1998年11月1日「消された天皇賞覇者」   作:防人の唄

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『万物の霊長』の苦悩(6)

 

しばしの間、車内には重い沈黙が流れた。

 

「沖埜、」

沈黙を破ったのは、岡田の言葉だった。

「さっきお前は、トレーナーの理想として『記憶にも記録にも残るウマ娘を輩出する』と答えたな。」

「はい。」

「その答えの背景にあるものはなんだ?」

 

「私なりに出した、ウマ娘達の未来の為の答えです。」

質問に対し、沖埜は両腕を膝元に組みながら、真摯な口調で答えた。

 

 

デビューから天才トレーナーの名をほしいままにウマ娘界を生きてきた沖埜は、岡田のように無名の下積み時代を送ったことは殆どなかった。

だが、ウマ娘との向き合い方については、岡田に劣らない位苦悩していた。

 

沖埜も当然知っていた。

ターフを去ったウマ娘達の多くは、ウマ娘界の未来に必要とされずにこの世を去っていくことを。

加えて、ウマ娘が輝けるのはこのレースの世界だけであり、それもほんの数年だけだということも。

そして寿命も、老いがないとはいえ人間の倍以上短い。

 

そんな過酷な世界で生きるウマ娘達に、自分は何をしてやれるのだろう。

十代で『スピカ』チームを結成して以後、沖埜はずっと考え続けてきた。

出来ることなら、全てのウマ娘が幸せな余生を送れる環境になって、レースの世界では美しく楽しく走って欲しい。

でも、そんなことは不可能だった。

どうあっても、このレースの世界は勝者と敗者が生まれる。

そして、未来を掴む者とそうでない者に分かれる。

その運命は変えられなかった。

ましてや昨今、ウマ娘の能力に対する視線は一層シビアになり、血統による格差も大きくなっていた。

 

そうした現実を生きる中で沖埜が出した結論は、せめて自分に未来を託したウマ娘だけでも幸せにするというものだった。

栄光を掴むだけでなく、その走りも人々の記憶に深く残し、決して忘れられないウマ娘を輩出しようと。

 

その想いから、オグリキャップ・メジロマックイーンといった超スターウマ娘が輩出された。

更にはベガ・マーベラスサンデー・エアグルーヴなどといったG1ウマ娘を輩出し、そして、サイレンススズカ・スペシャルウィークと繋がった。

 

 

「今の私が、ウマ娘界の未来の為に出来ることはそれだけでした。それだけを求めて、トレーナーとして生きて来ました。」

沖埜の求めた理想は、結果となって現れていた。

彼が輩出したスターウマ娘達の活躍によって(沖埜の知名度もあるが)、ウマ娘界はこれまでにない隆盛を迎えていた。

それは、一人でも多くのウマ娘達が幸せになれる可能性が拡がったことも意味していた。

実際、血統や実績に関係なく、ファンの厚意によって余生を送れるウマ娘がでるようにもなっていた。

 

 

「お前の想いは、ウマ娘達の未来を確かに少しずつ明るくした。そのことは紛れもない事実だ。このウマ娘界に生きる人間として、それは本当に素晴らしいことだと思う。」

岡田は心底から讃えるように言った後、つと口調を厳しして続けた。

「今回の天皇賞・秋で、お前はトレーナーとして大切なことを疎かにしてしまったな。」

 

岡田の言葉に、沖埜は無言で俯いた。

疎かにしてしまった大切なこと。

それは、“レースに絶対はない”というもの。

それは、トレーナーとして、最も戒めなければいけない言葉でもあった。

だがあの天皇賞・秋。

前述(146話参照)のように、沖埜はサイレンススズカに万が一が起きること可能性すら考えていなかった。

 

或いは、例え可能性を考えていたとしてもあの悲劇は起きていたかもしれない。

しかし、悲劇への対応は違っていただろう。

少なくとも、彼ほど聡明な人間があの状況で『悲劇がなければ〜』などといった浅慮な言葉を吐いてしまうほど動揺はしなかった筈だ。

「仰る通りです。返す言葉もありません。」

俯いたまま、沖埜は謝罪した。

「疎かにした上、私はオフサイドトラップの栄光を貶してしまった。詫びるしかありません。」

 

 

お前の気持ちは分かるがな。

謝罪した沖埜を横目で見つつ、岡田は思った。

 

サイレンススズカ。

かつては自らが指導にあたっていたこの稀代の潜在能力を備えたウマ娘には、岡田も惚れこんでいた。

自身の元での開花は叶わなかったが、沖埜の指導で彼女の能力が覚醒した時は正直嬉しかった。

またスズカが、沖埜にとって究極のウマ娘であるということも分かっていた。

類い稀なスピードと美しさ、それを一層際立たせるせるウマ娘性。

沖埜ならずとも全トレーナーに(というより全ての者に)とっても、究極のウマ娘であったろう。

そして沖埜が抱く理想である、記録にも記憶にも永遠に残り得るであろうウマ娘でもあったから。

 

 

「オフサイドのことは謝らなくていい。」

岡田は改めて口を開くとそう言った。

沖埜の言葉も一因ではあったが、今回の騒動はレースに対する価値観が現場と世間で乖離していたことによって起きたものと岡田は見ていた。

膨大な世間の声が暴走し、このような現状となってしまったと。

だから沖埜のにはトレーナーとしての過ちこそ指摘したが、その後の言動について(騒動時に沖埜が沈黙を貫いた理由(147話参照)も、岡田は理解していた)は、責める気はなかった。

