「…2年前の春でしたね、先輩と初めて会ったのは。」
雨の中、対峙するように向かい合ったトロストとオフサイド。
頬を伝う雨筋を指で払いながら、トロストは言葉を出した。
「惨敗が続いた上〈死神〉にまで罹って、全てに絶望しかけていた私に先輩は声をかけてくれた。…覚えていますか?」
「覚えてるわ。」
雨にうたれたまま、オフサイドは即答した。
「あなたの病室でね。確かあの日も小雨が降ってたわ。」
「そうです。あの時、私は自らの状態を包み隠さず先輩に話した。」
ただ1度フロックで勝てただけで、なんの能力もないウマ娘であることを自覚してること、その絶望が大きくて闘病する気力がない、どうすればいいのか…
「それに対する先輩の答えは…」
*****
2年前、療養生活を始めて間もないトロストとオフサイドの会話。
「目標や夢を抱くことが大切?」
「そう。成し遂げたい目標、叶えたい夢。それを持てば、絶望と闘うことができるわ。」
「どうしてですか。」
「夢や目標は希望になる。そして希望は生きていく力になる。この〈死神〉にも抗いうる力にね。私もそれを抱くことで、闘病を続けているから。」
「はー…じゃあ、先輩の抱く夢や目標って、どんなものですか?」
トロストの問いに、オフサイドは笑顔で即答した。
「それは勿論、レースの頂点に立つこと。」
「えっ?」
「それ以外ないわ。私はその夢をもって、〈死神〉と闘い続けてる。」
「頂点…」
トロストは驚きながら、更に尋ねた。
「それは、本気で叶えられると信じてるんですか?」
「うん、叶えられると信じてる。」
「はー…」
自信込めた口調で答えたオフサイドを、トロストは羨望するような眼で見上げた。
「私は、そんな大きな目標は抱けないです。」
「大小は関係ないわ。大切なのは生きていく力になれるような目標を持つことだから。」
「…はい。」
オフサイドの言葉に、トロストはしばし考え込んでいたが、やがて意を決したように言った。
「じゃあ私も、目標を見つけます。そして、頑張って〈死神〉と闘います!」
*****
現在。
「私が抱いた目標は“もう一度勝つこと”でした。初勝利の時のようなフロックではなく、誰にも文句を言わせない完璧な勝利を手にする。それが、私の生きる力になれる目標でした。」
トロストは自らの手を握り締め、それを見つめながら言った。
「そして、先輩や仲間達に支えられながら、半年以上の闘病を経て、私はレースに復帰することが出来た。目標を必ず叶えるという強い心が、私をそこまで導いてくれました。そう、そこまで…」
「…。」
トロストの口調の力の込め方に、オフサイドは僅かに表情を動かしたが、何も言わなかった。
「…でも、」
トラストは視線を、雨に濡れた足下に向けた。
「私を待ち受けいたのは、自分というウマ娘の現実でした…」
復帰を果たしたものの、トロストは前述のように未だフロックとされた1勝のみの上、他のレースは殆ど良い所がなかったウマ娘。
いち早く結果を残さなければならない立場にあった。
厳しい立場を自覚しながら、トロストは夢を持って復帰レースに挑んだ。
“今度こそ本当の勝利を手にする”と、胸に強い意志を抱いて。
しかし結果は、二桁着順の惨敗。
故障明けのレースとはいえ、全力で挑んだにも関わらずこの成績だった。
その後、トロストは間隔を空けずに次々とレースに挑んだ。
本来なら故障明けである点ローテは慎重になるべきであったが、トロストの置かれた状況がそれを許さなかった。
せめて好成績でも出さない限りそれは変わらない。
いち早く結果を出す為に、トロストはレースを走り続けた。
しかし、着順は上がっても勝ち星には程遠い成績と内容が続いた。
そして、間隔を詰めて挑み続けたレースの代償はやがて脚に現れ始めた。
それとともに、成績は更に悪化していった。
それでも、苦痛に歯を食いしばってトロストは走り続けた。
目標を叶える為に、生きる為に。
しかし、彼女を待ち受けていたのは非情な現実だった。
復帰から5ヶ月後、トロストは再び〈死神〉を発症した。
「あの時、私は諦めるべきだった。いや本当は、私はもう諦めていました。」
雨の中、トロストは眼を伏せた。
復帰後、僅か4ヶ月程の間で10戦近く走った。
脚の苦痛が激しくなる中、死に物狂いで走り続けた。
