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場は変わり、メジロ家の別荘。
この日も朝陽が昇る前から、オフサイドトラップは外の競走場で有馬記念に向けた調整を行っていた。
「…。」
淡々と調整に励むその姿を、競走場の片隅で杖をつきながらじっと見守るように観察している一人の人間がいた。
昨晩に入院先の病院からこのメジロ家の別荘へ身柄を移した、元『フォアマン』トレーナーの岡田正貴だった。
「岡田トレーナー。」
オフサイドの姿にじっと視線を注ぎ続けている岡田の元に、同じく先日からメジロ家に居たケンザンが来た。
彼女は外出支度を整えた姿だった。
「行って来ます。オフサイドのことを、宜しくお願いします。」
「ああ。」
ケンザンの手短かな挨拶と言葉に、岡田は背を向けたまま頷いた。
ケンザンは踵を返し、待機しているメジロ家の車両に乗り込むと、別荘を去っていった。
ケンザンが去った後も、岡田はオフサイドの調整をずっと見守っていた。
何の言葉もかけず、ただ無言でじっと。
オフサイドも岡田を気にする素振りは全く見せず、黙々と調整を続けていた。
岡田とオフサイドがまだ顔を合わせていないわけではない。
既に昨晩、岡田はケンザンと共にこの別荘に来訪し、オフサイドと会っていた。
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昨晩のこと。
「久しぶりだな、オフサイドトラップ。」
「岡田トレーナー。」
メジロ家別荘に駆けつけたかつての恩師の姿を見た時、流石のオフサイドも驚きを隠せないでいた。
だがそれもほんの僅かの間だけで、すぐに冷静になったオフサイドは岡田に尋ねた。
「『スピカ』の沖埜トレーナーと、お会いになったんですか?」
「ああ。」
「…そうですか。」
自分が願ったことを、沖埜トレーナーはすぐに行動に移してくれたんですねと、オフサイドは安心した微笑を浮かべた。
最も、岡田がここに来た理由はそれとは別だと分かっていたが。
「この後まだ調整があるので、失礼します。」
会話もそこそこに、オフサイドはそう断ると、恩師と別れ部屋の方へ戻っていった。
岡田も強いてオフサイドと折衝をしようとはしなかった。
昨晩の二人の接触は、それだけで終わっていた。
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それから一夜明けた今朝。
オフサイドと岡田はまだ挨拶すらしていなかった。
黙々と調整に励むオフサイドを岡田はただ見守る、それだけだった。
だが、オフサイドの心中はともかく、岡田の心中は昨晩にあった時と比べて色々と動いていた。
何故なら、まだ夜が明ける前に、療養施設で起きた事の急報がマックイーンから彼に届いたから。
岡田(とケンザン)はその急報を受けたものの、オフサイドにはまだそれは伝えられていなかった。
彼女に伝えるか否かは、マックイーンの意向で岡田に任されていたから。
やがて、オフサイドは早朝の調整を終えた。
汗を拭いながら、彼女は岡田の元に来た。
「岡田トレーナー、おはようございます。」
「おはよう、オフサイド。」
初めてこの日の挨拶を交わしながら、二人は競走場を出た。
別荘の部屋に戻ると、オフサイドはいつものように脚部のケアを始めた。
まず不安のある左脚、そして長年〈死神〉との闘いを続けている右脚を。
「…。」
淡々とケアを行っているその様子を、岡田は競走場の時と同じように傍らで黙って見守っていた。
それでも、包帯が外されたオフサイドの右脚の患部の状態を見た時は、流石に顔がこわばった。
ここ数年、彼女のその箇所を生で見た者はごく僅かしかいない。
その状態がもう限界であることは、一目で分かる程だった。
だけど、岡田は何も言わなかった。
オフサイドも岡田の視線を気にすることなく、黙々と脚部のケアを続けた。
やがて、オフサイドはケアを終えた。
それを見計らい、岡田は口を開いた。
「さっき、マックイーンから緊急連絡があった。」
「…?」
