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前年、重度の故障から奇跡の復活を遂げ、G1戦線で大車輪の活躍をし、年度代表ウマ娘に輝いたサクラローレル。
彼女はこの年も春天で連覇こそならなかったが第一人者に相応しい走りを見せ、秋には悲願の凱旋門賞挑戦を敢行することを決めていた。
そんな偉大な盟友が、私の引退の決意に対して、断として首を縦に振らなかった。
そしてある日、私はローレルと二人きりで、引退のことについて話し合った。
場所は確か、学園の屋上だった。
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それは前年6月上旬、雨の日。
梅雨の雨が降りしきる中、学園の屋上に、制服姿のオフサイドトラップとサクラローレルの姿があった。
「私は、あなたの引退を絶対に受け入れません。」
屋上の柵の前で、ローレルはその意志を強さを瞳にも光らせて、オフサイドを見つめていた。
「どうして?」
意志の強さを見せるローレルに対し、松葉杖をついているオフサイドの態度は冷淡だった。
かつて彼女が闘病中に見せていた不屈の闘志は、引退を決意した今はもう消え去っているようだった。
「もう私は全てが限界になっているのが明らかだわ。これ以上闘うのはもう無理なのよ。」
3度目のクッケン炎の〈死神〉に罹った彼女の右脚には、包帯が痛々しく巻かれていた。
何も知らない者が一目見ても相当状態が悪いと分かりそうな包帯の厚さだった。
「ここまで抗ってきたけど、ダンツシアトル先輩のようにはなれなかったわ。私の力では〈死神〉に勝てなかった。」
淡々と言う口調も、全てを諦めたような虚ろなものだった。
オフサイドのこの姿を見た周囲の誰もが、もう彼女の復活を無理だと感じ、彼女の引退を受け入れていた。
〈死神〉に敗れたとはいえ、オフサイドは最後まで闘い果てて燃え尽きたのだと。
だが。
「そんなことはありません。まだあなたには、〈死神〉を相手に闘い勝てる力が残っている筈です。」
ローレルは、オフサイドが燃え尽きて敗れたと認めていなかった。
「何故、そう言えるのかしら?」
断として認めない盟友に、オフサイドは呆れたような笑みを浮かべた。
「3度目の発症よ。2度目までならマイシンザン先輩のような復活は出来たかもしれないけど、状況がまるで違うわ。」
かつて2度の〈死神〉発症を乗り越えて重賞をレコード優勝したチームの先輩と比べつつ、オフサイドは言った。
「まして、私はもう5年生。重賞すら未勝利のまま、最後の勝ち星からも2年以上遠かってるウマ娘だわ。年齢も伸び代ももう限界なのは明らかなのに、これ以上栄光を目指せるわけがないじゃない。」
「それは、オフサイドさんがそう思い込んでしまっているだけです。」
「思い込み?どこが思い込みなの?見てよ、この私の姿を。」
オフサイドは松葉杖をついてローレルに向き直った。
痛々しい右脚、それを支える左脚にも故障の痕があった。
栗毛の髪も、両耳も尻尾も、心が折れたのを示すように虚しく垂れて靡いていた。
その身体から発せられている雰囲気は、枯れ枝のような寂寥感に満ちていた。
「こんな私が、これ以上栄光を目指して闘えると思っているの?本気で思っているとしたら、あなたは相当愚かよ。」
無二の盟友に対し、オフサイドは冷笑するように言葉をぶつけた。
嘲笑するような言葉を浴びせられたものの、ローレルは表情一つ変えず、言葉を返した。
「愚かなのは、限界と決めつけたあなたの方です。オフサイドトラップ。」
「何それ。」
ローレルの言葉に、オフサイドはショックを受けたように硬直し、やがて身体を震わせてローレルを睨みつけた。
「限界を受け入れた、それのどこが愚かだっていうのよ?」
「闘いきってもいないのにですか?」
「“闘いきってない”!?」
オフサイドは大きな声をあげた。
ローレルの言葉に対し、感情を露わにしたオフサイドは彼女に詰め寄った。
「もう一回言ってみなよローレル。この私が何をしきっていないって?」
顔を突き合わせる程に近づけて詰問したオフサイドに、ローレルは全く引かず、言葉を返した。
「ええ、何度でも言います。あなたは闘い切っていないと。」
「ふざけないでよ!」
オフサイドは思わず、ローレルの胸ぐらを両手で掴んだ。
「私が闘いきってないだって?私が昨年末の復帰以来、脚の状態に対して、そしてレースに対して、どれだけ必死に闘ってきたか、あなただって分かっている筈よ!」
感情が爆発したように、オフサイドは自分の全てを知っているであろう盟友に叫んだ。
「分かってます!」
ローレルも語気を強めると、オフサイドの眼を貫きそうな眼光で見つめ返した。
雨が降りしきる中、雨粒に身をうたれながら二人の盟友は対峙した。
「私は、あなたの闘う姿を誰よりもずっと側で見てきました。」
オフサイドに胸ぐらを掴まれたまま、ローレルは熱と険しさの混じった口調でオフサイドに言った。
「昨年末、2度目の〈死神〉を乗り越えて学園に帰ってきたあなたは、以前の復帰の時とはまるで違っていました。およそ2年間、殆ど走ることが出来なかったウマ娘とは思えない程の、激烈な闘争心を漲らせていました。」
言いながらそれを思い出したのか、ローレルの身体が一瞬震えた。
レースを見据えたトレーニングの時も、同じ部屋で生活する寮での日常も、オフサイドはずっと殺気立っていた。
