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スズカがマックイーンと連絡をとっている頃。
特別病室の外の廊下では、病室を退出した沖埜がベンチで待機していた。
感情を殆ど表に現さない彼は、今も普段通りの端正で穏やかな表情で椅子に座っていた。
「…。」
いつもと変わらない表情の中で、彼は天皇賞・秋のことを脳裏に思い返していた。
決して思い返したくない、その日の記憶を。
あの11月1日、沖埜は万全の自信と大きな夢をもって、スズカを天皇賞・秋の舞台に送り出した。
毎日王冠での史上に残る快勝から約3週間、スズカのレースへの調整はその時以上に仕上がっていた。
当日の調子も絶好調で、毎日王冠以上のレースが出来るという手応えを、スズカも沖埜も強く感じていた。
レース前、沖埜がスズカに与えたアドバイスはただ一つ。
“マイペースで気持ちよく走ってこい”
それだけだった。
正直、沖埜はこのレースでスズカが勝つことは彼女の状態や他の出走者のレベルを考えてももう確実だと見ていた。
気になるのはその内容。
果たしてどれだけの美しい走りとタイムが残せるか、それだけに注目していた。
そしてレースが始まり、抜群のスタートを切ったスズカがマイペースの走りで後続をどんどん引き離していく姿を見て、沖埜はとてつもないレースになることを確信した。
全く焦りも淀みもない、自然体でとてつもないマイペース。
1000mを57秒前半という途轍もない速さで駆け抜けても、スズカのペースと自然体に揺らぎは全くなかった。
…凄い。
自身の想定すら超えて、ウマ娘の理想を体現していくスズカに、沖埜ですら思わず感嘆を覚えた程だった。
だけど、大欅を超えた3コーナー。
マイペースで走り続けていたスズカの姿が突然不自然な動きをしたその瞬間を、沖埜は誰よりも速く気づいていた。
その瞬間、沖埜の大きな夢と高揚していた心は、現実の奈落の底に突き落とされた。
スズカ故障後、沖埜はスペと共にすぐの彼女の元に駆け寄った。
その後、瀕死の重傷で意識を失ったスズカを救急車に乗せて以降、彼の記憶はショックの為殆ど失われている。
その後に続く記憶は、スズカが一命を取り留めた数日後にまで経過していた。
スズカが救かり最悪の事態は免れたものの、沖埜はかつてない程打ちのめされていた。
それはスズカの走りが失われたかもしれないという無念だけでなく、トレーナーとして彼女の限界を見誤っていたという自責も大きかった。
スズカに対して故障のリスクを考えることを怠っていた…
その結果が、彼女の脚を壊した。
ウマ娘の身を第一に考えるべき立場であるにもにも関わらず…
かつて沖埜は9年前、シャダイカグラというG1ウマ娘を輩出した。
そのウマ娘の引退レースで、沖埜は直前に彼女の脚の状態が悪いことに気付いたが、出走を止める方針はとらず、勝敗は考えずに無事に完走するだけでいいという指示をして彼女をレースに送り出した。
だが彼女はG1ウマ娘の誇りからか勝敗を意識してしまい、脚に無理をさせて走ってしまった。
結果、彼女は完走したものの惨敗。
それもレース中に靭帯断裂の重傷を負って、最下位の20着という結果だった。
幸い予後不良にはならなかったが、一歩間違えれば最悪の事態になっていた。
そのことを深く後悔した沖埜は、以後はウマ娘の無事を第一に考えてレースに送り出すよう自らを戒めた。
その戒めはずっと守り続け、決して危機感を怠ることなく、チームのメンバーをレースに送り出し続けてきた。
だが今回、それを…
深い自責にかられた沖埜は、従来の彼からは信じられないくらい行動が乱れた。
酒に溺れ泥酔したり、学園を何度も欠勤した。
その状態を心配した学園関係者達が彼の行動の監視にあたる程だった。
実際、沖埜はトレーナーを辞めて学園を去ろうかと考える程にまで追い詰められていた。
自責の念に憔悴しながらも、彼はスペを初めとした『スピカ』チームのウマ娘、またトレーナー仲間達の支えを受けて少しずつ回復していった。
そして天皇賞・秋から一月経った頃には、普段の状態にまで戻ることが出来ていた。
