「…。」
沖埜の言葉に、スズカは特に大きな反応も見せず、ゆっくりと伏せた顔を上げた。
そのまま沖埜の方は見ずに、再び窓の外へ眼をやった。
「私は、事態がこの状況に至るまで、何も出来ませんでした。私の故障がレースにどれほどの影響を与えてしまったか気づきすらせず。あの天皇賞・秋がまだ終わってなかったことに気づいていれば、ここまで状況が悪くなることはなかった筈…それが一番罪深いです。」
「それはお前の責任ではない。トレーナーである私の責任だ。それに、お前に対して一切の情報を閉ざしていたからでもあるだろ。」
「情報を閉ざされていたのは、故障のショックで私の心が壊れかけていて、危険だと判断されたからでしょう。私の心が強ければ、天皇賞・秋後の事態についてはとうに伝えられておかしくなかった。」
「スズカ、だがそれは」
「…もう私の心配なんてしないでください!」
不意にスズカは大きな声を出し、悲しみを湛えた眼で沖埜を見据えた。
「私なんかじゃなく、オフサイド先輩を救うことを考えて下さい!何故…何故みんな、こうなってしまった元凶である私の方ばかり気にかけて、犠牲者であるオフサイド先輩を第一に考えないんですか?…一番救われなければならないのは先輩なのに!」
「オフサイドに対しては、私も手を尽くしてる。」
スズカの言葉に、沖埜は動揺の色を全く見せずに淡々と答えた。
「天皇賞・秋後の私の言動、スペの行動については彼女に深く謝罪した。さっきも言ったが、不当に貶められた彼女の名誉を回復させる為には覚悟をもって方策を練って、出来るだけのことはしてる。」
「…でも、オフサイド先輩の決意は全く揺らいでないんですよね?」
スズカはまた絶望的な声を出した。
「揺らいでるなら、連絡をとりたいという私の要望を断る筈がありませんから…」
「その通りだ。後は、彼女の仲間である『フォアマン』の者達に託すしかない。」
岡田からそう言われたことを脳裏に。沖埜は言った。
「現状、私がオフサイドの為にまだやらなければならないことはある。だが私は『スピカ』トレーナーだ。お前やスペを第一に考えて行動する。」
愛情を込めた口調ではなく、重い感情がこもった口調だった。
「…。」
沖埜の言葉を聞いたスズカは、悲しみに満ちた微笑を浮かべた。
「…さっき、トレーナーさんは私に帰還する気かと尋ねましたね。」
「…ああ。」
「…もし、オフサイド先輩が有馬記念で帰還してしまったら、…私も帰還します。先輩…いや、同胞をそこまで絶望に追い詰める原因の罪を背負った以上、この世界を生きていられる訳などありません…。」
「それは駄目だ。」
スズカの言葉を聞き、沖埜は端正な表情を僅かに険しくさせた。
「お前が帰還してしまうなど、絶対にあってはならない。」
「…でしたら、どうかオフサイド先輩を救って下さい。」
スズカは爪を立ててシーツを握りしめた。
「先輩は…先輩だけはどうか救ってあげて下さい…先輩さえ救われれば…私は…私はもう…」
また、スズカの様子が取り乱れ出した。
沖埜は、スズカの様子をじっと見つめていた。
彼女の苦しみと、その苦しみの中に生じた悲壮な思いを見透かすような眼とともに。
やがてスズカの様子が落ち着いた時、沖埜は再び口を開き、冷徹な声で言った。
「どんなことがあっても、お前は生きろ。」
「…え?」
初めて聞いた沖埜の口調とその言葉に、スズカは思わず眼を見開いた。
沖埜はその眼を見つめ返して続けた。
「絶対に帰還などするな。例えオフサイドが帰還したとしても、お前は生きるんだ。」
「…何を仰るんですか。」
スズカは愕然とした表情を浮かべた。
「オフサイド先輩が帰還してしまったら、私は生きていける訳など…」
「それでもだ。」
「…同胞を絶望の最果てに追い込み、勝敗の尊厳も乱した上この世界に悲しみと傷を振り撒いた罪を背負って、私にこの世界を生きていけと?」
「どんな状況であれ、帰還の選択は絶対の間違いだ。それをお前がするというのならば、私はそれを必ず止める。」
耳を疑うような表情のスズカに、沖埜は冷徹な口調のままそう言い切った。
数十秒、沈黙が流れた。
その間、スズカの見開いた眼の視線と沖埜の端正な眼の視線は交錯したまま動かなかった。
「…。」
やがて、スズカは視線を逸らした。
愕然と絶望が混じった表情のまま、彼女はシーツを被って横になり、沖埜に背を向けた。
「…スズカ、もう一度言う。」
その背に、沖埜は元の淡々とした口調に戻して、先程と同じことを言った。
「現在、状況はあまりにも残酷だ。だが、どんなに苦しくても、このまま絶望の底に落ちてはいけない。全部背負って這いずり回ることになろうとも、生きなければならないんだ。」
「…。」
スズカは、何も答えなかった。
再び、室内は静寂で満たされた。
そして、しばらく経った頃。
横になっていたスズカが身を起こし、俯きながら言った。
「スペさんを呼んで頂けますか…。」
*****
「スズカさんが、私に来て欲しいと…」
数分後の、スペの宿泊室。
特別病室からその連絡を受けたスペは、不安に満ちた表情で震えていた。
だがやがて、覚悟を決めたように大きく深呼吸し震えを消した。
「…分かりました。今すぐ向かいます。」
…。
連絡を終え、特別病室に向かう用意を始めたスペを見て、彼女の傍にずっと寄り添っていたルソーは不安と祈りの混じった表情になっていた。
間違いなく、スズカとスペの間で非常に重要なことが起きると予感したから。
「…スペ、」
用意を終え部屋を出ようとしたスペの傍に、ルソーはつと歩み寄った。
「どうか…諦めないで。」
手を振って、心底から祈るように言葉を絞り出した。
「…。」
絶望で窶れた表情の中、スペは無言で感情のない微笑を見せた。
宿泊室を出たスペは、暗い廊下を移動し、やがてエレベーター前についた。
エレベーターに乗り込むと、深呼吸を何度もして身体の慄えを押し殺し、必死に心身を保った。
やがてエレベーターは最上階に着いた。
エレベーターをおりて廊下を歩き、特別病室の前に着いた。
そこで待機中のブルボンに一礼し、スペは病室内に入った。
室内には、ベッド上で横になっているスズカとその傍らの椅子に黙念と座る沖埜の姿があった。
入室した瞬間、異常に重い空気がすぐに分かった。
「スペさん…」
ベッドから身を起こし、スズカはスペを見つめた。
夕方と比べ更に顔色が悪くなっていることがすぐに分かった。
「…私に、何の御用でしょうか。」
スペはスズカを直視出来ず、俯いたまま尋ねた。
「外の空気を吸いたいんです。一緒に来て頂けますか?」
「外へ…?今からですか?」
「はい。スペさんと二人きりで。」
スズカの眼は、スペをずっと見つめていた。
時刻は、22時半になろうとしていた。