一方。
最上階に着いたライス達は、すぐさま特別病室へと向かった。
特別病室の前には、待機していたブルボンと、スペの姿があった。
「…。」
スペの姿を見て、ライスは思わず息を呑んだ。
明るい天使のようなウマ娘であった筈のスペは、ブルボンに支えられて立ってこそいるが、まるで折れかけの枝のような姿になっていたから。
何か声をかけようとしたが、今はとても声をかけられる雰囲気ではなかった。
「ブルボンさん。」
スペから目を逸らし、ライスはブルボンを向いた。
「スズカさんに何があったのですか?」
「かなり心身を取り乱した状態になりました。沖埜トレーナーや医師の先生方が対応しています。ライスも行って下さい。」
「はい。」
ブルボンの言葉に頷くと、ライスは杖を置いて特別病室へと入っていった。
特別病室内には数人の医師がベッドの周囲にひしめいていた。
そこから少し離れた室内の隅の方で、沖埜が状況をじっと見守るように座っていた。
そしてベッド上のスズカは、医師達の対応や質問にも一切答えずに、ぐったりとうなだれた状態で座っていた。
心が奈落の底に落ちたのかと思う程表情が白くなっていて、頬には冷たい汗が流れた痕があった。
「…。」
ショックを隠しながら、ライスは沖埜の傍らへ行った。
そのまま、呼吸を懸命に整えながら、医師達とスズカの様子を見守った。
「…。」
沖埜は傍らに来たライスをちらと見たが何も言わず、端正な無表情のまま無言でスズカの様子を見守り続けていた。
一方、室外に残ったケンザンと美久。
ケンザンは室内の様子をしばらく気にしていたが、やがて憔悴しているスペの方へ眼が移った。
「大丈夫か、スペシャルウィーク。」
「…はい。」
ケンザンの問いかけにスペはなんとか答えたが、その声も消えそうな灯火のようにか細かった。
「宿泊室に戻った方がいい。」
「いえ…私は…」
「無理するな。」
私が付き添うから戻ろう、とケンザンは腕を差し伸べた。
「スペシャルウィーク、私が沖埜トレーナーに話しておきますので、どうぞ部屋へ戻られて下さい。」
二人のやり取りを見て、ブルボンも同意する様に言った。
「…はい。」
スペは小声で頷くと、ブルボンの傍を離れてよろよろしながら廊下を歩き始めた。
ケンザンはすぐにスペに付き添うように傍らに立ち、二人は最上階を出ていった。
「…あなたは…フジヤマケンザン先輩…ですか?」
エレベーターを降りてる最中、スペは今ようやく気づいたようにケンザンを見上げた。
「ああ、私はフジヤマケンザンだ。」
「先輩は…確か『フォアマン』の」
「関係ない。」
何か言いかけたスペを、ケンザンは眼で制した。
「同じウマ娘だろうが。」
やがて、エレベーターは下の階に着いた。
エレベーターを降りた後、スペはケンザンに支えられながら宿泊室への廊下を歩いた。
その、普段とは全く違う彼女の姿を、何人もの療養ウマ娘達は目の当たりにし、衝撃を受けていた。
一体何があったのか…
皆、悪い予感しかしなかった。
宿泊室に着くと、ケンザンはスペをベッドに休ませ、彼女の為にお茶を用意した。
「飲みな。少しだが身体が温まると思う。」
「…。」
スペは頭を下げると、茶を淹れた碗を受け取り、一口喫した。
茶の温かさが喉の奥から身体全体に広がった。
「…う…うっ…」
同時に、スペの眼から堪えていた涙が堰を切ったように溢れ出した。
「…うっ…うっ…スズカさん……ごめんなさい…うっ…」
「…。」
ケンザンは号泣するスペの傍らに座り、着ていた上着をそっと彼女の肩に被せた。
もう何が起きたのか、大体想像がついていた。
可哀想に…
7世代下の後輩のウマ娘の、取り返しのつかないような悲嘆を前に胸が痛んだ。
こんなにいい奴が、なんでこんなことに…
立場的には、スペに対して別の感情があってもおかしくなかった。
だがケンザンは今、ただ黙ってスペの傍らに寄り添ってあげる以外考えられなかった。
一方その頃、ルソーの病室。
…スペ。
自販機で飲み物を買いに行って今しがた戻ってきたルソーは椅子に座りながら溜息を吐いた。
戻る途中、ケンザンに支えられていたスペの憔悴した姿を見たからだ。
スズカと何かあったなと、ルソーは確信していた。
考えられるとすればただ一つ。
私の指示を実行に移したのか…
私のせいだ。
ルソーの心中は、後悔の念で一杯になっていった。
私がスペを責めずに赦してあげて、善後策を考えてあげれば…
天使のウマ娘の憔悴した姿が脳裏に強く残り、口元を抑えた。
私だって凄く苦しい立場にあるけど、だからといってあやまちをおかしたスペを必要以上に責めて過酷な要求を突きつけたのは本当に愚かだった。
同胞の未来を考えたら、するべき行為ではなかった。
今更後悔しても遅い。
でも、後悔せずにはいられなかった。
スズカ…
ルソーの胸中には、かつてのチーム後輩である神速のウマ娘の姿も映し出された。
彼女は今、尊敬していたオフサイドとはあまりにも深い溝を負わされ、無二の親友のゴールドとは絶望的な亀裂が生じ、そして親友以上のスペとも今…
「…うっ…」
悲惨過ぎると、抑えた唇元から思わず嘆きが洩れた。
脚も走りも夢も失った上に、大切な存在まで彼女は失っているじゃないか。
このまま、絶望の果てに帰還に追い込まれたとしたら…
再び、ルソーの胸中の後悔は強くなった。
彼女はベッドに横になり、シーツを頭まで被った。
私が、スズカのことを思い遣っていれば、こんなことにはならなかった。
自分自身、あの天皇賞・秋以後今日まで非常な苦境と絶望に陥っている。
でも、病症仲間達を支えるという思い忘れなかった。
それなら、スズカのことだってもっと思いやれた筈だ。
スズカが一命を取り留めた時は、心の底から嬉しかったのに…
ルソーの嘆きと後悔は、止まることがなかった。
ルソー先輩…
彼女の嘆く様子を、傍らのベッドにいるゴールドは気づいていた。
だが今は何も尋ねる気力もなく、ただ黙っていた。
こっから、終焉に向かっていくのか…
オフサイド先輩も、スズカも、そして皆も…
「ごめんね…」
どさっと倒れ込むようにベッド上に横になったゴールドの唇からも、嘆きが洩れていた。
再び最上階。
「サンエ…三永美久、」
特別病室の前で待機を続けているブルボンは、同じく傍らで待機している美久につと声をかけた。
「なんでしょうか。」
「あなたはもう、この施設から去った方がいいかもしれません。」
「え?」
「もうここでは、幸せな写真は取れないでしょうから。」
美久の首にさがっているカメラを見つつ、無感情な口調でブルボンはそう言った。