1998年11月1日「消された天皇賞覇者」   作:防人の唄

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来訪者(2)

 

夕暮れに差し掛かる頃、そのウマ娘は療養施設に着いた。

 

3年ぶりだな…

施設に入った彼女は、施設内の空気をすーっと大きく吸いこみ深呼吸した。

この療養施設特有のひんやりとした空気も懐かしい。

自分も長いこと、ここで生活したな。

当時の療養仲間との思い出や、故障との闘いの日々が脳裏に蘇った。

 

施設内を歩いていくうち、彼女は多くの療養ウマ娘達とすれ違った。

そのうちの何人かは、彼女の姿を見て驚きの表情を浮かべていた。

特に、クッケン炎療養ウマ娘達が。

もっとも、彼女と顔見知りの者は誰もいなかった為、声をかける者はいなかった。

 

療養ウマ娘以外にも、彼女は人間の医師達ともすれ違った。

「おや。」

「お久しぶりです。」

療養ウマ娘と違い、医師の中には彼女と顔見知りの者もおり、何人かは彼女と挨拶をかわした。

医師達も、来訪した彼女を見て驚いた様子だった。

 

 

やがて、彼女は施設の医務室の一つ…渡辺椎菜の医務室の前に着いた。

コンコン。

「どうぞ。」

ノックをすると、椎菜の返事が聞こえた。

 

「失礼します。」

扉を開けると、椎菜は彼女が来るのを待っていたように椅子に座っていた。

入室した彼女を見るなり、椎菜は疲労の色が滲む表情にほっと笑みを浮かべた。

「久しぶりね、ダンツシアトル。」

「お久しぶりです。椎菜先生。」

帽子をとり、ダンツシアトルは笑顔で挨拶を返した。

 

 

ダンツシアトル。

数年前に引退した元トレセン学園生徒の彼女は、現役中に骨折やクッケン炎を患い、長くここで療養生活を送っていたウマ娘。

その相次ぐ重度の故障を乗り越えてG1を制覇したウマ娘であり、この療養施設では伝説的な存在だった。

椎菜が今朝連絡をとり、来て欲しいと頼んでいた相手はシアトルだった。

 

 

「まさかこんなに早く来てくれるとはね。遠かったでしょ?」

「ええまあ。」

九州に生活しているシアトルは、差し出されたコーヒーを受け取りながら頷いた。

「でも、他ならない椎菜先生の頼みでしたし、一刻も早く来た方がいいと思いましてね。」

「そう。」

シアトルも連絡が来ることを前々から察知していたのかなと、返答を聞いた椎菜は思った。

「でも、本当に良く来てくれたわ。」

自分もコーヒーを飲みつつ、ぽつりと言った。

「もうあなたは、私達や学園の事と関わることはないと思ってたから。」

「…。」

シアトルは何も言わず、コーヒーを無言で飲んだ。

 

 

前述のように、シアトルは故障を乗り越えてG1を制したウマ娘。

特に、不治の病と恐れられるクッケン炎を乗り越えての栄光はウマ娘史上初めてといえる快挙でもあった。

だがその栄光や不屈の足跡は、表では語られることも讃えられることも殆どない。

シアトルが制したG1は3年前の宝塚記念。

レース中に、当時人気絶頂だったスターウマ娘のライスシャワーが悲劇の故障に見舞われたレースであり、その悲劇の印象があまりにも大きかったから。

 

だが、幾多の艱難辛苦を乗り越えた末に手にした栄光が閉ざされた現実は、シアトルの胸中にも深い影を落とした。

それは、引退後彼女が一切学園に関わらず、地方へ去ったことからも明らかだった。

 

 

「学園に関わりたくないと思った訳ではありません。」

シアトルはコーヒーを置き、手元に視線を落とした。

「ただ、現実を受け入れる為の時間と、自分が得たものの答えを探す時間が欲しかっただけです。それを見つけない限りは何も出来ませんでしたから。」

「…。」

シアトルの言葉の一つ一つに、言いようのない重さがあった。

椎菜はそう感じ、それ以上は何も言わなかった。

 

 

少し経った後、椎菜は尋ねた。

「この間の天皇賞・秋の後に起きた事、そして今度の有馬記念を前にして起きている色々な事については、あなたも知ってるわね?」

「ええ。オフサイドトラップに対しての、理不尽な風当たりのことですね。」

「うん。そのことが、クッケン炎の療養ウマ娘達にもかなり悪影響となって出ていてね。」

 

椎菜は、〈クッケン炎〉療養ウマ娘達の状況を詳しく説明した。

ただ、有馬記念におけるオフサイドの決意のことや、昨晩に起きた出来事については話さなかった。

 

「全体的にかなり苦しい状況だわ。リーダー的存在だった子も状態が悪くなって、支えがなくなっているの。」

「なるほど。」

椎菜の説明を聞いたシアトルは納得したように頷いた。

「あなたなら、ただいてくれるだけでも療養ウマ娘達にとって大きな支えになるわ。私にとっても。だから、どうか助けて欲しい。」

切に願うように言うと、椎菜は手を伸ばした。

「分かりました。微力ですが、先生や療養している同胞達の力になれるのなら。」

シアトルは快活な表情で力強く答えると、椎菜の手を強く握り返した。

 

 

「ただ、一つ聞きたいことが。」

手を離した後、シアトルは椎菜に尋ねた。

「ここに来る途中、ライスシャワー先輩の姿を見ました。ライス先輩もここに来ているのですか?」

「あー、うん。彼女は別件でここに来ているの。」

「別件?」

「サイレンススズカ。」

「…。」

椎菜の短い返答に、シアトルはすぐその内容を察し、それ以上は尋ねなかった。

 

しばしの沈黙が流れた後、椎菜は言った。

「もし良かったらでいいから、ライスとも会ってあげて欲しいわ。」

「ライス先輩とですか。」

「うん。彼女も、あの宝塚の悪夢にまだ呪縛されたままだから。」

「悪夢?」

「そう、悪夢。」

先日、ライスと会った際に彼女が見せた悔恨の姿が、脳裏に蘇った。

 

それに…

「隠してたけど、彼女の脚の状態はかなり悪そうだったわ。もしかすると、もう永くないかもしれない。」

「…え。」

「だとしたら、ライスが還る前に、彼女をあの宝塚の呪縛から解き放ってあげて。あなたの為にも。」

現在起きているオフサイドとスズカの件も脳裏に、椎菜は願った。

 

「…。」

椎菜の言葉に対し、シアトルは何も答えず、黙ってコーヒーを飲んだ。

 


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