1998年11月1日「消された天皇賞覇者」   作:防人の唄

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粉々(8)

 

「…。」

 

耳を塞いでいるスズカは、もう全身の慄えが止まらなくなっていた。

そんなことが、そんなことが起きてたの…?

信じられない事実を次々と告げられ、彼女の心は蝕まれていくのを感じた。

 

でも、まだ恐ろしい事実が残っていた。

 

身体が慄える中、スズカはそれを予感していた。

「それじゃ、オフサイド先輩はまさか…」

慄える眼で、出来ればそうであって欲しくないと願ったスズカの質問に、ゴールドも慄えだしながら答えた。

「そうよ、オフサイド先輩は…」

 

「やめなさい!」

ゴールドが言葉を続けようとした時、室外から医師の大きな声が聞こえた。

見ると、鍵が外されかかっているのか、扉が少しずつ開き出していた。

「ステイゴールド!それ以上は何も伝えてはいけません!」

同胞の声なども幾つか聞こえた。

ブルボン先輩やライス先輩も来てたのか…

ゴールドは溜息をつくと扉の前に立ち、扉の開放を阻止するように身体を預けた。

 

そして再びスズカを向くと、声を震わせながら叫んだ。

「〈無価値の天皇賞覇者〉の烙印を押された上、膨大で理不尽なバッシングを受けたオフサイド先輩は、絶望に叩き落とされたわ。心が壊れたの。全てに絶望して、それで…それで…今度の有馬記念で帰還する決意をしてしまったのよ!」

 

「…。」

耳を抑えていたスズカの腕が、折れた枝のようにバタッと膝元に落ちた。

全てが崩れる音が聞こえ、目の前が真っ暗になった気がした。

 

 

「ステイゴールド!」

「スズカ。あんたなら、そこまで絶望したオフサイド先輩の心の悲痛さが分かるわよね?」

扉をこじ開けようとするブルボンの叫びを無視し、ゴールドはただ茫然と眼を見開いているだけの状態になったスズカに、嵐の中にいるような激しさで言葉を続けた。

「先輩は夢も希望も、不屈すらも失ったんだわ。理不尽なバッシングだけなら耐えられたかもしれない。でも、誰も先輩の走りを顧みようとしなかった。走りすら顧みられずに、栄光に値しない・無価値の烙印をおされた。そのことに絶望してしまったのよ。その果てに先輩は、天皇賞の栄光に相応しくない走りをしたことが悪いと、自らを責めてしまった。それが帰還の決意だわ!」

 

「ゴールド!やめろ!」

堰が切れたようにゴールドが言葉を吐き出す中、室外からも大声と共に扉を開ける力が一気に強まり、ゴールドの踏ん張る脚が押され始めた。

押されながらゴールドは、なおも言葉を続けた。

「私が、帰還なんてしないでと泣いて懇願した時、先輩はなんて答えたと思う?“もう私に脚は残ってない”って言った後、こう続けたのよ!“私は〈死神〉に負けた”って!」

 

ゴールドのその叫びは、茫然と眼を見開いているスズカの耳にも、室外から必死に扉を開こうとしているブルボンや医師、駆けつけたライス・椎菜・ルソー、へたり込んだままのスペの耳にもはっきりと聞こえた。

一瞬、その空間の時間が止まった気がした。

 

 

「そ…んな…」

止まった空間の中で、スズカは絶望的な呟きとともに、ぐったりとベッドの背に倒れるようにもたれかかった。

告げられるショックな出来事の連続に、彼女は眼は見開いたまま、殆ど意識を失いかけていた。

 

…はあ…はあ…

荒い呼吸で髪と汗を散らして言葉を続けていたゴールドも、半分気を失いかけていた。

だがゴールドは気力を絞って、意識を保とうと首を振りながら、なおも言葉を続けた。

「私…先輩がそこまで追い詰められていたなんて、気づかなかった。一番間近にいた仲間なのに…馬鹿だよね…最低だよね。…何やってたんだろ、私…。」

額の汗を拭いつつ言ったゴールドの口調が、急に穏やかになっていた。

 

 

…?

室外から蒼白な表情で現場を見守っていたルソーとライスは、その口調の変化に、背筋にぞっと冷たい悪寒を感じた。

「ゴールド?」

「ゴールドさん⁉︎」

懸命に扉を開こうとしているブルボンや医師をかき分けて前に出ると、二人は思わず呼びかけた。

だがゴールドは、二人の呼びかけになんの反応も見せなかった。

扉越しに聞こえる彼女の荒い呼吸が、異常な速さで落ち着いてきてるのが分かった。

 

「でも、私は守りたかったんだ。オフサイド先輩も、そしてスズカも。」

先程までとはまるで違う、異常なほどの穏やかな口調で、ゴールドはぐったりしているスズカを見つめた。

「これ以上誰も傷つかない結末を模索して、その道筋を見つけて、ずっと頑張ってたつもりだった。…でも、全部無意味になっちゃったよ。考えてみれば当然だよね。誰も傷つけたくないという私の思いの、その本心は、そうすることで自分が傷つかないようにする為だったから…。」

言いながら、ゴールドは自分の胸元を爪立てる程に掴み締めた。

 

「…。」

ぐったりとしたまま、スズカは何も答えなかった。

だがまだ意識が残っているのか、その言葉に微かに眼が反応して見えた。

その微かな視線を見つめ返して、ゴールドは言った。

「こんな現状になった以上、私には責任があると思うの。…誰よりも、誰よりも深く傷つかなければならない責任が。」

そう言った後、ゴールドは胸元から手を離すと、眼を瞑って深く深呼吸した。

 

 

