1998年11月1日「消された天皇賞覇者」   作:防人の唄

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『第7章・中』
〈死神〉のウマ娘(1)


*****

 

場は変わり、午後のメジロ家の別荘。

オフサイドトラップは、明日有馬記念が開催される現地への出発準備を行っていた。

 

オフサイドの右脚には、いつものように包帯が巻かれていた。

日に日にその包帯の厚さはましており、状態の深刻さを窺わせた。

これまでは比較的平然と患部のケアを続けていたオフサイドも、時折その痛苦に顔を顰めていた。

 

 

「失礼する。」

準備を行っている最中、ビワハヤヒデが部屋に訪れた。

「オフサイド、もう現地に向かうのか?」

「はい。夜までには中山の方に着いておきたいので。レース前日の予定もありませんし。」

オフサイドは準備の手を止めることなく答えた。

いつものG1レースなら前日に出走者達の会見などがあるのだが、今回は昨今の状況の影響でそれは行われないことになっていた。

 

「何か私に御用でしょうか?」

あらかた準備を終えると、オフサイドはビワに尋ねた。

「実は、君と会いたいという人がいるんだ。どうする?」

「…。」

オフサイドはやや顔を顰めた。

もう誰にも会いたくないというのに、という感情がその表情に浮かんでいた。

「どなたが私に会いたいと?」

「三永美久氏だ。現在こちらに向かっているらしい。」

 

「美久さんが?」

学園関係者とはすぐに予測していたが、まさか彼女とは思わなかったオフサイドはやや意外な表情をした。

学園専属カメラマンの立場である美久さんが一体何故?

それなりに親しい関係だったとはいえ、秘密である筈の自分の居場所にまで来る程の重要人物ではない筈だ。

「生徒会長の差し金ですか?」

「いや違う。三永氏自身が希望したらしい。」

 

「ははあ…」

なんとなく、オフサイドはその理由が掴めてきた。

恐らく、昨晩帰還されたライス先輩から、私のことを聞いたんだな。

そして多分、私の意志を変える為に接触を図ろうとしてるのだろう。

 

そう考えたオフサイドは、ビワに言った。

「お断り下さい。」

「え?」

「もう、私は誰とも会いたくありませんから。」

言いながらオフサイドは眼を瞑り、一度深呼吸して眼を見開くと、ビワを見据えた。

 

…!

ビワは一瞬息を呑んだ。

オフサイドのその眼光は、ビワ程のウマ娘ですら思わず肌が粟立つ位、冷たい色を帯びていたから。

 

「何故会いたくないんだ?」

彼女の眼光に警戒心を強めつつ、ビワは聞き返した。

「会っても無意味だからです。」

オフサイドの口調は血の底まで沈みそうな重さを帯びていた。

「はっきり言います。私はもう意志は絶対に変えません。変えてはならないんです。」

 

「オフサイド…」

「ビワ先輩、」

なおも何か言おうとしたビワに対し、オフサイドの眼が更に冷たさを帯びた。

「これ以上、私を止めようとしないで下さい。これ以上干渉するようでしたら、もう私も、私を制御出来なくなりますから。」

言葉の最中から、オフサイドの全身からどす黒い呪詛のような雰囲気が、ふつふつと溢れ出していた。

 

「…っ」

異様な雰囲気を醸し出したオフサイドにビワは危険を感じ、咄嗟に後ろに退がった。

「…オフサイド。何をするつもりだ。」

警戒心を最大限に高め、ビワはオフサイドの眼光を睨み返した。

双方の視線が交錯し、室内の空気は一変した。

 

数十秒後。

「フッ…」

オフサイドは口元に歪んだ笑みを浮かべ、ビワから眼を逸らした。

同時に、身体から溢れ出かけていた異様な雰囲気も消えた。

 

「流石はビワハヤヒデ先輩ですね。」

歪んだ笑みは一瞬で消え、オフサイドは穏やかな表情に戻っていた。

「〈死神〉相手に対峙するとは、流石は一時代を築いた偉大な同胞です。先輩が私の監視役に選ばれたのも合点がいきました。」

「…。」

ビワは警戒心を解かずにオフサイドを見据えたまま、無言で汗を拭った。

オフサイドは頬に軽く笑みを湛え、言葉を続けた。

「いいでしょう。美久さんと会います。最も、その時何が起こるかは私も責任持てませんが。」

 

