「終わりました…」
処置を終えると、椎菜はライスの腕を離して注射器をしまい、立ち上がった。
「あと20分程で、あなたは帰還します。…さようなら、ライスシャワー…」
「はい。ありがとうございました、渡辺椎菜先生。」
「…っ」
椎菜はもうライスの微笑を直視出来ず、踵を返すと口元を抑え、屋上の入り口付近へ駆け去っていった。
こちらに駆けてきた椎菜の姿を見て、屋上の入り口で待機していたブルボンと美久は、ライスに処置が執行されたことを悟った。
「…ライス!」
美久は涙を散らして、ブルボンは涙を懸命に堪えて、ライスの元へと駆けていった。
ライスは先程までと全く変わらない様子で、両手を後ろについて腰掛けたまま、夜空を見上げていた。
「ライス…」
美久は涙でぐしゃぐしゃになった顔をライスの胸に埋め、嗚咽した。
「…いやだ、別れたくない…私、受け入れられない…」
「美久。」
嘆きに暮れる親友の背を、ライスは何度も優しく撫でた。
「今日までありがとう。あなたと過ごせた時間、本当に楽しかったわ。これからもウマ娘の幸せな姿を、沢山残してね…」
「駄目だわ…私、もう誰の幸せな姿も撮ることなんて出来ない…」
「出来るよ。」
ライスは美久の頬の涙をそっと拭って微笑んだ。
「あなたは誰よりも、ウマ娘の幸せを願っていたのだから…」
「…え?」
「だから…忘れないで…この世界の幸せを…」
そう言うと、ライスは美久の顔を再び胸に抱き寄せた。
「ライス、」
傍らで膝をつき顔を伏せていたブルボンが、スマホを差し出した。
「マックイーン会長と電話が繋がっています。最期に…」
「…ありがとう…」
ライスはスマホを受け取った。
「…マックイーンさん…」
『ライス…本当に……お別れなんですか…』
電話の向こうから、嗚咽を堪えるマックイーンの声が聞こえた。
「うん…でも、最後に使命は果たせたよ。スズカを守れた…」
『でも…あなたが還ってしまったら…犠牲になってしまったら…だめです…』
「マックイーンさん…違うよ…」
言葉が徐々に途切れ途切れになりながらも、ライスは満ち足りた微笑を湛えていた。
「…ライスは犠牲になったんじゃない…生き切ったんだよ。残り少ない命の炎を…燃やし切ることが出来たの…この世界の…ウマ娘の幸せの為に…」
『…ライス……』
「ライスは…生きてて良かった…だから泣かないで…マックイーンさん…」
ライスはもうスマホを持てなくなり、ブルボンに身体を預けた。
ブルボンは歯を食いしばってライスの身体を胸に抱き支え、彼女の代わりにスマホを持った。
「…マックイーンさん…夜空…見える…?」
『…はい…観えます…』
「綺麗だね…今まで観たことないくらい…綺麗な星空…」
ライスの眼はまだ蒼芒を残したまま、夜空の星々を見つめていた。
「…ねえ…見えるかな?あの…祝福の方角に光る星。…あれが、ライスの星…祝福の星だよ…」
ライスは残された力を振り絞って、夜空に光る星の一つを指差した。
「…。」
美久もブルボンも、電話の向こうのマックイーンも、その星を見つめた。
「…ライスは…ずっと見守っているから…みんなが幸せになるように…」
ライスの指差した腕は、やがて力なく膝元に落ちた。
「…嬉しい…な…」
意識が薄れてきたライスは、もう身体も動かせなくなって、ぐったりとブルボンの膝の上で抱き支えられていた。
それでもまだ、眼の色は美しい光を保っていた。
「…嬉しい…とは…?」
声を詰まらせながら問いかけたブルボンに、ライスは微笑をみせて答えた。
「…だって…最後の夢も叶ったから…ブルボンさんと…マックイーンさんと…お別れの時に一緒にいたい…って…夢が…」
『……そう…ですね…』
涙を堪えて、マックイーンが夜空を仰ぎながら言った。
「…今、私達は一緒ですね…一緒に…同じ星空を観ていますわ…』