なのに、全く報われなかった。
「レースに復帰したのに、なんの喜びもなかった。自分の置かれた現実…その残酷さを思い知らされただけ。もう疲れきって、再度の〈死神〉発症後、私は帰還を決意していました。」
「でも、それを止められてしまった。…またしても、オフサイド先輩に。」
「…。」
雨筋を拭いもせず、オフサイドは眼を伏せた後輩を見つめ続けていた。
***
1年前。
2度目の療養生活に入ったばかりのトロストと、オフサイドの会話。
「全然駄目でした。8戦して入着が1回だけ。期待に応えられずすみません。」
「謝ることなんてないわ。あなたは全力で走り続けたのだから。」
「でも、なんの結果も残せずに終わりました。もう、これが限界かなと思っています。」
トロストの言葉は、暗に諦めの意志を示していた。
それを察したオフサイドは、言葉を返した。
「まだ、あなたはやれるわ。」
「…はい?」
「あなたが掲げた目標の“もう一度勝つ”という目標は叶えられると、私は思ってる。」
「…そう言える根拠は何ですか?」
トロストが呆れたように尋ねると、オフサイドは答えた。
「絶対に不可能だと思った夢を叶えた同胞を、間近で見てきたから。」
「…サクラローレル先輩のことですか?」
「うん。彼女が味わった絶望と現実は想像を絶する程のものだった。でもそれを乗り越えて、ローレルは頂点を掴んだのだから。」
「…ローレル先輩の場合は幸運もあったじゃないですか。」
折れた骨が奇跡的に繋がるという幸運がと、トロストが指摘すると、オフサイドは首を振った。
「その幸運をもたらしたのは、ローレルの不屈だわ。絶望のどん底に落ちても彼女は諦めなかった。その不屈の心が奇跡を起こしたんだわ。」
だからと、オフサイドはトロストの頭に優しく手を置いた。
「諦めさえしなければ、夢は叶うと私は信じてる。そう信じて、私も闘い続けてるわ。あなたも、諦めさえしなければ夢は必ず叶うわ。」
「…でも私は、故障だけじゃなくレースの内容も散々なんですよ。」
「能力も成績も落ちこぼれだったウマ娘が突如覚醒することは珍しいことじゃないわ。タマモクロス先輩みたいにね。あなたにもその可能性がある。」
「その可能性は千に一ぐらいのものですよ。私は到底…」
「何も、実績を残すだけがウマ娘の生きる道ではないわ。」
暗い様子のままのトロストに、オフサイドはつと話題を変えた。
「走る姿、闘う姿を見せるのもウマ娘の生きる道の一つ。結果関係なく、その姿が見る人々達の心に響くものだわ。その結果、幸せを手に入れたウマ娘だって数多い。キョウエイボーガン先輩のようにね。」
あの有名な菊花賞で、大惨敗したとはいえ全てを出し切ったボーガンの姿が、一人のファンの心を動かし、余生をもたらしたことをオフサイドは話した。
「だから、まだ諦めてはいけないわ。どんなに少なくとも、見てくれてる人・応援してくれる人は必ずいるから。」
「見てくれてる人…ですか。」
…本当にいるのかな。
オフサイドの言葉に心を動かされながらも、トロストはまだ暗い表情だった。
すると、
「少なくとも、ここに一人いるわ。」
オフサイドはふっと笑った。
「え?」
「私はあなたのレースを全部見てたわ。」
驚くトロストに、オフサイドは笑顔のまま頷いた。
「…本当ですか。」
「本当よ。あなたの全力でレースに挑む姿を見ることで、〈死神〉と闘う気力を貰ってたの。」
「…先輩。」
笑顔で打ち明けたオフサイドを見て、トロストは思わず胸が込み上げ、両手で顔を覆った。
***
「あの時のオフサイド先輩の言葉、本当に嬉しかったです。」
再び、現在。
トロストの表情には一片の笑みもなかった。
雨脚が強くなってきた中、トロストは濡れた髪をかきあげた。
「でも私は、あの時気づくべきでした。先輩の言葉は、深い絶望への誘いだったことに。」
「…。」
オフサイドは雨に濡れたまま、依然として微動だにせずトロストを見据え続けていた。
松葉杖に支えられている彼女の姿が、一瞬死神のように映った。
「先輩の言葉に絆され、私は諦めていたのに闘病を決意してしまった。現実ではもう詰み切っていたのに、無謀な活路を探して。そして、私はそれを見つけてしまいました。…最悪の絶望が待ち受けているとも知らずに。」