「いけない!」

ゴールドのその言葉と雰囲気に、室外にいた者達はこれ以上ない程の悪い予感がした。

ブルボンと医師は再び扉を開こうと力を込めた。

しかし、ゴールドに塞がれた扉は開かなかった。

「ゴールド、お前まさか…」

「いけないわゴールドさん!」

ライスとルソーも叫んだ。

「…。」

椎菜は、へたり込んだまま動けないスペの傍らに付き添いながら、ただ唇を噛み締めていた。

 

 

ふ…

深呼吸した後、ゴールドはゆっくりと眼を開けると、開けかかる扉を背で阻止しつつ、ベッド上のスズカを見つめた。

両眼から涙が溢れ、頬を筋状に伝って光っていた。

涙を拭わず、ゴールドは唇を震わせて、静かな声で言った。

 

 

「サイレンススズカ。なんであなたは、あのレースで故障なんてしたの?」

 

 

その言葉は、これ以上ない程の衝撃と重さでスズカに突き刺さり、胸を抉って貫通した。

外で聞いていたライス、ルソー、ブルボン、医師、椎菜の胸にも深く突き刺さった。

そしてゴールド自身の胸にも、重く深く突き刺さった。

また、空間と時間が止まった感覚がした。

 

「…」

貫通した衝撃に、スズカは何も言葉を発せず、見開いた眼はただ茫然とゴールドを見つめ返していた。

ゴホッ…はあ…

ゴールドは血を吐くような咳をして、ふらつながらなおも言葉を続けた。

「あなたが故障なんてしなければ、絶対にこんなことにはならなかったのに。誰も悲しんだり、傷つくことはなかったのに。」

「…。」

冷たい汗が一筋、スズカの蒼白に染まった頬に伝った。

 

「そして、オフサイド先輩が理不尽に責められることもなかった。無価値な走りと烙印されることもなかった。絶望することだって、帰還決意に追い込まれることなんてなかった!」

ゴールドの静かな口調はやがて激しくなり、彼女が心の奥底に抑えていた感情、深い深い悲しみが、堰を切って爆発した。

「ステイゴールド!もうやめて!」

扉の向こうからライスが悲痛な声で叫んだが、ゴールドの耳にはもう入らなかった。

 

「スズカが悪いんだから!」

最後の力を振り絞って扉を止めながら、ゴールドは涙を溢れさせて全ての悲しみを吐き出すように叫んだ。

「ねえ、返してよ!オフサイド先輩の栄光を!心を、脚を、返して!スズカは“夢を与えるウマ娘”なんでしょ?なのに、なんで先輩を不幸にしたの?ねえ、なんであの天皇賞を壊してしまったのよっ…」

 

 

私の故障が、天皇賞・秋を滅茶苦茶にした…

私の悲劇が、みんなをこれ以上ないくらい悲しませた…そして、天皇賞・秋の栄光を貶めさせた…

私が、オフサイド先輩の全てを奪った…

死神…

 

閉ざされかかる意識の中、様々な言葉と記憶が、スズカの脳内を蹂躙するように駆け巡った。

「あ…あ…!…」

頭を抑えて絶望的な叫び声を発すると同時に、スズカの見開いていた眼が閉じた。

身体がぐらりと傾き、スズカは清廉な顔を蒼白に苦悶させてベッド上に崩れ落ち、意識を失った。

 

 

「…。」

ベッド上で意識を失ったスズカがうつ伏せに倒れたのを目の当たりに、ゴールドは涙を溢したまま、全身の力が抜け落ちていくのを感じた。

終わった…。

同時に勢いよく扉が開かれ、弾みで彼女の身体は数歩のめると、涙を散らしながら音をたてて床に倒れた。

 

 

「スズカ!」

「ゴールド!」

扉をこじ開けると、医師とブルボン達は室内に駆け込んだ。

 

「スズカ!」

医師はすぐに意識を失っているスズカの元へいき、その容態を確かめながら、施設内にいる医師達に来るよう緊急連絡をとった。

 

ブルボンは、床に倒れているゴールドの側に飛び込んだ。

「ステイゴールド!」

「駄目ですブルボンさん!」

ゴールドを押さえつけようとしたブルボンを、ライスが止めた。

ライスは、力尽きたようにうつぶせに倒れているゴールドの、絶え絶えの呼吸をしている唇元と汗に濡れている額に手を当てた。

「熱を出しています。そして心にも、相当なショックを受けています。」

ライスの蒼い瞳が、悲嘆に震えていた。

「…。」

ブルボンも、唇を噛み締めて沈痛な表情になった。

 

「…ゴールド。」

ブルボンとライスの間を割って、ルソーがゴールドの側に来た。

「馬鹿野郎、何故お前が…」

ぐったりしている仲間の身体を膝の上に抱き上げると、その涙に濡れた表情を見つめながら、声を震わせて俯いた。

 

「…んね…スズ…カ…」

ルソーの膝上で仰向けにされたゴールドは、まだ僅かに開いている眼で虚空を見つながら、涙を頬に伝わせてうわ言のように言葉を洩らしていた。

「…ごめん…ね…スズカ…ごめんね…」

数言呟いた後、ゴールドも力尽き、ぐったりと意識を失った。

意識を失った後も、彼女の閉ざされた瞼からは涙が溢れていた。

 

 

一方、スペも半ば意識を失った足取りで、椎菜に支えられながらスズカの枕元に歩み寄った。

スズカ…さん…

スズカの、その蒼白に染まった意識のない表情を見て、スペは再び床に崩れ落ちた。

その後、医師が次々と現場に駆けつける中、スペは床にへたり込んだまま茫然と状況を見ているしか出来なかった。

 

 

12月24日。有馬記念まで、あと3日。

 

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