1998年11月1日「消された天皇賞覇者」   作:防人の唄

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粉々(1)

 

*****

 

23時過ぎ。

 

療養施設はとうに消灯時間を過ぎ、就寝の静けさに満ちていた。

だが、施設内の幾つかの部屋にはまだ灯りがあった。

 

ライスは、ブルボンの宿泊室にいた。

昨晩は別部屋で美久と泊まっていたが、この日は諸事情の為にブルボンの部屋で寝ることにしていた。

 

就寝前、ライスはベッド上で左脚の古傷のケアをしていた。

普段は靴下で隠れて見えないが、露になった脚部の古傷部分はかなり変色しており、限界が近いことを現していた。

ライスの強靭な精神力で耐えてはいるが、既に四六時中かなりの痛みを感じる程になっていた。

だけど、ライスは少しも感情を顔に出さず、黙々とケアを続けていた。

 

「…。」

ケアしながら、ライスは明日が自分の生涯に於いても重要な日となることを予感していた。

3年半前の宝塚記念で、私はこの左脚が砕け予後不良になりかけた。

奇跡的に死の淵から生還し、今日まで私が生きてきた理由は、恐らくこれから起きる事の為。

そう、サイレンススズカを守る為。

だから、どうかもう少しだけ頑張って。

ライスは、苦痛の続く左脚にそっと手を触れ、祈るように念じた。

 

 

「…。」

黙々と左脚をケアしているライスの傍ら、ブルボンは隣のベッド上で、背を向け膝を抱えて座っていた。

ライスの左脚の状態を、彼女は決して見ないようにしていた。

 

やがて、ライスはケアを終えた。

「寝ましょう、ブルボンさん。」

「ええ。」

ブルボンは頷くと、背を向けたまま部屋の明かりを消した。

 

消灯し、シーツを被ったものの、ブルボンは中々寝付けなかった。

明日のことへの不安ではなく、隣にいる無二の親友の状態に対する感情のせいだった。

ともすれば唇から洩れそうな嘆きを、必死に堪えていた。

「…。」

ライスも、ブルボンの寝付けない様子に気づいていた。

その理由が自分のせいだということも、薄々分かっていた。

かける言葉も見つからず、ライスはただベッドの中でうずくまっていた。

 

 

 

一方、別室でこの日は一人で寝ることになった美久も、悶々とベッドの中で寝付けないでいた。

 

「…。」

彼女は起き上がり、窓を開けて外の空気を入れ込んだ。

凍えるような澄み切った空気が室内に吹き入って来て、美久はぶるっと身を震わせた。

どうしてだろう…

窓を閉めると、美久は胸に手を当てながらベッド上に座った。

なんでこんなに、悲しいのかな。

昼間、学園の断行のニュースを知った時から胸中に燻り続ける悲しみ…いや、魂の奥底から響くような悲しみに、美久は戸惑い続けていた。

 

 

 

そして、別室のスペも、未だベッドにも横にならず膝を抱えて床に座っていた。

 

スズカさん、スズカさん…

スペは最も愛する同胞への不安で一杯になっていた。

明朝、スズカ一連の騒動を伝えられる。

そしたら、スズは間違いなくショックで絶望してしまうことは明白だ。

“真実を知ったスズカは間違いなく帰還を選ぶわ”

ルソーから言われた言葉が、スペの脳裏に深く響き続けていた。

 

一目会いたい、スズカさんの姿を見たい。

不安の中、スペは何度も思っていたことを再び思い返した。

このままじゃ、私、不安で壊れてしまう。

それは愚かな行動をした自らへの罰なのかもしれないけど、まだ壊れちゃいけないんだ。

スズカさんが無事になるまでは…

 

不意にスペは、よろよろと立ち上がった。

部屋のドアに手をかけると、寝巻き姿のまま音も立てずに室外へ出ていった。

 

そのまま、スペは僅かな灯りだけが灯る、誰もいない暗い廊下をよろよろと歩き、やがてエレベーターの前に来た。

エレベーターに乗り込むと、最上階へのボタンを押した。

 

最上階に着くと、スペはエレベーターを降りた。

 

…?

最上階の非常灯だけが灯る暗い廊下を前にして、スペはハッと我に返った。

スズカへの心配から、無意識のうちに彼女はここまで来ていたのだ。

私、何をしてるんだろう…

スペは壁にもたれ、額に手を当てつつ首を振った。

 

 

と、

「誰かしら?」

エレベーターの音に気づいたのか、特別病室の方からスズカの担当医師が出て来た。

 

スペの姿を見ると、医師は怪訝な表情で側に来た。

「スペシャルウィーク。こんな時間にどうしたの?」

「…。」

医師の尋ねに、スペはしばし額に手を当てたまま何も答えなかったが、やがて答えた。

「スズカさんの状態が心配でとても寝れなくて、つい来てしまいました。」

「そう。」

その心情を察した医師は、納得したように優しく答えた。

「スズカは今晩は早めに就寝についたわ。今は穏やかに寝てる。」

 

