『…何だって?』
怪訝な反応をした岡田に、沖埜は淡々と続けた。
「今の私が事態打開の為に出来る最大限のことはそれしかありません。大衆がオフサイドトラップに抱いてしまった誤解を解く為にも。」
沖埜は、ただ責任をとってトレーナーを辞めるつもりではなかった。
辞める前に、天皇賞・秋後に自らがおかした浅慮な言動の非を公に謝罪し、オフサイドの名誉を回復させるのが目的だった。
現状どう考えても、オフサイドが救われない限りスズカも救われることはない。
だが、今自らが直接オフサイドに対して行動を起こすのは出来ない現状だ。
ならば打つ手は、公に対して行動を起こし、それによってオフサイドに影響を与える以外にないと考えていた。
「オフサイドトラップの決意のことは隠します。私が公で彼女に謝罪しその責任をとることで、世間の彼女に対する視線は必ず変わる筈です。そうなれば、オフサイドの決意にも何かしらの影響を与えることは間違いありません。だから、私はそれをしなければなりません。」
『お前がウマ娘界を去ってもか?』
「オフサイドの決意は帰還です。私も同等の覚悟をもってあたらねば、決意を揺るがすことは不可能ですから。」
『もし、オフサイドの決意を変えられたとして、その後はどうなる?』
岡田の口調は険しかった。
『お前を失った『スピカ』のウマ娘達は?』
「彼女達のことは手を尽くしてその後の居場所を見つけます。メンバーは皆私でなくともレースを生きていける素質をもってますから。」
『スズカやスペは?二人とも、事において消えようのない罪悪感を背負ってしまってる。いくらお前が一人で責任を負おうとしても、二人のそれは消せないだろ。』
「そこは、」
一番の懸念である点を衝かれ沖埜は一瞬声に詰まったが、すぐに続けた。
「二人に対しては、決して罪悪感などを背負わないよう私が諭します。その為には、岡田さんや『フォアマン』のウマ娘達にも力を貸して頂きたいと願ってます。」
『フォアマン』の協力?』
「私がそれを頼む資格はないと思いますが、どうか二人の為に、どうか宜しくお願いします。」
『要するに、天皇賞・秋後の事全ての責任は沖埜一人で背負うということだな。』
「はい。私はそれだけのことをしましたから。」
沖埜の口調は、ずっと普段のままだった。
*****
「お前の思いはよく分かった。」
メジロ家別荘の一室。
沖埜の決意を聞いた岡田は静かな口調に戻した。
沖埜の普段と変わらない態度の中に、重大な覚悟を決めたことも分かった。
そして言葉の裏に隠れた彼の葛藤や計算にも、薄々勘付いた。
だが岡田はそこは言及することなく、冷徹な口調で言葉を返した。
「はっきり言うが、お前が今言った行動をとった結果、目論み通り大衆のオフサイドを見る目が一変したとしても、オフサイドの決意は絶対に揺るがないぞ。」
『どういうことですか。』
「オフサイドの決意は、もう違う次元に踏み込んでしまったということだ。大切な同胞であるケンザンの言葉もゴールドの言葉も、そして私の言葉ですら届かないところにな。お前が全てを捨てる覚悟で彼女の為に行動しようとしても、決して届かん。」
先程見せつけられたその領域を思い出しつつ言った。
『それでも、行動しないよりは可能性があります。』
「それはその通りだ。だがな沖埜、」
岡田の口調が、トレーナーの先輩としての厳しさを帯びた。
「お前のとろうとしている行動は最善ではない。間違っている。」
『…。』
岡田の口調と言葉に沖埜は黙った。
岡田は厳しい口調で続けた。
「第一、お前は事の全てを一身に背負って解決させると言ってるが、これは絶望の底に落ちたオフサイドと同じじゃないか。お前まで彼女と同じ道を辿る気か。」
『私には、その責任が』
「愚かな責任の取り方だ。」
沖埜の言葉より早く岡田は断言した。
『…。』
冷徹な断言に沖埜は再び沈黙し、岡田は更に言った。
「沖埜、私は昨日から『スズカを救うことだけ考えろ』とお前に伝えてきた。それは、暗にオフサイドのことは考えるなという意味だ。」
『スズカを救うには、オフサイドトラップが救われない限り不可能です。』
「その考えが、間違っている。」