「…分かった。」

オフサイドの言葉にビワは頷くと、視線を外してすぐに部屋を出ていった。

 

 

「はあっ…はあ…」

オフサイドの部屋を出たビワは、別荘の一室に移動すると、息を乱しながら腰を下した。

まずいな…

まだ動悸している胸に手を当てながら、彼女はその危機をはっきりと感じていた。

オフサイドに巣喰った〈死神〉が、明らかに膨張している…

 

それは今になってから気づいたことではない。

数日前からオフサイドの動向を見守っていたビワは、彼女の状態が刻々と変わっていくことに気づいていた。

変わっていくというよりは、侵食されているというべきか。

オフサイドの脚だけでなく、心を蝕んだ〈死神〉が、彼女を絶望の深淵へと誘うように蝕んでいくことに。

 

絶望の深淵。

オフサイドがそれに堕ちきったら一体何が起きるのか、それは明確には分からない。

ただ尋常でない、かつてない程の規模を伴った絶望が爆発するのでは…そんな予感がしていた。

 

「岡田トレーナーもそう言ってましたね…」

ビワは息を整えながら呟いた。

 

彼女は今朝に岡田と会って、オフサイドの現状について話し合いをしていた。

オフサイドの状態の異変に関しては、ずっと彼女の様子を見守っていった岡田も気づいていた。

そしてそれに対する危機感も口にしていた。

『大償聲が起きる可能性がある』と。

 

「大償聲…」

ビワは眼鏡を外し、目元に指を当てて眼を瞑った。

その言葉の意味は、ビワも知っていた。

全ての者に消えようのない傷を与える、膨大な絶望の爆発。

…それ程の絶望が、オフサイドの中に蠢いているというのか。

 

正直、その可能性は否定出来なかった、

何しろオフサイドは、あの〈クッケン炎〉と闘い続けたウマ娘。

その病の恐ろしさは、かつて自分もそれによって競走生命を断たれた過去を持つビワは身を持って知っていた。

あの、文字通り〈死神〉と恐れられる病と、オフサイドはどれだけ壮絶な闘いを繰り返してきたか。

彼女と直接接点のなかったビワは詳しくは知らないが、妹のナリタブライアンからオフサイドの闘病生活の一端について耳にしていた。

“オフサイドは、〈死神〉によって散った同胞達の魂を全て背負って闘い続けている”と。

 

闘い続けた果て、オフサイドは〈死神〉に打ち克って、栄光を掴みとった。

だが、全く予想だにしない方向から新たな〈死神〉が彼女に襲いかかった。

その結果が、彼女を絶望に叩き落としただけでなく、最悪の絶望まで生み出してしまったのか…

 

…本当は、天皇賞・秋の前に、既にオフサイドの心は壊れかかっていたのに。

ビワは眼鏡をかけ直した。

 

オフサイドが〈死神〉と闘い続けられた理由は、栄光の為だけじゃない。

同胞の無念を晴らす為だけでもない。

そのいずれよりも大きなある想いが、オフサイドの心を支え続けていた。

そのことだけは、ビワはこの世界で最もよく知っていた。

 

今、夢も支えも失い蝕まれたオフサイドの心がどうなっているのか、それはとても分からなかった。

ビワだけでなく、ステイゴールドも、ホッカイルソーも、彼女と長年身近にあった者達ですら分からないだろう。

彼女の心を理解し、かつそれを動かせるであろう同胞は、もうこの世界には一人しか残っていなかった。

「サクラローレル…」

 

その名を呟きつつ、ビワはスマホを取り出した。

現在ローレルの動向については、マックイーンではなく彼女が対応をしていた。

まだ誰にも伝えていないが、先程ローレルから通知が届いていた。

『現在、帰国の途にいます』と。

 

ローレル、どうか無事で…

ビワは祈るようにその通知を見つめた。

大怪我を負った脚の状態が未だ芳しくない中で、ローレルは帰国に踏み切った。

帰国にはかなりの危険が伴うことは明白だ。

だけど信じて祈るしかない。

現状、誰もがオフサイドの為にやれるだけの力を尽くしているけど、彼女の心に直接触れられる同胞はもう彼女しかいないのだから。

 

