1998年11月1日「消された天皇賞覇者」   作:防人の唄

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大償(3)

 

「…スズカさん…それ、まさか…」

 

「大丈夫です。身体に害は全くありません。」

愕然としているスペの手からスマホを取り、空になった錠剤を捨てて、スズカは一切の感情を見せず静かに言った。

「…なんで?何故…?」

「ごめんなさい。でも、こうするよりありませんでした。」

「“こうするより”…?ということは…」

「全て、私の計画通りです。」

二人きりになったのも、この屋上に来たのも、そしてスペに薬を飲ませたことも、自分のすべきことを遂行する為の計画だった。

「現状を変える為には、これしか方法がなかったんです。」

 

「…まさか…嘘ですよね…」

飲まされた薬の効力により、スペの身体は自由が効かなくなり、ぐったりと地面に膝をついた。

それでも必死に意識を起こして、スペは車椅子上のスズカを見つめた。

スズカが何を考えてこんなことをしたのか、もう察知していた。

「…まさか…先程の“身をもって”という言葉の意味は…」

「…。」

スズカは無言で、車椅子を動かしてスペから少し離れると、柵のない屋上を見回した。

 

「…だめです!…」

声をあげる力もなくなりながら、スペはなんとか身体を動かしスズカの側に這い寄って、車椅子を掴んで身を起こした。

「…だめ…いけません!……やめて…スズカさん…」

ぼやけていく意識の中、スペは瞳を必死に見開いて叫んだ。

「これしかないのです。」

愛する同胞の決死の引き止めに、スズカの口調も震え出していた。

「こうでもしない限り、オフサイド先輩の決意は変えられません。」

「何故…どうして…」

「私の責任です。…気づくのが遅すぎました、…何もかも。」

 

そう、遅かった。

天皇賞・秋後のことも、オフサイド先輩のことも、スペさんのこともゴールドのことも、懸念を覚えるのが遅すぎた。

もっと早く気づいていれば、違う未来があったかもしれないのに…

「全ての元凶であるこの私に残された道は、もう帰還以外ありません…」

スズカは全てを諦めきった口調だった。

 

「…スペさん、お願いがあります。」

スズカは車椅子上の身体を前に倒し、スペの指先を握った。

「どうかオフサイド先輩に、決意を変えるよう願って下さい。」

「…え…」

「どうか…このサイレンススズカの最期の願いだと…伝えて下さい。そうすれば、オフサイド先輩の決意を変えられるかもしれませんから。」

 

「…スズカさん…まさかその為に…」

意識を失いかけながらその言葉を聞いたスペは、スズカがこの行動に踏み切った理由はそれだと分かった。

「…。」

スズカは無言だったが、彼女の瞳がその答えを示していた。

 

「…嫌…嫌です……帰還しないで…」

スペは握られた指先を懸命に掴んだ。

「…スズカさんが帰還しなければならない理由なんてどこにもありません…スズカは何も悪いことなどしてない…悲劇の被害者なのに…」

「ごめん、スペさん…」

スズカも強く指先を掴み返した。

「私はもう、この世界を生きていける気力もないんです。待ち受ける未来があまりにも怖くて、恐ろしくて…」

自分が悲しみを与えてしまった世界を、自分のせいで追い詰められた同胞が帰還する現実を、これ以上見届ける勇気はなかった。

 

「…でしたら…私も一緒に…スズカさんと一緒に…」

スペは絶望的な声を出した。

「…最期まで…どうか…スズカさんと…」

「…スペさん。」

スズカは指先を離した。

「スペさんは、生きて。」

 

「…嫌です!…私には、スズカさんがいない世界なんて生きていけません!」

離されたスペの指は、スズカの袖を離すまいと掴んだ。

「…さっきも言いました!夢を失ったこの世界で一人苦痛の中生きていくくらいなら、私はスズカさんと…一緒に還ると!…」

 

「これは私の最期の願いです!」

スズカはスペの指先を、力を振り絞って引き離し、泣きじゃくるスペの顔を抱き締めた。

「スペさんが生きることが、私の最後の夢なんです!栄光よりも走ることよりも大きかった夢が、スペさんだった。」

「…スズカさん…」

「…だからどうか、どうかスペさんだけは、生きて下さい…」

「…ス…ズカ…」

「…愛しています。さよなら、スペシャルウィークさん…」

 

「…っ。」

閉ざされかかった意識の中、スズカのその言葉を聞いたスペは、最後の力を振り絞って車椅子の傍らに置かれた飲み物の容器を掴んだ。

「…あ。」

スズカが止める間もなく、スペはそれを放り投げた。

飲み物の容器は柵のない屋上の外へ飛ばされ、乾いた音を立てて下に落ちていった。

 

「…。」

落ちていったそれの方向をスズカは見ていたが、すぐにスペの方へ向き直った。

スズカの身体を強く掴んだまま、スペは意識を失っていた。

 

 

「…。」

スズカはスペの指先を身体からゆっくりと離した。

握った彼女の手の温もりを感じた時、胸の奥底から嘆きが込み上げた。

それを堪えて、スズカはスペのぐったりした身体をそっと地面に寝かせ、眼に残る涙痕を拭き取って羽織っていた上着をそっと被せた。

最後にスペの顔を目に焼き付けるように見つめた後、大きく深呼吸し、柵のない屋上の向こう側へ車椅子を動かし出した。

 

 

屋上の一番外側、柵なき場所に着くと、スズカはゆっくりと車椅子から立ち上がった。

 

綺麗だわ、本当に。

眼下に広がる高原の光景を、スズカは悲しみと絶望で澄み切った瞳で眺めた。

世界はこんなに美しいのに…

 

「これが、私の運命だったんだ…」

一面の星空を仰ぎつつ、全てを達観したような呟きが唇から洩れた。

 

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