G1を幾つも制しレースの頂点に立ったローレルですら、迂闊に言葉すらかけられない程の雰囲気だった。
文字通り、背水に立たされたウマ娘という雰囲気だった。
「また、あなたの脚の状態も、私の想像を超えていました。」
ローレルの視線は、分厚い包帯が巻かれたオフサイドの右脚に向けられた。
オフサイドは人前ではおろか、チーム仲間の前でも全くと言っていいほど右脚の素の状態を見せない。
だがローレルは、普段の生活において、何度かオフサイドの右脚の状態を目の当たりにしていた。
その状態は、ローレルですら、直視出来るようなものでなかった
「何故、何故こんな脚の状態で、レースを走れる?闘争心を保っていられる?苦痛に顔を歪ませない?そんな疑問が次々と湧いてくる程の、脚の状態でした。」
ローレルは寒気を堪えるように口元に手を当て、言葉を続けた。
「その脚部とあなたの姿を見て、私はあなたの背負っているものが分かったんです。〈死神〉に冒された絶望の世界を生き、幾十人もの同胞の最期を見届けたあなたの決意、『〈死神〉への復讐』という決意と誓いを。」
「そうね、復讐心だったわ。」
ローレルの言葉に、オフサイドは彼女の胸ぐらを掴んだ腕の力を緩めず、雨に濡れた頬を引き攣らせた。
「〈死神〉は何もかも奪っていったわ。同胞の脚も、夢も、希望も、願いも、叫びも、そして命も、何もかも。果てには、ブライアンの夢と脚まで奪った。」
それが何よりも耐え難いことなのか、オフサイドの唇が震えた。
「許せるわけがなかった、絶対に。」
この復讐を果たす為には、復活して栄光を手にする以外になかった。
復讐心を胸に闘病を続け、遂には〈死神〉を撃退して、レースの世界に戻ってきた。
「〈死神〉を乗り越えたとはいえ、もうキャリア的にも脚の状態的にも闘える機会は殆ど残されていなかったわ。だから無我夢中で、必死になって走った。」
「ええ。」
誰よりもそれがよく分かっているローレルは頷いた。
復帰後のレースを重ねるにつれ、オフサイドは勝ち星こそ挙げられないが内容も結果もどんどん上向いていき、過去の自身の最高成績を更新していった。
これが、2度もあの『クッケン炎』を患い、3度の療養生活を余儀なくされた5年生なのかと、驚嘆するしかないくらいに。
「ですが、成績をあげていく一方で、あなたの脚の状態は次第に危機を迎えようとしていたことに、私は気づいていました。」
言いながら、ローレルは唇を噛んだ。
復帰後、1ヶ月に1戦という、故障明けではかなりハードなペースでレースを闘ってきたオフサイドの脚は、5戦目を迎える頃にその反動が露わになりはじめていた。
元来『クッケン炎』という〈死神〉は、何度癒えてもやがては再発症する可能性が高いことで恐れられる不治の病。
既に2度冒されただけでなく、左脚にすらその不安を抱えているオフサイドにその兆候が出るのは残酷だが当然のことだった。
「就寝中、あなたが脚の苦痛にうなされる姿を傍らで何度も見ました。右脚のケア中、徐々に大きくなっていく不安と絶望感に抗うように歯を食いしばる姿も…。」
雨に打たれながら、ローレルは眼を瞑った。
涙だか雨筋だか、彼女の頬を伝っていた。
「そして、徐々に脚の状態が苦しくなっていくにつれて、あなたのレースの成績も上昇が止まってしまった。」
あと一歩届かない成績が相次ぎ、そのことによる不安と焦りが脚の状態を更に悪化させた。
苦痛を耐える為に痛み止めまで使用してレースを走ったにも関わらず、勝利の女神はオフサイドに一向に微笑まなかった。
そして、先日のエプソムC。
復帰後初の着外という惨敗という結果と、3度目の〈死神〉発症というあまりにも無情な現実が、オフサイドを待ち受けていた。
「ほんと惨敗よね。見るも無残な惨敗だわ。」
オフサイドが、彼女の代わりに言うように口を開いた
「私が求めたのはG1レース制覇という栄光だったのに、私はその舞台に立つことすら出来なかったんだから。」
G2以下の重賞で2、3着が精一杯、OP戦すら勝てなかった。
「同じ重度の故障に苦しんだあなたとは、天地ほどに差がついてしまったね。」
オフサイドはローレルの胸ぐらを掴む腕の力を緩め、脱力したように言った。
今まで言わずにいた思いが、胸の奥から破れるように溢れ出した。
「デビュー前、ダービー直前、天皇賞・春直前と相次ぐ故障に見舞われながら、あなたはそれら全てを乗り越えて栄光を手にし、年度代表ウマ娘の栄誉を勝ち取った。あなたと比較してこの私は…」
勝ち星に見放されたまま、重賞すら未勝利に終わった。
そのあまりにも大きな差に、オフサイドの口元から笑みが洩れた。
「でもこれは、闘いきった末の結果だから、受け入れるしかないわ。」
オフサイドは諦めの笑みを湛えながら、ぽつりぽつりと言葉を続けた。
「本当に、やれるだけのことはやった。耐えられるだけの苦痛に耐えた。レースにも絶対に諦めない心で挑み続けられた。無残な、何も残せない結果に終わったけど、それでも最後の最後まで夢を追い続けてレースに挑めた。苦しかったけど、届かなかったけど、やりきったと思うわ。」
自らの心を納得させるように言う彼女の頬には、涙のかけらが雨筋に混ざっていた。
「まだです。」
オフサイドの達観したような言葉を聞き、ローレルは眼を開いた。
紅く光る瞳でオフサイドを見据え、再び言った。
「あなたはまだ終わっていません。闘い切ってすらいません。」