しかし…

ビワはスマホを握ったまま、深く憂いるように息を吐いた。

ローレルでも、オフサイドの絶望の根本を、天皇賞・秋前に負ったその悲しみを癒せるのは厳しいかもしれない…

 

 

『ピー・ピー』

不意に、ビワの掌でスマホの通知音が鳴った。

確認すると、まもなく三永美久が別荘に到着するという連絡が届いていた。

今、美久をオフサイドに会わせても大丈夫だろうか…

大きな不安を渦巻かせながら、ビワは彼女を迎えに別荘の外へと出た。

 

 

やがて、美久が別荘に到着した。

 

「ビワハヤヒデ、久しぶりね。」

「そうですね、三永美久。」

生徒会役員なのでビワも美久の正体を知っており、彼女が記憶を取り戻したという報告も受けていた。

「オフサイドトラップは今どちらに?」

「別荘の一室にいます。」

受け答えしながら、二人は別荘内に入った。

 

ビワは美久をすぐにはオフサイドの元へ案内せず、自室に連れていき、そこでオフサイドの現状を説明した。

 

「オフサイドの状態がかなり危ういと?」

「ええ、彼女の奥底にある絶望が溢れかかっています。」

ビワは深刻な表情で美久に説明していた。

「これ以上、彼女を刺激するようなことをしたら、その絶望が一気に溢れ出すかもしれません。そしたらもう、取り返しのつかない事態が巻き起こる可能性が高いです。」

 

「取り返しのつかない事態…」

大償聲のような事態かしら…

昨晩療養施設で、それが起きかかった現場にいた美久はぞっと身体が震えた。

「もう起きた場合、その事態の規模はどのくらいのものなの?」

「はっきり言って予測不能です。オフサイドを誰よりも知る岡田トレーナー曰く、“彼女は幾千万のウマ娘の無念の魂を背負ってしまっている”そうですから。それが絶望に変貌して溢れ出したとすれば、この世界に与える影響は到底計り知れません。」

 

 

「…。」

一連の話を聞き、美久は苦悶の表情を浮かべた。

そんな決壊寸前のオフサイドの心を、今の自分が動かせるのか?

恐怖と無力感が、彼女の心を浸そうとしていた。

 

だが美久は、心のそれを打ち消そうと首を数度振った。

私だって、理不尽な仕打ちの連続により絶望のどん底のどん底にまで落とされたウマ娘だった…

失われていた、サンエイサンキューとして生きていた当時の記憶を脳裏に思い起こした。

 

…あの時、私は確かにウマ娘の趨勢を決めてしまえる立場にいた。

もし私が、憎しみと悲しみに捉われたまま最期を迎えていたら、ウマ娘と人間の間には深い深い亀裂が生じていた。

でも私は、絶望と悲しみのどん底にいながら、帰還を目前にしながら、憎しみと絶望を抑えこんで人間とウマ娘の未来の為に祈りを残した。

起きたかもしれない『大償聲』を阻止した。

 

私は…

美久の脳裏に、ライスが最期に自分に伝えた言葉が蘇った。

“あなたは誰よりも、ウマ娘の幸せを願っていた”

美久は眼を瞑ってぎゅっと胸に手を当て、震えを抑え込んだ。

 

 

やがて眼を開くと、美久はビワに言った。

「私は大丈夫です。オフサイドトラップと会わせて下さい。」

「…分かりました。」

三永美久ではなく、かつてのサンエイサンキューとして覚悟を決めたと感じ、ウマ娘としては後輩であるビワはそれを受け入れるように頷いた。

 

 

ビワと美久は、オフサイドのいる部屋へと向かった。

 

ところが。

「あれ?」

室内に、オフサイドの姿はなかった。

彼女の姿だけでなく、荷物も消えていた。

 

異変に思ったビワはすぐに別荘の使用人に連絡を取った。

「オフサイドトラップが部屋にいないのですが、何処にいるか分かりますか?」

ビワが尋ねると、使用人は答えた。

『オフサイドトラップ様は、つい先程、急遽別荘を発たれました。』

 

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