しかしまだ、沖埜の心の奥にある傷は消えていなかった。
自分が、スズカの脚を壊した。
故障する可能性を見抜けなかった。
その深い自責だけは、消そうとしても消せなかった。
はっきり言って、スズカの故障を予期出来た者など殆どいない。
故障とは全く無縁で、それまでのレースやトレーニングにですら微塵にもその前兆がなかった彼女が、絶好調の状態で挑んだ大レースで突然脚が砕けるなど、誰が予想できるだろうか。
いつもなら故障したウマ娘の陣営に向けられる非難の声すらないのは、その表れでもあった。
だがそのことを踏まえても、沖埜の自責は消えなかった。
それに、その自責だけじゃない。
今後スズカに、どのような未来の道を示していけばいいのだろうか。
そのことも沖埜を苦悶させていた。
瀕死の重傷から奇跡の復活を目指すスズカ。
その大きな目標の後押しをしてやるべきなのか、それとも…
今はそれどころじゃない…
自責と苦悩を脳裏に渦巻かせていた沖埜は、つと眼を瞑った。
今、天皇賞・秋後の騒動を知ったスズカの心の状態は、かなり深刻だと彼は直感していた。
繊細なスズカのことだ、絶望して最悪の選択をしかねない。
どんなことになろうとも、それだけは阻止しなければ。
自分も、その一因…
沖埜は小さく唇を噛んだ。
意識朦朧とした状態だったとはいえ、あのレース後に吐いてしまった言葉は決して消せない。
若いとはいえ、ウマ娘界の顔といっていい存在である沖埜は、自分の発言の影響力を自覚していた。
自分は罰を受けても構わない。
だがスズカ、お前にまで累が及ぶのだけは避けなければ。
両手を口元に結びながら、沖埜は深く息を吐いた。
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『沖埜トレーナーの発言は、あれは報道の切り取りですわ。』
特別病室内。
スズカから受けた質問に対し、マックイーンは冷静に答えた。
『確かに、報道で載せられた内容の言葉はありました。しかしインタビューの全文を確認すれば、沖埜トレーナーの発言には大きな問題がないことが確認出来ましたわ。世論に誤解を与えてしまった咎は多少あるかもしれませんが、彼がオフサイドトラップの勝利を貶す意図で発言した可能性は決してないと断言できます。』
「そう、ですか…」
マックイーンの返答を受けたスズカは、彼女らしくない、疑念に満ちた呟きを洩らした。
今、スズカは誰一人として信じられる状態じゃない…
マックイーンはそう悟った。
彼女への心痛と自身の罪悪感を感じながら、マックイーンは続けた。
「お話は以上ですか?」
「…。」
少しの沈黙をおいた後、スズカは言った。
「オフサイドトラップ先輩と、連絡取れますか?」
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場は変わり、メジロ家の別荘。
午後になってからも、オフサイドは競走場で黙々と調整を続けていた。
そして競走場の隅では、朝と同じように岡田が彼女の調整をずっと見守っていた。
15時を過ぎた頃。
「岡田トレーナー。」
岡田のもとに、先日から別荘に派遣されている生徒会役員のビワハヤヒデが駆け寄ってきた。
「何か用か?」
「実は…」
岡田のもとに来たビワの手には、通話中のスマホが握られていた。
彼女はそのまま岡田に、ある用件を伝えた。
「そうか、分かった。」
それを聞いた岡田は、その用件が来るのを予測していたように頷くと、オフサイドのもとへと向かった。
「オフサイド。」
「…はい?」
集中してランニングを行っていたオフサイドは、不意に声をかけられて怪訝な表情を浮かべた。
「どうしたんですか、岡田トレーナー。」
「療養施設から連絡が入った。スズカが意識を取り戻したらしい。スズカは…お前と話がしたいそうだ。」
岡田はオフサイドの光のない眼を見つめ、努めて平然とした口調で告げた。
「…。」
オフサイドは特に反応も見せず、少考した後に乾いた声で答えた。
「お断り下さい。」
返答するなり、オフサイドはすぐに岡田に背を向け、ランニングを再開した。