1998年11月1日「消された天皇賞覇者」   作:防人の唄

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悲嘆(3)

 

*****

 

夜が明けた頃、メジロ家の別荘。

オフサイドトラップは、この日も明け方前から競走場に出て、調整に励んでいた。

 

有馬記念を翌日に控えたオフサイドの状態は、入念に調整を行い続けたことによりほぼ仕上がっていた。

最もそれは身体の状態ではなく、心境面の状態。

今ジャージを羽織って黙々と調整を行っている彼女の雰囲気からは、数日前まであった悲壮感は消えて、彼女の吐く白い息よりも凍てついたものが滲み出していた。

そして、競走場のコースを駆ける彼女の両脚からは、〈死神〉の影が濃くちらつき始めていた。

 

 

「おはよう、オフサイド。」

競走場にコートを羽織った岡田正貴が現れ、調整を行っているオフサイドの側にきた。

「おはようございます、トレーナー。」

オフサイドは岡田の顔も見ずに挨拶を返した。

彼女の氷のように凍てついた雰囲気を、岡田もはっきりと感じた。

 

「深夜、療養施設から急報が届いた。」

少し経った後、岡田はストレッチを行っているオフサイドに口を開いた。

「…。」

オフサイドはなんの反応もせず、淡々と身体のストレッチを行い続けた。

その冷たい無表情に、岡田は淡々と続けた。

「今日未明、ライスシャワーが帰還したという報せだった。」

 

「…。」

それを聞いて、さすがにオフサイドの動きは止まった。

だが表情は変えることなく、彼女は岡田を見ずに尋ねた。

「何があったんですか?」

「昨晩遅く、スズカが自ら帰還を図った。それをライスが阻止した際、脚の故障が再発したらしい。快復の術はなく、安楽帰還の執行がなされたそうだ。」

悼む色を表情に滲ませて、岡田は話した。

 

「そうですか。」

聞き終えたオフサイドは、岡田と違い全く表情を変えず、そう答えただけで再び身体を動かし始めた。

 

「…“そうですか”?」

親交もあった偉大な同胞が帰還したというのにあまりにも無感情なオフサイドの態度に、岡田は顔を顰めた。

「お前、ライスが帰還したというのに、その言葉しか出ないのか?」

やや茫然とした岡田の言葉に、オフサイドは表情を全く変えずに答えた。

「ライス先輩が余命幾ばくもないことは分かってましたから。」

 

「何だって…?」

「失礼します。」

オフサイドはそれ以上は何も言わず、岡田に一礼するとコースの方へ駆け去っていった。

去り際、オフサイドの醸し出す冷え切った空気が、岡田の肌に針が刺さるように感じた。

 

 

…ライス先輩、逝かれましたか。

黙々とコースをランニングしながら、オフサイドは無表情のうちで思った。

ライスから直に聞いてはいなかったが、彼女の脚がもう限界が近いであろうということは、最近何度か会った際にオフサイドはもう気づいていた。

でも、最期にスズカを守ってくれたんですね…

胸中でオフサイドは感謝し、そしてライスの姿を脳裏に思い浮かべながら呟いた。

「…私も〈死神〉との決着をつけたら、すぐにそちらにいきます。」

…みんなを連れて。

それきり、ライスの面影はオフサイドの脳裏から消えた。

 

 

淡々とランニングを行うオフサイドの姿を、岡田は競走場の隅で腕を組んで見守っていた。

昨晩よりはっきりしてきたな…

オフサイドの醸し出す冷たい雰囲気の中に、〈死神〉の領域が明らかに濃く溢れ出していた。

それと共に、彼女が背負った…いや、彼女の中で変貌してしまった想いと聲の数々も、見えない形となって溢れかけていた。

その全てが、岡田にははっきりと視えた。

 

本当に消えてしまったのか。

ライスの帰還に対するオフサイドの冷淡な態度を目の当たりした今、岡田はそう痛切に思わざるを得なかった。

シグナルライトが散った時、絶望のあまり後を追おうとしたルソーを決死の叫びで止めたお前の心までも…

 

「〈死神〉め…」

岡田は呟きを洩らし、唇を噛んだ。

オフサイドを見つめる彼の眼の色は、トレーナーとして教え子を見守る色だけでなく、敵意を含んだ色に変わっていた。

 

 

 

*****

 

 

 

同じ頃。

マックイーンは療養施設に到着した。

 

施設の入り口には、彼女が来るのを待っていたブルボンがいた。

「おはようございます、生徒会長。」

「ブルボン…皆の様子はどう?」

「皆、ライスの帰還に大きなショックを受けています。」

「そう…」

「ただ、ライスが残した遺書はもう皆読んだようで、…彼女の帰還はもう時間の問題であったということは知ったようです。」

「そうですか。では、サイレンススズカやスペシャルウィークも、ライスの帰還が自己のせいだと自責してはいないのですわね。」

「ええ、おそらくは。ただ前述のように、ショックは大きく受けています。」

 

