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療養施設。
シアトル・ライス・美久の三人は上着を羽織って、施設の外に出た。
夜になった外は満天の星空だった。
冬の高原なので当然かなり寒かったが、この日は寒風は少ないのでそこまで肌寒くはなかった。
三人は夕方頃ライスとブルボンが会話していたあたりの芝生の場所まで行き、そこに腰を下ろした。
「綺麗な夜空ですね。」
膝を組んだシアトルは夜空を見上げ、うっとりとした口調で言った。
「現役時代の療養生活中もそうでしたが、ここから眺められる夜空の光景には本当に心を癒されましたね。」
「そうですね。」
ライスも同じように見上げた。
自身も療養時代、何度もこの夜空を眺めていた。
しばしの間夜空を仰いでいたシアトルだが、やがて視線を下ろすと、ライスの方を見ずにゆっくりと再び口を開いた。
「ライス先輩とお話するのは、今日が初めてですね。」
「ええ。」
ライスもシアトルを見ずに頷いた。
年齢はライスがシアトルの一歳上。
チームも違いトレーニング仲間でもなく、闘ったレースも一戦だけなので、二人の接点は殆どない。
あるのは、一時期この施設で同時期に療養生活を送っていたことと、唯一闘ったあの宝塚記念だけだ。
「でも、この3年半、私の胸中からシアトルさんの姿が消えたことはありませんでした。」
ライスは重く言葉を絞り出した。
3年半の思いが詰まっているように聞こえた。
「私もです。」
ライスの言葉の重みを感じつつ、シアトルも顔を膝に埋めながら言葉を返した。
「あの宝塚記念以降、ライス先輩の姿がずっと残り続けてましたから。様々な感情を渦巻かせながら。」
「…。」
快活だったシアトルの口調が重く変わり、ライスは胸が締め付けられた。
「…宝塚記念、」
ライスは、胸中に痛みを伴わせながら言葉を絞り出した。
「宜しければ、あの宝塚記念の後から今日に至るまでのシアトルさんの出来事を、教えて頂けますか。」
「…。」
シアトルは、つとライスを見た。
「何故、そんなことを知りたいのですか?」
「知らなければいけないからです。私の故障が、あなたに何を背負わせてしまったかを。」
腕を左脚に当てつつ、ライスは蒼芒も口調もやや震えていた。
シアトルはライスの揺れる蒼芒をじっと見つめた。
『ライスを、宝塚の呪縛から解き放って欲しい』
脳裏に、椎菜の言葉が再び蘇った。
やはり、本当だったんだな。
「分かりました。」
シアトルはふっと息を吐き、ライスから眼を逸らした。
「お話します。あの宝塚記念、そして宝塚記念後、更に引退後から今日に至るまで、ライス先輩の故障が私にどれだけの影響を及ぼしたのかを。」
シアトルの言葉に、積年の重みがのしかかっていた。
「はい。」
ライスはぎゅっと自らの身体を守るように抱きしめた。
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(ダンツシアトル回想)
3年半前、宝塚記念。
デビューから約3年、私は遂に掴んだ夢舞台に立っていた。
レースには、幾多のG1覇者や歴戦の重賞覇者など今までとはまるで違う強豪達が揃っていた。
その中で、私は2番人気に推された。
前レースでようやく初重賞制覇したばかりなのにと驚いたけど、大きな期待を受けたことはやはり嬉しかった。
いや、まずこの舞台に立てたことが何より嬉しかった。
骨折、不治の病、幾多の仲間との別れ、その苦しい悲しい歳月を乗り越えて掴んだ大舞台だったから。
憧れだった同胞達と同じ舞台で闘えることにも高揚した。
同期のタイシンやネーハイ、サクラチトセオー先輩、そしあのライス先輩。
同じ舞台にいることが夢みたいだった。
それらの嬉しさとは別に、このレースで勝たなければならないという思いも強かった。
幾度の故障に苦しんだ脚はいつ限界が来てもおかしくない。
今、幸い脚部は安定しており、レースでも最大限の力が発揮できている。
こんなチャンスは2度とない。
だから、勝たねば。
私は心にそう強く誓っていた。
栄光の為に、仲間の為に、生き残る為に。
そして、夢舞台のレースは始まった。
スピードが出ると見られていたバ場状態の中、予想通りレースはスタートから比較的速いペースで進んだ。
無難なスタートを切った私は、先頭勢でレースを進めていた。
いける!
レース序盤から、私はかなり良い手応えを感じていた。
そして速いペースのまま3コーナを迎え、私は内内からスパートをかけ始めた。
その時、大観衆からもの凄いどよめきと悲鳴のようなものが聞こえた。
後方で何か起きたのかな?
私は一瞬気になったが、レース展開に特に動きはなかったので、大したことはないと判断しレースに集中した。
そのまま4コーナーから直線に入ると、私はラストスパートをかけた。
内内から前にいた走者を交わし、残り200m前で先頭に立った。
最後はタイキブリザードやエアダブリンが猛追してきたがそれを必死に凌ぎ、私は先頭でゴールを駆け抜けた。
やった!
ゴール後、私は嬉しさのあまり思わず叫んだ。
遂に夢のG1を制した。
しかもタイムはレコードだった。
長年の苦境を乗り越えて、大きな栄光を掴んだことに歓喜した。
だけど。
…?
しばらく歓喜の中に浸っていた私は、場内の雰囲気がおかしいことに気づいた。
何故だか、ずっとざわざわしてる。
騒然としている雰囲気で、歓声もあまり聞こえない。
それに何より大観衆の殆どが、勝者である私を見ていない。
誰もが、別の方向へ視線を奪われていた。
なんだろう…
私も同じ方向、3コーナーの方を向いた。
そして、全身が戦慄した。
あのライスシャワー先輩が、無残な故障を負って倒れている姿が眼に入ったから。
同時に、レースの途中で聞こえたあのどよめきはライス先輩に故障が起きた時のものだとも分かった。
その後、何人もの救護班や同胞達が瀕死状態のライス先輩の元へ駆けつけ、懸命の応急処置にあたっていた。
救急車もすぐに駆けつけ、ライス先輩は搬送されていった。
その間、場内はずっと騒然としていた。
ライス先輩の故障は生命が危険な程の重傷だと誰もが感じとっていた。
人気実力共にウマ娘界随一の先輩の身に起きた悲劇に、観衆からは泣き声や悲嘆も多く聞こえた。
G1レースとは思えない、異様な空気になっていた。
そうした状況下で、私は混乱し始めていた。
G1を制した歓喜の一方で、憧れでもあったライス先輩の身に起きた悲劇への悲しみも胸中を浸し出していたから。
夢を叶えた、栄光を掴んだ。
凄く嬉しい、嬉しいはずなのに、喜びきれない。
勝者への祝福がない場内の雰囲気も、混乱に拍車をかけた。
喜べる状況じゃない、笑顔になってはいけない…
私の心から、勝利の歓喜が消えていった。
その後、迎えたレース後の表彰式。
ライス先輩の悲劇のショックに覆われた雰囲気の中、私は笑顔がないまま表彰台に立った。
そして、優勝インタビューで今の胸中を尋ねられた時、私はこう答えてしまった。
「…ライス先輩の故障がショックで、とても喜べないです…」
私にとって夢を叶えられた筈の宝塚記念は、喜びも笑顔も閉ざした状態で終わった。