「…何を言うんですか。」
「ごめん、スペさん。私の罪が、あなたの心に消えようのない傷を負わしてしまった。」
スズカは俯き、言葉を絞り出した。
「純真無垢な、一切の穢れがなかったあなたの心が、私のせいで。」
それが何よりの苦痛であることを示すように、血を吐くような口調だった。
「スズカさん…」
「スペさんだけじゃないわ。トレーナさんも、ゴールドも、大切な同胞達も人間の皆さん達もみんな傷ついて…そしてオフサイド先輩は、私の罪の全てを背負ってしまった。」
「…スズカさんっ。」
嘆き続けるスズカの身体を、スペは思わず抱きしめた。
「スペさん、もう私は、夢を与えるウマ娘じゃありません。私は、悲しみと歪みを与えてしまったウマ娘になってしまった。」
スペの胸に抱き寄せられたまま、スズカは嘆き続けた。
「…。」
スペはただ、スズカを抱き締め続けた。涙を溢れさせて。
「スズカさん、」
少し経った後、スペは腕を離し、目元を拭ってスズカを見据えた。
「もし、オフサイド先輩が帰還されてしまったら…もしかしてスズカさんも…。」
「…。」
その問いかけに、スズカは何も答えず俯いたままだったが、スペは見開いた眼で見つめ続けた。
「もしそうだとしたら、私も一緒にいきます。」
「えっ…」
「スズカさんのいない世界で、一人残された苦痛の中で生きていくくらいなら、私もスズカさんと一緒に還ります。その方がいい。」
「スペさん、一体何を…」
「もう私も…この世界の夢を失ってしまったんです。」
拭っても拭ってもなお、スペの眼から涙が溢れ続けていた。
先日、ルソーと衝突した後に椎菜に連れていかれた、この療養施設の地下室。
そこで聴こえた、帰還していった無数の同胞達の声が、スペの胸に深く刻み込まれていた。
想像だにしていなかったこの世界のあまりにも残酷な一面に、スペの心は計り知れない程のショックを受けていた。
華やかな栄光の影で、多くの同胞が人知れず散っていった…
その現実を知った今、オフサイドのこととは別に、彼女は絶望に襲われていた。
これを背負って、私は生きていかねばいけないの…?
『この最果ての地で散った同胞の魂も、今後新たに墓標となるであろう同胞の苦悩も、未来を失った同胞の届かない祈りも嘆きも、全部まとめてくれてやる!』
『全部背負って這いずり回って、私達の屍を足場にして、この世界が宣う夢とか笑顔とやらで、みんな救ってみせればいい!』
先日ルソーからぶつけられた凄まじい言葉も、脳裏に強く焼き付いていた。
出来るわけがない、背負える訳がない。
私は、母と姉の帰還だけでも潰されそうだったのに。
彼女が抱いていたレースへの夢さえ、今は恐ろしいものに変貌していた。
結果がそのまま、この世界の未来を手に入れられるか否に繋がると知った、ウマ娘のレースの世界。
残した実績だけでなくその血筋だけで既に未来を保障されているような存在のスペは、走る意義が分からなくなっていた。
これ以上私が栄光を求めて何になる?
強さを求めて何になる?
最高の走りを求め勝利を手にする、それが夢でいいの?
「もう、私は何がなんだか分からなくなりました。華やかなで幸せだと思っていたこの世界の裏で、こんなに悲しく、過酷な現実があったなんて。」
頭を抱え、スペは天使の面影がない苦悩に溢れた声を出した。
「…。」
「今、この私に残された確かな夢はスズカさんだけなんです。スズカさんまでがいなくなってしまったら、もう私に残されたものは悲しみと苦痛だけ。その中で一人孤独に生きていく位なら、私は最期まで…スズカさんと一緒に…一緒にいたい。」
「スペさん…」
スズカの唇から、愕然とした呟きが洩れた。
スペの悲しみは、スズカの胸にも浸して行くように伝わっていた。
ここまで悲しみに満ちたスペの姿は見たことがなかったし、同時に、彼女が生まれて以降背負ってきたものの重さを身体の芯に響く程はっきりと感じた。
だが、スズカはスペの言葉に頷けるわけがなかった。
「…施設に戻りましょう。」
スズカはスペから眼を逸らし、飲み物を抱えながら表情を隠して促した。
「…。」
スペは溢れる涙を抑えながらゆっくりとベンチを立ち上がり、スズカを乗せた車椅子を押して、無言で遊歩道を戻り出した。
そのまま、二人は一言も話さず、施設内に戻った。
そして、エレベーターに乗り込んだ時。
「…待って。」
最上階へのボタンを押そうとしたスペの手を、スズカは止めた。
「…屋上にいきたいです。もう少し、二人きりでお話ししたい。」
「…分かりました。」
スペは小声と共に頷き、屋上へのボタンを押した。
*****
20年前の、3月。
「お姉さん、元気出して。」
某ウマ娘専用病院の一室に、一人の少年が見舞いに訪れていた。
少年は、その病室で入院しているウマ娘の手をずっと握りしめていた。
「…あり…がとう…」
ベッド上で左脚を吊るされている栗毛のウマ娘は、痩せ細った腕で少年の小さな手を握り返した。
「…いつも…お見舞い来てくれて…嬉しい…」
力のない微かな声ながらも、彼女は表情に微笑を見せた。
前髪の流星がそれと重なり、少年の眼には悲しく美しく映った。
「お姉さん、きっと治るよね?…また、カッコいい走りをレースで見せてくれるよね?」
手を繋ぎ合いながら、少年は瞼に涙を一杯に溜めてウマ娘に言った。
「…うん…必ず……治って…また…走るから…待ってて…」
彼女は手を伸ばし、少年の涙を拭った。
「うん。待ってるよ、ずっと…」
少年はしゃくりあげながら頷いた。
「…坊や…」
「…ん?」
ウマ娘は美しい微笑を湛えたまま、少年の頬に手を優しく添えて言った。
「…あなたと…出会えて……良かった…」
数日後。
「お姉さん…」
病室内が悲嘆と慟哭に溢れる中、少年は父と共にベッドの側に歩み寄り、事切れたウマ娘の姿を見つめた。
痩せ細った身体の中、その最期の表情には微笑と流星が残されていた。
「やだよ…お姉さん…お姉さんっ…」
少年の秀麗な眼から涙がポロポロと溢れた。
「なんで…うっ…お姉さんっ…うっ…うう…なんで…なんでっ…」
少年は冷たくなったウマ娘の身体に縋りつき、声を上げて泣き続けた。
*****
俺が、この世界に入ったのは…
特別病室。
誰もいない暗い室内で一人黙念と椅子に座っている沖埜は、幼少期の記憶を思い出しつつ、自らの心に問いかけていた。
俺がこの世界に入った理由、その理由は…
心に問いかけつつ、沖埜の視線は開け放たれた窓の外に広がる夜天の一等星に向けられていた。
時刻は、23時をとうに過ぎていた。