*****
「この間、進退についてローレルと話したらしいな。」
夜の学園。
競走場の片隅の芝生に手をついて腰掛けているナリタブライアンは、穏やかな表情で夏の夜空を仰ぎながら、すぐ傍らにいるオフサイドに話しかけた。
「うん。二人きりで、屋上でね。」
オフサイドの方は両膝を抱えるように腰掛け、こちらも先日のローレルと会った時と違い比較的冷静な表情で目線を地面に向けていた。
「私としてはローレルを説得するもりだったんだけど、想像以上に猛反対受けちゃって上手くいかなかったわ。」
「ローレルの奴、今まで見せたことないぐらいの必死さで反対しただろ。」
「よく分かったね。」
その時のローレルの行動を思い返し、オフサイドは吐息した。
「その位私だって分かるさ。お前に対する思いの強さは、あいつは私と同等かそれ以上なのだから。」
ブライアンは夜空を仰ぎながら、深い吐息をするように言った。
「ローレルに胸ぐらを掴まれたのは初めてだったよ。」
自分も彼女の胸ぐらを掴んだことは初めてだったと思いつつ、オフサイドは胸のあたりをさすった。
それだけにあの時のローレルの叫びは、心の芯にまで刻みつけられる程強烈なものだった。
「普段は名族令嬢らしい高貴さと堂々さでいるローレルが、あんなことするなんて思わなかったわ。」
「それだけ、ローレルにとってお前は特別な存在だってことだろ、オフサイド。」
その時の情景を想像しながら、ブライアンはオフサイドを見た。
「ローレルが大きな試練に直面する度、誰よりもあいつの傍で支えてきた同胞はお前だからな。」
「アハハ、私はそこまでローレルに大したことしてないけど。私はね…」
困ったようにオフサイドは笑ったが、やがて虚しさを感じたような表情になって俯いた。
「…2年前、ローレルが再起不能とされた重傷を負った時にお前の支えがなければ、あいつは絶対に復活することはなかったさ。」
俯いているオフサイドを見ながら、ブライアンは続けた。
「多分、ローレルがお前の引退を止めようとした時の様子は、2年前にお前がローレルの諦めを阻止しようとした時と同じだったんだろうな。」
「…。」
オフサイドは黙った。
胸中で、2年前のその時を思い出した。
あの時はただ必死なだけだった。
ローレルは自分にとって、もう一つの生命のような存在。
彼女が栄光に輝く瞬間を見届けるまでは生きていたいと思える程の特別な盟友だった。
そのローレルが絶望のどん底に突き落とされ、心が折れるどころか捥がれかかっていた。
その捥がれかかった彼女の心を、自分は無我夢中で叫びながら食い止めて、寸前のところで繋ぎ合わせた。
生きることを諦めていた自分の心も翻して、無謀で途方もない復活への道のりを彼女と共に歩む決意をして。
「ローレルが復活を果たしてレースの頂点に立てたその根源には、あの時のお前の姿があったことは間違いないだろ。」
「ブライアン、あなただってそうよ。」
オフサイドはふと懐かしそうに言葉を返した。
ローレルの重傷と時を同じくして、ブライアンも最強の走りを失ってしまう故障を負った。
その巨大な挫折に屈せず、ブライアンは不屈の炎を滾らせて再び最強を取り戻そうと奮闘した。
その姿がローレルの大きな力になったことは間違いないと、オフサイドは言った。
「私こそ、お前達二人の不屈の姿に触発されたんだけどな。」
ブライアンは呟くように答えた後、言葉を続けた。
「だけど、やっぱりお前はローレルにとって唯一無二の存在であることは間違いないさ。…私にとっても。」
「…。」
オフサイドはブライアンを見た。
かつて史上最強のウマ娘と称された盟友の眼は、オフサイドの眼を真っ直ぐ見つめていた。
「あなたが私の引退に反対する理由は何?」
オフサイドは眼を逸らし、再び地べたに眼をやりながら尋ねた。
「ローレルと同じく、私がまだ〈死神〉と闘いきってないと思ってるのかしら。」
「ああ、全く同じだよ。」
ブライアンは即答した。
「そして、内心に秘めている思いも一緒だろうな。」
「内心の思い?」
何それ、とオフサイドが聞くと、ブライアンは夜空を見上げて、はっきりとした口調で言った。
「お前に生きてて欲しいという思いに決まっているじゃないか。」
「…気づいてたの?」
「逆になんで分からないと思った?」
驚いたオフサイドに、ブライアンは彼女の方を見ずに言葉を返した。
「私達はかけがえのない絆で結ばれた三人だろ。そういう決心をしていることぐらい、すぐに分かる。」
「ローレルは気づいているような素振りは…」
茫然と呟きながら、オフサイドはすぐに先日のローレルの様子を思い出し、彼女がそれに気づいていたことを察した。
…そっか、あれだけ必死に私を翻意させようとしてたのは、そうだったからなのか。
「お前らしくないな、察しも鈍くなるとは。」
茫然としているオフサイドの表情を見、ブライアンは大きく溜息を吐いた。
「そうだったのね。でもね、ブライアン、」
しばし茫然としていたものの、オフサイドはやがて表情を自然に戻した。
そして先程までとは違う、淡々と無機物な口調で言った。
「この覚悟は、〈死神〉との闘いを決断した時から決めていたことなの。栄光か帰還か、私にはその二択しかないとね。そして…私は敗れた。当初の決意を翻す気はないわ。それが私の、〈死神〉に散っていった同胞の無念を背負って闘った身としての、責任だから。」
オフサイドは、もうその運命を受け入れていた。