「…。」

マックイーンもショックが色濃く残る表情で一つ息を吐き、更に尋ねた。

「沖埜トレーナーの容態は?」

「沖埜トレーナーは、現在脚の治療を受けています。どうやらかなりの重傷のようです。」

「…。」

恩師の容態を聞き、マックイーンの表情が更に翳った。

 

その後、マックイーンは施設内に入った。

彼女が向かった先はライスの遺体が安置された部屋ではなく、椎菜の医務室だった。

 

 

医務室で、マックイーンは椎菜と会った。

ライスの安楽帰還の執行をした椎菜の表情は、今までにないくらい憔悴していた。

 

「…礼を言います」

憔悴しきっている彼女に、マックイーンは淡々と感謝の言葉を述べた。

「…何の礼?」

「ライスを苦しまずに帰還させて下さったことですわ。」

「ああそう。別に礼を言われるような行為じゃないけどね。」

椎菜は吐き捨てるように言い、自らの腕を見つめた。

「これで、二百何十人目かな。私のこの腕が帰還させたウマ娘の数は。」

まるで血塗られたそれを見るような口調だった。

 

マックイーンはその様子を黙って見ていたが、やがて口を開いた。

「先日の私の要求、受けて下さりますか?」

 

「…。」

マックイーンの言葉に、椎菜は乱れた髪に手を当ててしばし考えた後、意を決したように言った。

「受けるわ。」

「…受けて頂けますか。」

「うん、私も表に出る。これ以上は黙っていられない。ウマ娘の未来の為に、闘うことにした。」

「ありがとうございます。」

マックイーンは再び礼を言った。

 

 

椎菜との話を終えたマックイーンは、医務室を出ると再びブルボンと会い、施設の外に出た。

 

「ブルボン、」

遊歩道を歩きながら、マックイーンはブルボンに尋ねた。

「ライスの最期は、苦しそうでしたか?」

「いえ、ライスは最期まで微笑ってました。」

「誰も恨んでなかったですか?」

「はい。感謝の言葉と未来への祈りだけを遺して、還っていきました。」

 

「感謝、ですか。」

マックイーンは足を止め、悲しみが溢れそうな瞳を朝空に向けた。

「ブルボンは、大丈夫ですか?心が、悲しみに凍てついていませんか?」

「大丈夫です。私は、大丈夫です。」

ブルボンは瞳を伏せ、胸に手を当てた。

最後にライスと交わした温もりが、掌に残っていた。

「ライスとの、約束は、果たせましたから。」

 

「そうですか…」

マックイーンは嘆きを堪える為に眼を瞑って大きく深呼吸し、そして改めて瞳を開きブルボンを見つめた。

「私は修羅の場に戻ります。あなたはここで、同胞達を守って下さい。」

 

「生徒会長…」

ブルボンは、マックイーンの瞳を見て胸が詰まった。

盟友の帰還の悲しみにくれていた彼女の瞳は、今までにない程の冷徹な色が灯りだしていたから。

 

 

 

その後、マックイーンは施設を後にした。

 

『ピリリリリ…』

施設を去った後、車で移動していたマックイーンのスマホの通知音が鳴った。

一瞬昨晩のことが胸をよぎったが、マックイーンは冷静にスマホを取り出し通知を見た。

通知は岡田からで、オフサイドの状態に関することが記されていた。

「…。」

マックイーンはその内容に全て眼を通すと、通知を閉じた。

 

冷徹な表情のまま、マックイーンは生徒会副会長のルビーに電話をかけた。

「…もしもし、ルビーですか?…今から通知を送りますので、それを今朝の生徒会の会合で皆に見せて下さい。ビワとブルボンには私から別に伝えますわ、…私はこれから理事長の所へ向かいます…では。」

電話を終えた後も、マックイーンの表情は美し過ぎる程冷徹だった。

 

 

 

*****

 

 

 

「ライスシャワー…」

施設の屋上。

ブルボンの上着を羽織って座り込んだまま茫然と朝陽を眺めていた美久は、胸にライスの手紙を握り締め、頬に残った涙痕を拭いつつ、呟きながら立ち上がった。

「私、思い出しちゃったよ。何もかも…」

消えていたあなたとの思い出も。

ある筈なかったターフでの記憶も。

最期の記憶も。

そして、本当の名前も…

 

遥かな朝陽よりも遠く、永遠に届かない所へ行ってしまった親友の面影を瞳の奥に、美久は大空へ腕を伸ばした。

 

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