夜の闇に覆われた中、メジロ家の別荘の前に到着したゴールドは車両を降りた。
…?
使用人に案内され別荘に入ろうとした時、別荘に隣接している競走場に人影が動いたのが見えた。
あれは!
一瞬だけだったが、ゴールドはそれが誰だかすぐに分かり、その人影の方へ走っていった。
「オフサイド先輩!」
ゴールドは、競走場の片隅で膝を抱えている人影のもとに駆け寄ると、その名を呼んだ。
「…。」
呼びかけられ、ゴールドの姿に気づいたオフサイドは、なんとも言えない微笑と共に彼女を見返しつつ、ゆっくりと立ち上がった。
『フォアマン』の二人は、約10日ぶりに再会した。
オフサイド先輩…
夜闇の中、オフサイドの姿を見つめたゴールドは胸が詰まった。
最後に会った時と比べて、顔色も状態も良くなっていた。
でも、全てを諦めたような、達観したような微笑が、彼女の頬に浮かんでいたから。
「どうして、あなたがここに?」
しばし無言で見つめあった後、オフサイドが口を開いた。
「私のことには構わず、有馬記念への調整に集中するよう伝えた筈だけど。」
「何言ってるんですか。」
淡々と言ったオフサイドに対し、ゴールドは表情を顰めて言い返した。
「先輩が隠していた決意を知って、黙っていられる訳がありますか!」
「生徒会長が伝えたのね。」
ゴールドの返答を聞き、オフサイドはすぐにそう察すると、やや表情を歪ませて深く吐息した。
「有馬記念前に、あなたに知られたくなかったのに。」
「私の方から生徒会長に伺いました。」
ゴールドは、昼過ぎに学園断行のニュースを突然知ったこと、どういうことなのかマックイーンに詰問するとオフサイドの手紙を見せられその決意を伝えられたこと、そしてここに来たまでの経緯を話した。
「何故、こんな決意をしたんですか?」
「…。」
ゴールドは悲痛な口調でオフサイドに尋ねたが、オフサイドは無言で答えなかった。
やっぱり…
尋ねたものの、あの天皇賞・秋後に先輩の栄光を貶めまくった連中共のせいだと、ゴールドは既に察していた。
あの理不尽なバッシングのせいで…
胸奥に閉じ込めていた怒りと悔しさが一気にこみあげ、ゴールドは歯軋りした。
と、その怒りに震えた表情を見て、オフサイドは閉ざしていた口をゆっくりと開けた。
「自分に絶望したの。」
「…え?」
「絶望したのよ。あの天皇賞・秋で、あの程度の走りしか出来なかった自分に。」
オフサイドの表情は、達観した微笑を湛えたままだった。
「何言ってるんですか?そんな訳ないじゃないですか!」
耳にした言葉が信じられず、ゴールドは必死な声を出した。
あの理不尽なバッシングを受けて以降、精神的にボロボロにされたオフサイドは自己否定の言葉ばかり繰り返すようになっていたが、今回のそれは今までと違っていた。
完全に絶望してしまっている、そう感じた。
「嘘だと言って下さい!先輩が絶望したのは、あの理不尽なバッシングの嵐と栄光を貶めた連中のせいです!そうに決まってます!」
ゴールドの必死な言葉に、オフサイドはつと俯きつつ、答えた。
「バッシングは苦しかったわ。受けた仕打ちもね。でも、それは間違いじゃないのよ。」
「は?」
「現実を見れば分かるでしょう。私には責められるだけの理由があることしか出来なかったと。」
「バカなこと言わないで下さい!」
オフサイドの返答に、思わずゴールドは身を震わせて怒声を上げた。
あの天皇賞・秋。
ゴールドはオフサイドの走りを最も間近で目の当たりにした。
スズカの故障にも全く動揺を見せずにコースをとり、直線で先頭に立ってからは最後まで走りきった姿を。
必死に追い縋った自分を振り切ったあの凄まじい粘りを。
その姿は、同じく自分の猛追を凌ぎきった天皇賞・春のメジロブライト、宝塚記念のサイレンススズカと同じG1勝者の走りそのものだった。
「責められて当然?そんな訳ないじゃないですか!責められて当然なのは、先輩の栄光を貶めバッシングした連中達の方です!あんな理不尽なバッシングに先輩は…」
「ゴールド、」
怒りを込めて叫ぶゴールドの言葉を制し、オフサイドは俯いたまま言った。
「私も、私を責める人達に非があると思いたかったわ。でもね、自分に嘘はつけないの。」
「自分に嘘?どういう意味ですか…?」
ゴールドが再び眉を顰めると、オフサイドは小さく頷いて続けた。
「うん。だって、私自身が一番よく分かったんだから。私は、第118回天皇賞ウマ娘の名誉に値する走りが出来なかった現実に。」
「何故、そんなことを思ったんですか。」
ゴールドは荒い息を洩らす唇を噛んだ。
