少し経つとケンザンはゴールドから手を離し、椎菜に尋ねた。
「スズカの状態は、どうですか?」
「スズカは、まだ意識不明だわ。身体に異変は起きてないけど、受けたショックが大き過ぎる。医師達がつきっきりで手当てしてるけど、再び意識が戻るのはいつになるかその目処も立ってないわ。」
意識を失う間際のスズカの叫びと、失った後の苦悶の表情を思い返して、椎菜は暗い声で答えた。
スズカ…
椎菜の言葉を聞き、ケンザンは眼を瞑ってスズカの姿を思い浮かべた。
ゴールドと同じくスズカとチーム仲間だったのはほんの短い期間で、その後スズカがチーム離脱をしたこともあり彼女とはここ数年会っていない。
それでもやはり彼女に対しては、他の同胞と比べて仲間意識の思いは強かった。
究極の美しい走りを求め、皆に幸せを与えることを夢見た同胞が、こんなことになってしまうなんて。
ケンザンの胸中には悲しい痛みが走っていた。
眼を瞑っているケンザンに、今度は椎菜が尋ねた。
「オフサイドトラップは、どうしてる?」
「…。」
ここしばらくオフサイドと生活を共にしていたケンザンは、少し間を置いてから答えた。
「黙々と有馬記念に向けての調整を行ってます。もうオフサイドは、有馬記念で散ること以外に何も考えていません。」
…。
椎菜は二三度首を振り、更に尋ねた。
「あなたでも、翻意はさせられなかったの?」
「私では駄目でした。オフサイドと違い、私はあまりにも幸せ過ぎる競走生活を送りました。絶望と無縁だった同胞の言葉では、今のオフサイドの決意はとても動かせません。」
故障とは無縁でかつ夢も叶え、愛する同胞の幸福も見届けることが出来たケンザンはそう答え、そして続けた。
「今のオフサイドの決意を変えられるのは、岡田トレーナーとサクラローレル、後はあなたぐらいしか見当たりません。」
「私が?」
「あなたは絶望と闘うオフサイドと共にその現場で生きてきた人間ですから。」
「私は、見てきただけよ。」
ケンザンの言葉に、椎菜はまた首を振りながら答えた。
「第一、私は医務以外でウマ娘を救う資格なんてないわ。走りを失い未来を失ってしまった何百人ものウマ娘を、ただ帰還させることしか出来なかったこの私にはね。」
自分が還したウマ娘達の最期を幾つも脳裏に蘇らせながら、椎菜は唇を噛み締めた。
「オフサイドが絶望したのは、この世界の理不尽な部分を一身に受けてしまったから。私は、その理不尽の最先端の存在でもあるのよ。本当は還りたくないウマ娘達の心を知りながら、私は帰還させる手を止めようとしなかったんだから。」
「…。」
椎菜の言葉を聞き、ケンザンは一瞬吐き気が込み上げ、口元に手を当てた。
だがやがて、ケンザンは口元から手を離すと、椎菜をやや強い視線で見つめて言った。
「ではあなたは、このままオフサイドが絶望の果てに帰還していくのを見ているだけのつもりですか?」
「そんなこと言わないで!」
椎菜は思わず大きな声を出し、泣きそうな眼でケンザンを睨んだ。
「なら、あなたはどうなの?オフサイドと同じ仲間で長い間密接な関係にあったのに、オフサイドの絶望を変えられないと言ってたけど?」
「私は、私にしか出来ないことをします。」
椎菜の指摘に、ケンザンは淡々と答えた。
「直接変えることは出来なくても、周囲の状況は動かせます。例えほんの僅かだろうと、その可能性を拡げる為に私は動きます。」
「そう。じゃあ例えば、どんなことをしようとしてるの?」
「彼女に不屈を刻み込ませた同胞や、〈死神〉との闘いを教えた同胞の協力をあおぎます。」
ケンザンは即答した。
不屈を刻み込ませたウマ娘、〈死神〉との闘いを教えたウマ娘…
「なるほどね…。」
椎菜は、それが誰だかうっすらと分かった。
ケンザンは膝下に手を組み、言葉を続けた。
「現状、彼女達の力でもオフサイドの決意を変えられるかは厳しいと思いますが、それでも僅かだがオフサイドの心は動かせると、そう信じています。」
現状は全てが最悪に近い状況だということは、ケンザンにも分かっていた。
でも、動くしかない。
オフサイドの為に、スズカの為に、ゴールドやルソーの為に、そしてウマ娘の未来の為には、終焉の時が来るまでは例え駄目でももがいて足掻くしかないんだ。
「先程、先生は“理不尽の最先端にいた自分はウマ娘を救う資格などない”と仰いましたね?」
「うん。」
「でも、ウマ娘を見る人間達の心を変えられることは、先生ならば出来うると思います。」
「人間達の心を変えられる?」
「ええ。だからどうか、心を保って下さい。」
ケンザンは多くは語らずにそう言うと、椎菜の疲労した瞳を見つめながら手を握った。
「ウマ娘と人間の、未来の為に。」
「…。」
椎菜は、何も答えられず、ただケンザンの眼を見つめ返していた。
その後、椎菜は医務の為病室を去っていった。
ケンザンは一人病室に残って、ルソーとゴールドの看護を続けていた。