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場は変わり、スペの宿泊室。
室内にはスペとルソーの二人がいた。
沖埜やケンザンの姿はなかった。
夕方以降から変わらず、スペはずっとベッド上で膝を抱えてうずくまっていた。
ルソーが持ってきた夕食にも箸をつけなかった。
食欲旺盛な彼女でも今はとても食べられる状態ではなかった。
そんな彼女を、ルソーは傍らでずっと見守っていた。
話しかけることも殆どなく、ただ見守っているだけだった。
21時を過ぎた頃。
「スペ、少しでも夕食は食べたらどうだ。」
置かれたままのニンジン弁当を見て、ルソーはそう促した。
「今はとても食べられません。ルソー先輩どうぞ。」
「私はさっき食べてきた。少しでも食べないと身体が弱るぞ。」
「…大丈夫です。」
スペは蒼白になっている顔を縦に振らなかった。
「…。」
ルソーもそれ以上は強く促せず、再び黙った。
スペの今の心情は、スズカやオフサイドを絶望に落としたという自責を抱えている現状、食事することすら憚っているのだろう。
今後の展開も解決策も良化するものが全く見当たらない以上、その心情を動かすことは到底難しかった。
「…もし、」
またしばらく経った頃、ずっと黙っていたスペが、ポツリと口を開いた。
「もしこのまま、オフサイド先輩が有馬記念で帰還してしまって、その反動でスズカさんも帰還を選ぶというようなことがあれば、…もしそんな未来になってしまったら、」
「スペ…」
そんなこと考えてはダメと言おうとしたルソーだが、その前にスペは続けた。
「…その時は…私もスズカさんと一緒に…」
それ以上の言葉は言わなかったが、暗にその意味はルソーにも伝わった。
「…何を言ってるの。」
眼を見開いたルソーに、スペはまたぞっとするほど寂しい眼を見せた。
「私にはその責任があります。いや、それに関係なく、私はスズカさんのいないこの世界を生きていけそうにありません。」
「スペ。」
「スズカさんのいないこの世界で生きていくくらいなら…私も…」
「駄目、そんなことは」
「ルソー先輩も、オフサイド先輩の決意を知って、同じことを考えていたのでは?」
反対の言葉を言いかけたルソーに、スペは刺すような言葉を続けた。
「オフサイド先輩が帰還してしまった時、先輩はこの世界を生きていけますか?」
「…っ。」
自分の絶望を見透かしたようなスペに対し、ルソーは言葉が詰まった。
駄目だと言わなければ…
だけど言葉にならない、いや出来ない。
「…。」
何も言い返すことが出来ず、ルソーは背を向けた。
スペもそれ以上は何も言わず、ただ俯いていた。
真っ暗な重い雰囲気が室内に充満した。
そんなことしてはいけない…
スペに言えなかった言葉が、ルソーの胸中で渦巻いていた。
どんなに絶望しても、帰還を選ぶことは。
その先の言葉が見つからなかった。
どうして駄目だったんだっけ?…
見つからない言葉と記憶の中、ルソーは苦悩し続けていた。
*****
施設の食堂には、沖埜とケンザンの姿があった。
就寝時間が迫ったこともあり、食堂にこの二人以外の姿はなかった。
先にここにいたのはケンザンで、沖埜は後からここに来た。といっても二人は会釈を交わした程度で会話もせず、それぞれ別の席に座っていた。
どうしたのだろう…
スマホで何か作業していたケンザンは何度かチラチラと気になるように、離れた場所で一人コーヒーを飲んでいる沖埜の姿に視線を向けていた。
夕方に会った時と比べて、彼の雰囲気が険しくなっているのが明らかだったから。
スズカにスペの行動を話した影響からだと推測はついていたが、それにしてもかなり険しい。
状況が状況だけにそれは当然なのかもしれないが、普段の冷静な彼とはまるで違う。
まるで何か重大な決意を固めたような姿に映った。
似てるな…
ケンザンの記憶に蘇ったのは、2年半前の日経賞後の『フォアマン』のこと。
シグナルライトの突然の悲劇と帰還に、チームは一時崩壊しそうな程のダメージを負った。
自分もブライアンもローレルもオフサイドもルソーもタッチもコンコルドもそして岡田も、悲しみのどん底に突き落とされた。
特にルソーと、岡田トレーナーの状態が大変だった。
蘇った当時の記憶に、ケンザンは思わず目頭に指を当てて眼を瞑った。
あれを乗り越えたのは、全員で必死に支えあったから。
一月後の天皇賞・春まで、本当に折れそうな心を皆で支えあった結果、凌ぎきれた。
今、沖埜率いる『スピカ』も同じ状況だなと、ケンザンは思った。
これ以上ない程順風満帆に見えた中で起きたスズカの悲劇、それによって引き起こされた悪い連鎖にスペが巻き込まれた。
その現状に、沖埜もどれほどのショックと自責を背負っているかは想像がついた。
もしかすると、あの時の岡田と同じような覚悟をしてしまっているのかもしれないな。
…。
ケンザンは首を振り、それ以上沖埜らの事に思考が傾くことを自制した。
今は自らの『フォアマン』の方が重大だった。
オフサイドだけでなく、心身衰弱状態のルソーとゴールドもいる。
今は自分達の現状を乗り越えることが重要だ。
そうしなければ、『スピカ』だって救われないのだから。
無論最重要なのは、オフサイドの決意を翻意させることだが。
岡田トレーナー、ルソーとゴールドは私が守ります。
なのでどうか、オフサイドをお願いします。
脳裏で、ケンザンは恩師に祈った。
病気で入院中だった彼を起こさせてオフサイドと会わせたのは、彼がこの状況下でオフサイドの心を動かせる数少ない人間に違いなかったからだ。
果たして、岡田がどれだけオフサイドの決意を崩せるか。
非常に困難なことは分かっている。
それでも、あのサクラローレルが帰ってくるまでに、崩せるだけ崩しておかねば。
ケンザンが思考に耽っている一方、沖埜は一人淡々とコーヒーを飲んでいた。
端正な容貌から、異様な程の険しい雰囲気を滲ませて。
『スズカを救うことだけ考えろ。彼女を救える人間はお前だけだ』
岡田から言われた言葉が、沖埜の脳裏に強く響き続けていた。
…トレーナーでは救えないということ…か。
トレセン学園『スピカ』トレーナー・沖埜豊では…
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「どうしても、どうしてもオフサイド先輩と連絡を取ることは出来ないのですか。」
特別病室。
スズカは室内にいるブルボンに何度も尋ねていた。
「交渉はしていますが、今すぐは厳しいと…」
「憎まれたんですか。…私、憎まれた。…オフサイド先輩に憎まれたんだ。」
「そんなことはないと」
「やはり…もう駄目なんですね。私のせいで…何もかも…何もかも壊れた。」
同じ質問と答えばかりを聞いたり、うわ言のような言葉をもらすなど、スズカの様子は錯乱していた。
「何故、こんなことになってしまったのかな…夢を叶えたかったのに…最高の走りをしたかったのに…私が残したものは…」
「…サイレンススズカ?」
「ごめんなさい、オフサイド先輩。ごめんなさい、スペさん…ごめんなさい、沖埜トレーナー。…ゴールド…皆…私のせいで…本当にごめんなさい…」
いけない…
明らかに悪化してきているスズカの状態を見、ブルボンは彼女の見張りを担当医師に任せて室外に出た。
そしてすぐに沖埜に連絡した。
『サイレンススズカの状態が深刻です。すぐに来てください』