「酷評されたタイムのせいですか?なら…」
「タイムだけじゃないわ。誰の印象にも残らない、称賛もされない走りをしてしまったことよ。」
オフサイドの頬の微笑が、やや引き攣った。
「先輩の走りが称賛されないのは、誰もまだそれを顧みてないからです。」
ゴールドは、胸中の苦しさを耐えるように言った。
「あの天皇賞・秋は、スズカの怪我のショックとその印象が強く残り過ぎて…」
「それはなんの言い訳にもならないわ。もしそうなら、“スズカが無事だったら”と振り返られることもなかったのだから。」
オフサイドは、僅かに語気を強めた。
「現実として、私の走りは結果的な勝者というもの以外は何も残せなかった。それは紛れもない現実なの。」
「違います!」
ゴールドも語気を強め、思わずオフサイドの胸元を両手で掴みあげた。
「先輩の走りは、確かに栄光に相応しいものでした!…悲願の栄光を手にする寸前で先輩に負けたこの私が言うのですから間違いありません!先輩はバッシングに害されてそう思ってしまってるだけです!」
「…。」
涙まじりに声を上げたゴールドを見、オフサイドはまた少し吐息をすると、胸元を掴みあげている彼女の腕を解いた。
「ゴールド、」
震える彼女の肩にそっと手を当て、オフサイドは言った。
「あなたは、私がこれまでなんの為に生きてきたか、そしてどんな想いで天皇賞・秋を走ったか、分かるでしょう。」
「っ…」
ピクッと、ゴールドは反応した。
「私は、〈死神〉、絶望と闘う同胞達に少しでも明るい未来を見せる為、生きてきた。そしてようやく手にしたあの天皇賞・秋の舞台で、それを示そうと命を懸けた。それともう一つ…もう一つの想いも一緒にね。」
オフサイドは感情を静かに吐露するように、言葉を絞り出した
「だけど、私はあの天皇賞・秋で、その未来を見せることが果たして出来たのかな?心の底からそう言える、そんな走りが出来たのかな?みんなが認める天皇賞ウマ娘の走りが出来たのかな?」
「出来たと私は…」
「じゃあなんで、皆悲しんでいるの?悲しみに閉ざされたまま、あのレースを見ることが出来ないでいるの?…真の栄光なら悲劇に覆われる筈はないのに。この現実は、どう説明すればいいのかしら。」
「…。」
言葉を重ねたオフサイドに、ゴールドは蒼い表情で返答に詰まった。
それを見、オフサイドはゆっくりと言った。
「誰にも顧みられない、悲しみに覆い隠された栄光。私はその程度の走りしか出来なかった。それが現実なのよ。そして、永遠なの。」
“永遠”。
最後の台詞は重い、本当に重い口調だった。
「でも、帰還なんてしないでください!」
反論が見つからなくなり、ゴールドは無我夢中でオフサイドの腕を掴んで叫んだ。
「まだ、有馬記念があります!私…優勝しますから!優勝して、先輩の名誉を取り戻して、チームも立て直しますから!その為に、私ずっと頑張ってきました!だから、帰還だけは…」
「ごめん、ゴールド。」
オフサイドは、ゴールドの掴んだ手を再びそっと解いた。
「私、生きる気力がもうなくなったの。」
「え…。」
「この先の未来に、何の夢も希望もないの。もう脚も残っていないわ。あの天皇賞・秋で、全て使い切った。その結果がああだった以上、もう私には帰還しか残されてないの。」
「そんなこと言わないで下さい!先輩はどんな絶望にも屈しなかった、強いウマ娘なんですから!」
「ゴールド。私は、栄光を掴んだ走りが顧みられない現実を前に生きていける程、強いウマ娘じゃないんだ。辛く悲しくて、不甲斐なくて悔しくて惨めで、そして、申し訳なくて。」
“申し訳なくて”。
その最後の台詞にも、言いようのない重さがあった。
それはゴールドの胸にもずしりと響いた。
「オフサイド先輩、」
ゴールドは、オフサイドの静かな瞳を見つめて、最後の気力を絞って尋ねた。
「先輩は、〈死神〉に勝ったではありませんか?その誇りは、ないのですか?」
ゴールドのその尋ねに、オフサイドはフーッと大きく深呼吸し、つと眼を逸らして夜空を仰いだ。
「ゴールド、違うわ。」
仰いだまま、オフサイドは声を震わせながら言った。
「私は、〈死神〉に負けたのよ。」
その台詞に、ゴールドは奈落の底に落ちるような喪失感を全身に感じた。
「…っ」
ゴールドは声にならない嘆きと共に、踵を返すと目元を抑えて駆け出した。
それきりオフサイドのことは振り返らなかった。
「車を出して下さい!」
送迎されたメジロ家車両の元に駆け戻ると、ゴールドは目元を抑えたままそこに待機していた使用人に叫んだ。