それに、先程病院で言ったように、オフサイドの絶望は騒動よりも別の所にあると思っていたから。

 

「オフサイドに対しては私が対応にあたる。だから沖埜、お前は、今度の事態で危機に直面するであろうウマ娘を助けるんだ。」

…。

そのウマ娘が誰か、当然沖埜も分かっていた。

「はい。」

沖埜は、静かに頷いた。

 

 

 

やがて車は、学園近くにさしかかった道路で停車した。

そこにはもう一台、メジロ家の車が待機していた。

目的地の違う沖埜はそちらの車両に移動し、岡田らと別れた。

 

 

 

岡田と別れた沖埜は、別のメジロ家の車によって、自宅へ送迎されていた。

 

車中で使用人から、マックイーンの言伝を受けた。

『明朝、サイレンススズカに天皇賞・秋後の一連の騒動から現在に至るまでのことを伝えます。つきましては沖埜トレーナーにも同席をお願いします』

 

遂にか。

沖埜は端正な容貌を、微かに苦悶するように歪ませた。

騒動を知った…いや、その騒動によってオフサイドトラップが貶され、絶望したことを知ったスズカがどうなってしまうか、最悪がゆうに想定出来た。

騒動の一因になった自分が、鎮静にあたっていれば。

今更だが心底から悔やんだ。

自身がスズカの悲劇に打ちひしがれていたとはいえ、騒動がオフサイドに及ぼす影響を軽微と見てしまった(147話参照)ことも、大きな過ちだった。

 

自身が罰を受けるのは当然だ。

だが、その累がスズカに及ぶことだけは、最悪が想定出来る以上避けたかった。

 

どうすればいい。

端正な無表情のうちで沖埜は苦悩し続けたが、対応は見つからなかった。

 

 

 

一方。岡田を乗せた車は、そのままオフサイドのいる別荘へと向かっていた。

沖埜が座っていた後部座席には、助手席から移動したケンザンが座っていた。

 

「ケンザン、」

沖埜と別れた後、岡田は車中ずっと沈黙していたケンザンに声をかけた。

「お前、よく我慢したな。」

「…。」

労るような岡田の言葉に対し、ケンザンは無言のままだった。

 

車中ずっと沈黙していたが、実はケンザンは沖埜を責めるのを堪えていた。

彼女は岡田と違い、オフサイドを追い詰めた最大要因は沖埜の言動だと思っていた。

ウマ娘界の象徴的な人間である彼が、ショックに打ちひしがれていたとはいえ何故勝者を貶す言動をしたのか。

昨夜マックイーンにした以上に、沖埜の胸ぐらを掴んででも詰問したかった。

 

「私が沖埜トレーナーを責めたとしても、何の意味もありません。」

ケンザンは、車中で初めて口を開いた。

ここで彼を詰問してたとしても事態は何ら好転しない。

今大切なことは、絶望したオフサイドの決意を翻意させることと、真実を知ることになるスズカを支えること。

沖埜を責めるのはその後でも良い。

二人が救われる未来になるかは別としてだが。

ケンザンの表情は険しく、両膝に置く手は膝頭を強く掴んでいた。

 

「沖埜を悪く思うな。」

ケンザンの様子を見て、岡田はその心情を慮りつつも言った。

「スズカの悲劇で、沖埜は本当に苦しんだんだ。そして今でも苦しんでる。それにさっきの話も聞いただろう。沖埜は、ウマ娘界の未来の為にずっとこの世界の現実と向き合ってきたんだ。」

この世界の現実…

「分かっています。」

ケンザンは重たく頷いた。

彼女が沖埜を責めなかったのは、それを分かっていたからでもあった。

ケンザン自身、多くの同胞と同じように沖埜をずっと慕っていた。

彼がウマ娘に対して愛情深い人間だということも分かっていたし、岡田と同じくウマ娘界の未来を背負ってトレーナーをしていることも薄々感じていた。

あの天皇賞・秋後の言動が出るまで、ケンザンにとって沖埜はウマ娘界で最も尊敬できる人間の一人だった。

 

「でも、沖埜トレーナーの言葉のせいで、オフサイドがどれだけ傷ついたのかと思うと、余りも可哀想で。」

 

岡田やマックイーンは今回の騒動大きな要因は決して沖埜の責任ではないとの考えだったし、オフサイドも沖埜の言動で絶望に追い込まれた訳ではない。

それでもケンザンは、沖埜を責めずとも許せなかった。

ケンザンはオフサイドの先輩として、その競走バ生をスタートから長年見てきた。

彼女どれだけの苦しみを乗り越えて栄光を掴んだか…その栄光を、たった一言で貶された。

「私には、やはり…。」

許せません。

ケンザンは唇を噛みつつ呟いた。

 

…。

ケンザンの呟きを聞き、岡田は胸中で溜息を吐きながら、車窓の外に眼を向けた。

『フォアマン』

トレーナーとして、ケンザン・オフサイドの競走バ生と共に生きてきた岡田。

沖埜を許せないケンザンの心中も、よく理解出来た。

俺は人間、彼女達はウマ娘。

病身に少し苦しさを感じた岡田は、懐から薬を取り出し、水とともにそれを飲んだ。

一呼吸しつつ、脳裏には過去にあるウマ娘から言われた言葉が蘇っていた。

 

“レースに生きるウマ娘にしか分からない、命をかけても守るべきものがあるんです”

 

車窓から外を眺める岡田の眼に、メジロ家の別荘に近い山道が見えていた。

時計を見ると、時刻は21時を回っていた、

 

*****

 


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