「スズカが、天皇賞・秋後にお前の身に起きたことを知ったらしい。伝えたのはゴールドだということだ。」
オフサイドの表情が、僅かに動いた。
「それで、どうなりました?」
「スズカはショックで倒れた。現在懸命に手当てを行っているが厳しい状態らしい。…ゴールドの方も別室で手当てを受けているようだ。」
「ゴールドも?」
「あいつは高熱を出してたらしい。スズカに全てを伝えた後に倒れたということだ。容態に別状はない。」
「そう…ですか。」
オフサイドの瞳は翳っていた。
だが、オフサイドはそれ以上何も尋ねなかった。
岡田も、それ以上は何も伝えなかった。
沈黙が、室内に流れた。
やがて、岡田は部屋を出ていった。
やはりな。
別荘内の自分の為に用意された部屋に戻ると、岡田は険しい表情を浮かべながら、こちらも患っている病気の対応薬を飲んだ。
前述のように、岡田が急報を受けたのは明け方前。
その後彼はケンザンと相談し、彼女のみを療養施設に急行させた。
岡田が残ったのは、今自分は絶対にオフサイドの元を離れてはいけないと判断したのと、施設の出来事を彼女に伝える為だ。
とはいえ、現在の彼女に急報を伝えたところでどんな反応するかは、大体想定がついていた。
そしてその想定通り、オフサイドは事に対して特に気にする素振りを見せなかった。
彼女の心中は、二日後に迫った有馬記念とそのレースで帰還する一点だけに集中しきっている。
自らの命を終する決意を固めきっている以上、他人への感情など殆ど消えているようだった。
だけど。
「それでいいのか、オフサイド。」
水と一緒に薬を飲み込みながら、岡田は呟いた。
お前の目指した蹄跡は、そんな結末を望んでいたのか?
必ず栄光を手にするという大きな夢を立てて〈死神〉と真っ向から何度も闘い、闇夜の中でもがき続けた末、遂に完全に閉ざされていた筈の重い扉をこじ開けた。
それは、お前の大きな誇りだったんじゃないのか?
俺の反対すら押し切って、あの天皇賞・秋を生きて、勝って、帰ってきたウマ娘じゃないか。
オフサイドのターフでの生き様を、岡田はこの世界の誰よりも見てきた人間。
だから、彼女が帰還決意にまで追い詰められた理由も、誰よりも深く分かっていた。
自分が生きてきた世界と現実の乖離。
ウマ娘としての自らの能力の限界。
そして何より、ナリタブライアン。
そして、単にそれらの絶望によって帰還決意に追い込まれたというのではなく、オフサイドはそこに自らの使命を見出してしまったであろうということを。
一方。
「バカ。」
岡田が出ていった後、一人になった別荘の自部屋で、オフサイドは脚を休ませながら悲しげに呟いた。
ゴールド、スズカ、なんであなた達まで。
消えるのは私一人だけでいい。
なのに、何故。
昨夕、自分の決意を泣いて翻そうとしたゴールドの行動が思い出された。
私は、全ての絶望を自分に向けることが出来たから、誰も責めずに終わることができるのに。
なのに…。
脳裏に、チーム仲間として過ごしたゴールドとスズカの明るい美しい姿と記憶が思い起こされた。
あなた達にまで、この絶望の領域に巻き込まれて欲しくなかった。
オフサイドは溜息を吐いた。
感情も何もない、空虚な溜息だった。
メジロ家の別荘に、昇った朝陽の陽光が射し込み始めていた。
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場は変わり、療養施設の最上階。
「あ。」
廊下のベンチにずっと黙念と座っていたライスは、後ろの窓から射しこむ朝の陽光に気づき、杖をついて立ち上がると、外の光景に眼を向けた。
「…。」
ライスの傍らにいたブルボンも、つられるように立ち上がり、同じように外へ眼を向けた。
寒さに覆われていた高原一面を、朝陽の光が暖かく照らし出していた。
思わず吐息が出そうな程の美しい朝の景色が、一面に広がっていた。
「美しいわ、空。」
「…。」
何か、溢れそうなものを堪えたライスの呟きに、ブルボンは眼を瞑って頷いた。
この日、やや荒れていた昨日と変わり、朝から澄み渡った快晴が冬の大空一面に広がっていた。