しばらくの間、沈黙が流れた。
聞こえるのは時折靡く寒風の音だけで、シアトルもライスも美久もずっと黙っていた。
やがて、
「遅くなってしまいましたが、」
ライスは蒼白な表情で俯いたまま、絶え入りそうな声で口を開いた。
「ダンツシアトルさん。私の故障が、あなたの栄光を閉ざしてしまったことを…本当に…ごめんなさい。」
「ライス先輩が謝る必要はないですよ。」
言葉にならない謝罪を受けたシアトルは、ライスの方を見ずに首を振った。
「勿論、心のどこかで、『ライス先輩の故障がなければ』という思いがあったことは事実です。でも先輩を責めたくなる程にはなりませんでした。だってあれはどうしようもないこと。ウマ娘のレース中の故障は誰にでも起きうる。絶対はない世界なのですから。」
「だとしましても、私は…」
「むしろ詫びるべきは私の方です。」
つと、ライスの言葉を遮るように、シアトルは口調を変えて言った。
「もっと早く、先輩を苦しみから解放させてあげたかったのに、ここまで時間がかかってしまったんですから。」
「え?」
「私が生きてた理由の一つがそれですから。何故なら、ライス先輩もあの宝塚記念を背負って苦しんでいることは間違いないと感じてましたから。かつて、祝福なき栄光に幾度も苦しんだ過去を持つ先輩なら。」
「私の苦しみ…」
「ただ、先輩を苦しみから解放させる為には、まず覇者である私がそれから解放されなければならないと思ってました。だから、私はずっと探し続けていました。」
「探し続けていた?」
「私が現役時代、あの宝塚記念に至るまでに得たものをです。」
シアトルは再び夜空に眼を向けた。
先程やや険しくなっていた口調が、穏やかなものに戻っていた。
安住の地を見つけて以後、月日が経つにつれ、シアトルは自分が現役中に得たものは何だったのか考えるようになっていた。
一時期はもう当時のことなど二度と思い出したくないという程記憶を閉ざしていたが、新たな生活をスタートしたことでそれを見つめなおさなければと思うようになっていた。
特に、競争生活の集大成となったあの宝塚記念で得たものを。
悲劇に塗りつぶされた忌まわしいレースだと諦めていたけど、本当にそうなのか。
レースで走りきること、そして勝つことの尊厳は失われてたのか。
「そして、私はあの宝塚記念で残した自分の走りの記録を見返す決心をしたんです。一時はもう二度と見たくないと思っていたレースの内容を…宝塚記念から2年程経った頃でした。」
当初は見返すことなどとても出来なかった。
途中で何度も記録のテープを止めた。
ライスが故障した瞬間のどよめき、レース後の異様な状況、周囲の微妙な視線。
それらの辛過ぎる記憶を思い出して、頭痛に襲われたり吐き気を催すことも多々あった。
それでも、何百回と挑んでいくうち、遂に自分の走りを全て見返すことが出来るようになった。
「その時、私はようやく分かったんです。私が得たものはこれだったんだと。」
全てを見返すことが出来た、宝塚記念での自分の走った姿。
それはまさに最高のものだった。
自分の持っている全てを出し切っていた。
スタートからの位置取り、淀みないペース、3コーナーから直線向いてからのスパート、そして最内から先頭に立ってそのまま他を捩じ伏せてゴールした自らの姿を見て、忘れかけていたレース時の記憶も思い出した。
このレースに全てをかけて挑んだ自分、その全てを捧げてかけたラストスパートを。
「あのレースで私は、持っている力の全てを出し切った走りが出来ていました。レースでそれが出来ることは非常に難しい。一度も出来ないウマ娘だって多い。でも私は出来ていた。〈死神〉に冒されて二度と本気で走ることが出来ない脚だった筈なのに、それを許されていた。」
脳裏でレースを思い返しながら、シアトルは感慨深そうに言った。
表情も、快活で満ち足りた微笑に変わっていた。
「全てを出し切り、最高の走りが出来た。ウマ娘としてそれは何よりも嬉しいことです。それに加えて、私は勝つことも出来た。これが幸せなことでなくてなんでしょうか。」
「…。」
「勿論、勝者として祝福や称賛を受けたかった思いや、あのレースでの私の走りをもっと多くの人々に見てもらいたかったという思いは残っています。」
無言で聞き続けているライスの傍らでシアトルは正直に吐露し、ですがと続けた。
「私があの宝塚記念で得たもの…ウマ娘として最高の走りと結果を得ることが出来たのは間違いありません。これは絶対に侵されることも失うこともない素晴らしいものです。ウマ娘ダンツシアトルが得た最高の誇りであり名誉です。それだけで、私は充分満ち足りました。」
「シアトルさん…」
「それに、私が今生活と仕事の場を与えられたことも、あの宝塚記念で得られた大きなものの一つでしょう。表には出ずとも、私の勝利を見てくれていた人達がいた、覚えてくれた人達がいたから、私は引退後の場を与えられた。それだけでも、本当に良かったと思えます。」
そこまで話し終えると、シアトルは夜空の星々を仰ぎながら深く深呼吸し、耳元の黒髪に触れながらにっこりとライスを見つめた。
「もう今では、私はあの宝塚記念を複雑な記憶として残してはいません。私がウマ娘として最高のものを得ることが出来た夢舞台だったと、胸を張って言えることが出来ます。そう、私は誇り高き第36回宝塚記念の覇者・ダンツシアトルだと。」
嘘偽りの全くない、言葉通り誇りと幸福感に満ちた口調で、シアトルは言った。
「…。」
シアトルの満ち足りた表情を、ライスはしばし茫然と見つめていた。
だがやがて、
「う…うっ…」
ライスの眼から、涙がポロポロと溢れ出した。
許してくれた…乗り越えてくれた…
止めようとしても、溢れ出した思いは到底抑えきれなかった。
「…ありがとう…シアトルさん…」
3年半、心の奥底で背負い続けていたものが、左脚の痛みと共に浄化されていく感覚がした。
「ライス先輩…」
シアトルも声を詰まらせると、笑顔のままライスの肩をぎゅっと抱き寄せた。
「お互い、長かったですね。でも、良かったです。」
また、巡り会うことが出来たから…
「…はい…本当に…本当に…」
涙を溢れさせたまま、ライスもシアトルの肩を抱き返した。
ライス…シアトルさん…
傍らで二人の様子を見守っていた美久も、目元が潤み始めていた。
口元を抑えながら、美久はカメラを取り出し、二人の姿にレンズの照準を合わせた。
今なら、ウマ娘の幸せな姿を撮ることが出来る…。
冬の夜空の下、シャッターの音が静かに響いた。