「…うん…凄く…幸せ…だね…」
ライスは微笑を再び夜空へと向けた。
「…ええ…」
ブルボンも溢れそうなのを抑え、ライスの身体を抱き支えながら、一緒に夜空を仰いだ。
…。
その様子を見ていた美久は、涙を溢れさせながらカメラを手に取った。
レンズの先に、ライスとブルボンそしてマックイーンの姿が映った。
「…ブルボンさん…」
閉じかかる瞳で星空を見つめつつ、ライスは言った。
「私の鞄には…それぞれの同胞宛てに…書いた手紙がしまってあります…どうか皆さんに…お渡しして下さい…」
「…はい…必ず…」
ブルボンに最後の頼みをした後、ライスは閉じかかった両眼を見開いて、最期の微笑をみせた。
「…ブルボン…さん…マックイーン…さん……美久……今まで…本当にありがとう…ライス…幸せだった…楽しい…満ち足りた…この世界での…生涯だった…」
トレセン学園入学の日…
新バ戦初勝利の瞬間やブルボンとの初対決…
ブルボンの背中を追い続け、遂に大願成就した菊花賞…
マックイーンを越える為言語に絶する調整に励み、そして死闘の末マックイーンを下した天皇賞・春…
その後スランプや故障に苦しんだ日々を越え、ターフに戻った日…
ブルボンとマックイーンの誇りを背に、最後の栄光を手にした天皇賞・春…
引退後、『祝福』でマックイーン・ブルボン・美久を始め多くの同胞や人間達と穏やかで楽しい時間を過ごした日々…
その一つ一つの記憶が、走馬灯となって瞳の奥に流れた。
「…さよなら…みんな…」
「…ライスシャワー!」
ブルボンの眼から、堪えていた涙が溢れた。
「…私は…私はっ…あなたのことを…」
「…分かってるよ…」
嗚咽しながら叫んだブルボンの表情を見上げ、ライスはにっこりと微笑み、身体を抱き支えている彼女の腕にそっと手を重ねた。
「…ライスもそうだったから…ずっと…ずっと…永遠に…………」
全ての想いを凝縮させた声で呟いたのを最期に、ライスは静かに眼を閉じた。
「…ライス?」
「……」
「ライス…ライス……」
「………」
ブルボンの問いかけに、ライスはもう答えなかった。
最期まで残された彼女の美しい微笑が、星明かりに美しく灯されていた。
「…ライス……」
膝上で冷たくなっていくライスの身体をブルボンは抱きしめ、顔を伏せた。
溢れ出た涙の雫が、滝の様にライスの身体に溢れ落ちていった。
「…。」
屋上の入り口に退がって状況を見守っていた椎菜が、再び彼女達の側にきた。
「…。」
椎菜は無言でブルボンの腕を解き、ライスの身体をそっと屋上に寝かせた。
脈拍、心音、呼吸…それらの停止を全て確認し終えると、手帳を取り出した。
〈〇〇年12月25日深夜、粉砕骨折・開放脱臼を再発したウマ娘ライスシャワーは、本人の同意のもと安楽帰還の処置を執行。同深夜、帰還…〉
そう記し終えると、椎菜は震える唇に手を当てて、指の関節を歯で噛みしめた。
「…う…う……」
ブルボンと美久が悲涙に暮れる傍ら、悲嘆を堪える椎菜の眼からも涙が溢れ出していた。
ライスシャワー…
電話の向こうからライスの声が聞こえなくなった時、マックイーンもそれを悟った。
全身の力が抜け、彼女は涙を滴らせたまま庭の地面にがっくりと膝をついた。
「……。」
地面の芝生を握りしめてマックイーンしばらく耐えていたが、やがてそれは決壊した。
「うわあ…わああっ……」
祝福の方角を仰ぎ、マックイーンは声を上げて号泣した。
「…ライスッ…わあああっ……ライスシャワーッ……」
その名を呼びながら泣き続けた。
彼女の様子に気づいたパーマーや使用人達が駆けつけても、マックイーンは泣き叫び続けた。
「…つい先程、ライスシャワーは…帰還した。」
療養施設の暗い廊下で、沖埜はその事実を、スズカに伝えた。
12月25日。有馬記念まで、あと2日。