…。」
「勘どころか、あの二人は、親友以上の仲で間違いないわ。」
「え?」
「あの9月27日、ブライアンの最期を看取った者の中には、オフサイドもいたのだから。」
「そうだったんだ。」
ヘリオスは、それは知らなかった。
「じゃ、あのレースでオフサイドが着けていたシャドーロールは…」
「…。」
ルビーは、無言で頷いた。
…そっか。
ヘリオスは、表情をしかめながら指を噛んだ。
「オフサイドがここまで絶望した理由には、ブライアンの帰還も深く関係してるんだね。」
「むしろ、一番深いかもしれないわ。」
ルビーは、残りの紅茶を飲んだ。
可哀想なオフサイドトラップ。
同じような経験をしたルビーには、彼女の悲しみが良く分かった。
それでも、私にはヘリオスがいたから、その悲しみを乗り越えられた。
でもオフサイドには、ヘリオスのような存在がいない。
私より遥かに辛い立場なのに、心を支えてくれる同胞がいない。
チーム仲間のステイゴールド、ホッカイルソー、或いはフジヤマケンザン…
「…。」
ルビーは口元で吐息した。
確かに彼女達はオフサイドの理解者だが、彼女を絶望から救い出せる程の存在かは難しい気がした。
「そういえばさ、」
ルビーが思考していると、ヘリオスがふと気付いたように指から口を離した。
「朝の会議の時、マックイーンが“オフサイドを翻意させられる可能性がある同胞が一人いる”って言ってたけど、あれってサクラローレルのことだよね?」
「ええ、間違いないでしょう。」
ヘリオスの言葉に、ルビーは頷いた。
「まだ海外にいるローレルを、なんとしても有馬記念までに帰国させてオフサイドと会わせようと、会長は画策している筈です。」
「でもローレルは、まだ長距離の移動が出来る程回復してないんだよね?」
ブライアンの帰還時や、天皇賞・秋後の騒動時にも帰国出来なかったのだから。
「恐らくそうだろうけど、オフサイドの現状を知ったら、ローレルは帰還覚悟で帰国に踏み切ると思うわ。」
「…。」
そうだね、とヘリオスは唇を軽く噛んだ。
オフサイドトラップとサクラローレルの絆の深さは、一蓮托生と言えるくらいだから…
それに、もしかするとローレルも…
ヘリオスは、その推察は胸のうちに留めた。
「業務、再開しようか。」
ジュースの残りを全て飲むとふーっと大きく息を吐き、ヘリオスはルビーに言った。
ルビーは、無言で頷いた。