『…え?』
「はっきり言う。今のお前がオフサイドの為に行動を起こすのは無理だ。お前は先の先まで考え過ぎている。残酷なことをしようとしてる自覚があるだろ?」
岡田は沖埜の肺腑をつくように冷酷に言った。
「今のお前が出来ることは、お前の仲間達…サイレンススズカを救うことだけだ。」
「…。」
「オフサイドへの謝罪だけは受け入れてやる。公に謝罪するのも構わない。ただそれ以上は余計なことはするな。これはオフサイドを守る人間としての要求だ。お前がどうなろうと構わんが、これ以上彼女を追い込むような真似は断じて許さん。」
「…。」
「最後にもう一度言う。お前はスズカを救うことだけを考えろ。彼女を救い守れる人間はお前だけなんだ。思い出せ。お前がこの世界に入ったその理由を。」
最後は諭すような口調で告げると、岡田は電話を切った。
*****
電話を切られた沖埜は、端正な表情のうちに僅かに険しさを滲ませてベンチ前に立ち尽くしていた。
「くそっ…」
思わず、歯軋りした。
岡田トレーナー、あなたには、私の思惑は全部見抜かれてましたか。
しばらく険しい表情で立ち尽くしていたが、やがて落ち着きを取り戻すと、脳裏に岡田の最後の言葉がよぎった。
『スズカを救い守れる人間はお前だけだ』
『思い出せ、お前がこの世界に入った理由を』
この世界に入った理由を、ですか…
岡田の言葉を口元でぽつぽつ反芻すると、沖埜はコートを翻して遊歩道を戻っていった。
闇夜の中、彼の秀麗な瞳が異様な光を帯び出していた。
*****
一方、沖埜と電話を終えた岡田は、別荘の外に出た。
外の競走場では、オフサイドが闇夜の中でトレーニングを行っていた。
彼女の窶れた表情のうちに、眼光が異様な程落ち着いた光を帯びていた。
そして時折彼女の姿から、先程の恐るべき領域の影が醸し出されていた。
そんなオフサイドの様子を、岡田は競走場の入り口でじっと見守っていた。
予想より遥かに厳しいな…病気の薬を飲み下しながら、岡田は唇を噛んだ。
有馬で帰還するという彼女の決意の固さはもう尋常な対応では変えられそうにない。
何せ、彼女の絶望があまりにも巨大かつ重過ぎる。
「“〈死神〉の領域”か…」
見せつけられたその領域が、ずっと岡田の脳裏に焼き付いていた。
〈クッケン炎〉に散った幾千のウマ娘達。
理不尽に砕かれた栄光と失われた誇り、それによる虚。
限界を迎えた脚と希望なき未来。
帰還に使命を見出した程の絶望。
そして何より大きいであろう、愛する同胞との永別。
それら全てが心身を蝕んだ果てに、その領域に入ってしまったのか。
いや、〈死神〉に領域を侵され、奪われてしまったのか。
幾度も巨大な絶望を乗り越えたオフサイドの心をも破壊した絶望。
一体どうすれば、これらを全て消し去って、〈死神〉からオフサイドを奪還できるだろうか。
しかも、残された時間はもう僅かだというのに。
「…くそ。」
岡田は思わず呻き声をもらした。
ナリタブライアン、お前が生きていれば…
オフサイドの心の最大の支えであったウマ娘の面影が、脳裏に悲しみを伴って浮かんだ。
でもまだ、もう一人いる。
サクラローレル、お前に託すしかない。
お前が戻ってくるまでに、総力をもってオフサイドの絶望を崩していくから。
だからどうか。
「無事に帰って来てくれ…」
夜空を仰ぎ、岡田は心底から願った。
*****
私、なんて愚かだったんだろう。
なんで気づかなかったんだろう。
オフサイド先輩が私に会いに来なかった理由をどうして深く考えなかったんだろう。
何故周囲の言葉を鵜呑みにしてしまったんだろう。
何故、何故あの天皇賞・秋のことを顧みようとしなかったんだろう。
何もかも私が壊してたんだ。
オフサイド先輩の心も、スペさんの心もゴールドの心も、その他の同胞達の心も、沖埜トレーナーの心も、人間達の心も。
私のせいで、皆傷つき、壊れ、悪意と悲しみに満たされた。
こんな、こんなことになるのだったら。
私なんて、走らなければ良かった。
夢なんて追わなければ良かった。
助からなければ良かった。
あのまま、帰還してしまえば良かった。
帰還すれば…良かった…