「責任、か。」
オフサイドの言葉に、ブライアンは呟きながら膝を抱えた。
普通ならそんな責任感じる必要など全くないし、どんな形であれ生きる道があるのならそれを選ぶのが当然だ。
他のウマ娘なら100人中100人がそうするだろう。
だけどオフサイドは違った。
背負う必要ない責任と贖罪を背負って、帰還を選択するというあり得ない考えでいる。
オフサイドは生き残ることだけが目的ではなく、〈死神〉を下した上でレースの栄光を手にし〈死神〉と闘う同胞の無念を晴らすという途方もないものを目的として闘い続けてきた。
それ以下の結果は彼女にとって全て敗北であり、余生を得るに値しないものだった。
「…。」
ブライアンは、オフサイドの闘いの日々を思い返した。
自身も故障中に療養施設で彼女とともに療養生活を送っていたが、その闘病の様は壮絶だった。
クッケン炎という〈死神〉の痛苦と絶望が同胞達から夢も希望も奪っていく中、オフサイドもその痛苦と絶望にのたうちまわりながら、屈するどころかその絶望の最深部にまで踏み込んで闘病していた。
時には同胞と衝突することもあった。
療養仲間に心を折られそうになったことさえあった。
それでもオフサイドは屈しなかった。
〈死神〉に敗れ帰還していく同胞達の最期を看取り、絶望に落とされかかる同胞達を懸命に支え、真っ黒な暗闇の世界で光を探してもがき続けていた。
そんな、常軌を逸した闘病を続けていた彼女が、常人とはまるで違う価値観を抱いてしまったことは無理なかった。
「残された者達はどうなるんだ?」
ブライアンは膝を抱えたまま、ぽつりと尋ねた。
「お前の生き様を心の支えにしていた同胞達は多い筈だ。その者達がお前の帰還を知ったらどれだけショックを受けるか、それは考えているのか?」
「それは…申し訳ないと思う。」
オフサイドの表情に、痛みの色が滲んだ。
「でも許して欲しい。私はこんな結果で生きることなんて望んでなかったから。〈死神〉に勝ってないのに生を得るなんて、散っていった同胞達に顔向けが出来ない。」
看取ってきた同胞達の最期の姿が、彼女の脳裏に浮かんだ。
「なら、まだ闘えよ。」
ブライアンは膝の間に顔を埋めて言った。
「こんなところで諦めるな。もう一度、地獄のどん底から這い上がってみせろ。」
「もう限界なのよ、心も身体も。」
オフサイドは首を振って答えた。
「ローレルにも言ったけど、完全に心が折れたの。彼女の涙の叫びですら心を変えられない程にね。あなたの言葉も、もう私の心に届かなくなってしまったの。」
「そうか…」
はっきりと言い切ったオフサイドの言葉にブライアンは嘆息し、膝から顔を上げてオフサイドを見た。
「なら、私もお前と一緒に連れていってくれないか。」
「え?」
「お前の心が折れてしまったのならば、私も…」
ブライアンの表情には悟ったような決意の色が表れていた。
「何言ってるの?」
オフサイドの表情が蒼ざめた。
「何であなたがそんなことを…」
「理由はあるんだよ。」
動揺しているオフサイドに、ブライアンは淡々と言い返した。
「私は、誰よりも大切な同胞と闘病を共にすることを選ばなかったんだから。絶望と闘うお前のすぐ側にいることすらしなかったんだから。」
「ブライアン…」
「ずっと後悔してたんだよ。」
ブライアンはオフサイドから眼を逸らし、夜空を仰いだ。
「何故私は、お前と共に〈死神〉と闘うことを選ばなかったのだろうと。三冠ウマ娘の名誉を守る為という理由で引退を選んでしまったのかと。本当は、ずっとお前の側にいたかった。〈死神〉相手に例えボロボロになろうともお前と共に闘いたかった。なのに私は…」
「ブライアン、それは違うよ。あなたの決断は間違ってないわ。私だって、あなたの引退は受け入れ…」
「嘘つくな!」
ブライアンはオフサイドを睨んだ。
その眼には涙が浮かんでいた。
ブライアンはオフサイドから眼を逸らし、涙を拭って膝を抱えた。
「お前は、本当は私に引退して欲しくなかったんだ。〈死神〉相手に一緒に闘って欲しかったんだ。そうでなければ、私がお前に引退を打ち明けた時、あんなに悲しまなかった筈だ。私はあの時、気づくべきだった。お前が〈死神〉に勝つ為には、私という存在が必要だったことに。」
「…。」
「引退してしまった今、私とお前の距離は…果てしなく遠くなってしまった。…そして、お前の心は絶望に覆われてしまった。」
膝を抱えてブライアンは嘆いた。
彼女の深い嘆きを、オフサイドは傍らで見つめるしかなかった。
「…我儘かもしれない。」
静寂が流れた後、再び口を開いたのはブライアンだった。
「〈死神〉相手にあっさり敗北を認めた私が、こんなことを言う資格なんてないかもしれない。だけどそれを分かっていても、私はお前に伝えたい。…まだ闘うことを諦めて欲しくない、生き残って欲しいと…」
ブライアンは顔を上げ、再びオフサイドを見つめた。
「お前は私にとって、夢を託した盟友で、そして…この世界で誰よりも大切な同胞だから。」
「…ブライアン。」
「これからは、ずっとお前の側にいるから。お前と一緒に、〈死神〉が撒き散らす絶望と闘ってやる。いや、闘わせて欲しい。私に絶望をぶつけたって構わない。全部受け止めて、お前の心を覆うとする絶望から守ってやる。…だから、もう一度立ち上がってくれ、オフサイドトラップ。」
ブライアンの手は、オフサイドの手を強く熱く握り締めていた。