「そうですか。」

スペは少しほっとした表情を浮かべ、そして続けた。

「一目、スズカさんと会うことは出来ませんか?」

「え?」

「寝顔だけでも良いので、一目見たいんです。スズカさんを…」

 

「分かったわ。」

スペの懇願に、医師は少し考えてから頷いた。

 

 

医師は、スペをスズカの病室に連れていった。

 

病室のベッドで、スズカは静かな寝息をたてて寝ていた。

スズカさん…

スペは、思わず涙を込み上げながらそっと枕元に近寄り、その寝顔を覗き込んだ。

暗闇なのではっきりとは見えないが、清廉な寝顔のうちに心なしかどこか不安の色が滲み出ているように映った。

 

思わず抱きしめそうになるのを、スペは堪えた。

必ず守ります、どうかご無事で。

胸中で心底から問いかけると、そっと枕元を離れた。

 

病室を出る前に、スペは目元を拭いつつ今一度スズカの寝姿を振り返っていた。

 

 

「ありがとうございました。」

病室を出たスペは、外で待っていた医師に礼を言った。

「どう?少し安心した?」

「はい。」

スペが頷くと、医師は続けて言った。

「ちょっと、話がしたいんだけど、いいかな?」

「え、はい。」

スペはちょっとドキッとしたが、この医師は自分がオフサイドにした言動を知らない(知っているのは椎菜・ルソー・ブルボン・ライスのみ)ことを思い出し、すぐに頷いた。

 

 

医師とスペは、スズカの病室のすぐ外にある医務室に入った。

 

室内に入ると、医師は確認するようにスペに尋ねた。

「体調は、どう?」

「大分良くなりました。」

「ふーん。」

朝方より顔色が悪そうなスペの返答に医師は渋面を浮かべたが、それ以上は踏み込まずに、言葉を続けた。

「明日のことは、もうあなたも知ってるわね?」

「はい。」

スペが頷くと、医師は続けた。

「あなたも予感してることだと思うけど、経過次第ではスズカが相当なショックを受ける可能性は高い。私達医師も可能な限りの対処を尽くすけど、予断は出来ないと思うわ。」

分かっていますと、スペは無言で答えた。

医師はその肩に手を当てて、小声ながらも語気を強めて言った。

「もし、スズカのショックが深刻だった時は、あなたの存在が非常に重要になるわ。どうか無二の同胞として、スズカを守る為に力をかして欲しい。」

 

「はい。」

自らも、スズカを絶望させる一要因をつくってしまったスペは、その感情を隠して重たく頷いた。

「スズカさんは、例え私がどうなろうと、必ず守ります。」

 

 

スペが答えた時だった。

『チリン』

外の廊下の奥から、エレベーターの止まる音が聴こえた。

 

「…?」

医師もスペも、顔を見合わせた。

「誰だろう?」

医師は、それを確かめる為医務室を出ていった。

 

医師が出ていった後、スペも後を追って出ようとした。

 

すると、

「…スペさん?」

病室の方から声が聴こえた。

ハッとスペは脚を止め、踵を返して病室に入った。

 

病室に入ると、今しがた眼を覚ました様子のスズカが、ベッド上に身を起こしていた。

「…スズカさん。」

「スペさん。」

二人の眼が合った。

 

スペとスズカの眼が合うのと、ほぼ同時だった。

「待ちなさい!」

「…。」

室外から医師の大きな声と、こちらに近づいてくる駆け足の音が聴こえた。

「…?」

スペが振り返った時、扉が開いて何者かが入ってきた。

 

 

 

その数分前。

 

椎菜は、夜遅くになっても医務室で一人業務をしていた。

ルソーへの深刻な不安、オフサイドの決意に対する動揺、〈死神〉闘病者達の現況、更には明日に起きることなどが彼女の心境を圧迫しており、とても寝れる状態ではなかった。

それを紛わす為にずっと業務をしていた。

 

0時近くになった時計の針を見て、椎菜は一旦業務の手を止めた。

飲んでいた缶コーヒーも空になっていたので、新しいのを買う為医務室を出た。

 

廊下にある自販機で缶コーヒーを買うと、椎菜はその場で蓋を空けて一口飲んだ。

「はあ。」

思わず、溜息が洩れた。

 

自販機の前で悶々としていると。

コツ、コツ…

廊下の向こうの、エレベーターがある方向から足音が聴こえた。

誰だろう。

特に気にもならなかったが、椎菜は受付の方へ向かった。

 

エレベーター前の廊下の角を曲がると、丁度足音の主がエレベーターに乗り込んでいくのが見えた。

 

…え?

一瞬だけだったが、暗闇の中でその主がエレベーターに乗り込む姿をはっきりと見た椎菜は、思わず身体が硬直した。

 

椎菜はエレベーターの前に駆け寄った。

だが既にエレベーターの扉は閉じられ、階を移動していた。

「なんで?」

そのエレベーターが最上階で止まったのを見て、椎菜の表情は更に硬った。

何故?どうして彼女が?

「一体、何を?」

 

驚きと戸惑いの中、椎菜の身体には無意識に慄えが走っていた。

 


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