1998年11月1日「消された天皇賞覇者」   作:防人の唄

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『第8章・上』
『領域』


***

 

 

1年前の年末、フランス。

 

レース中の不慮の故障から数ヶ月が経ち、依然として現地で療養生活を送っているサクラローレルのもとに、ナリタブライアンが見舞いに訪れていた。

 

 

「…窶れたな、ローレル。」

ローレルが療養している屋敷の病室。

ベッドに寝かせているローレルの姿を見て、ブライアンは眉を顰めた。

「これでも大分良くなった方ですよ、ブライアンさん。」

久々に会う盟友に、ローレルは窶れた表情の中で笑顔を見せた。

あまり力のあるものではなかったが。

 

「故障の状態については聞いていたが、やはり相当重い怪我だったんだな。」

包帯で分厚く固定されているローレルの脚をブライアンは見、嫌でも2年前の春にローレルが負った重傷のことを思い出していた。

「故障に関しては、命が助かっただけでも有り難いと思ってます。…問題はここですね。」

ローレルは、自らの胸に手を当てた。

…心、そうだよな。

ブライアンも、ローレルのその点を最も心配していた。

 

「外に出ませんか?」

病室の窓から外を見て、ローレルが提案した。

「動けるのか?」

「ええ。車椅子なら大丈夫ですし。」

 

 

 

二人は、屋敷の外の庭園に散歩に出た。

ローレルは車椅子、ブライアンがその車椅子を押すという形で。

 

「私の故障があってから、『フォアマン』の状況はどうですか?」

散歩中、ローレルはチームの状況について、ブライアンに尋ねた

既に引退した身であるブライアンだが、『フォアマン』にはよく顔を出しており、チームの状況についてはある程度把握していた。

「当初は、かなり動揺が大きかったみたいだ。トレーナーからも聞いただろうが、皆お前が帰還してしまうと思って、嘆きの嵐だったらしい。」

 

「…そうですか。実際、言葉の行き違いでその危機に陥りかけましたけどね。」

「…本当に危なかったんだな。」

ブライアンは肌に粟立ちを感じた。

もし誤ちでローレルが帰還させられていたら、それは考えるだけでも恐ろしいことだった。

 

 

「まあ、お前の命の無事を知って、ひとまず皆は安堵してるよ、今はいつものチーム状態に戻ってるさ。…サイレンススズカの離脱騒動という一悶着はあったけどな。」

「それはトレーナーからもお聞きしました。仕方ないことですね。彼女、ダービー以降はずっと悩んでたみたいですから。」

「最終的には円満解決だったようだな。この後スズカがどうなるかは知らないが、彼女が違う場所で類稀な才能を開花させることを願うばかりだ。」

 

「ブライアンさん、スズカを高く買っているんですね。」

「学園では短い付き合いだったけど、彼女の持ってる能力の高さには一目置いてたからな。まだ全然だけど、今後覚醒するようなことがあれば、或いはこの私も超えた強さを誇る存在になるかもしれない。」

ブライアンは、何度かその片鱗を見せていた後輩の栗毛のウマ娘の姿を思い浮かべ、それを期待するように言った。

 

「クラシックで惨敗したスズカが、三冠ウマ娘のあなたを超える存在になると?そんなことあり得ますか?」

「…クラシックで好走するどころか出走すら出来なかったのに、私を超えたと思わせる強さを誇ったウマ娘が目の前にいるんだが。」

まさかというようなローレルの言葉に、ブライアンはちょっと恨めしそうな表情で返した。

「冗談ですよ。私も、サイレンススズカの能力は末恐ろしいと思ってます。この先、自らを開花させられるチームと巡りあうことが出来ればと願ってます。」

「…だろうな。」

お互い頷きあいながら、ローレルとブライアンは笑った。

 

「それにしても、“クラシック”、ですか…。」

笑った後、ローレルはふと、思い出したように言った。

「そういえば私達の世代は、クラシックに参戦したメンバーの中で、古バG1を制した者がブライアンさん以外いないんですね。」

 

「そうだな…。」

ブライアンも、思い出したように頷いた。

ローレルの言う通り、ブライアンとクラシックで対決した同期のメンバーで、その後G1を勝った者は、クラシックから3年たった今もまだ現れていなかった。

 

「ローレルとかタイキブリザードとかシンコウキングとか、クラシック未参戦組の同期からはG1覇者は出てるのにな。」

「クラシック参戦組は皆、ブライアンさんに木っ端微塵にされたショックが大きかったからでしょうかね?」

ローレルは、ちょっと意地悪く笑った。

「皐月賞、ダービー、菊花賞と、ブライアンさんが同期に見せつけた強さと実力差は、そうなってもおかしくない程のものでしたし。」

 

「それは、あるかもしれないな。」

ブライアンは苦笑した。

実際、彼女が闘う相手の心を叩き折る程の最強ウマ娘を目指していたことは事実だ。

「だけど、皆が心が折られた訳じゃないだろ。 エアダブリンやスターマンは、クラシックを終えた後も優にG1を勝っておかしくない強さを見せていたし、他にもG1で活躍が期待出来る同期はそれなりにいたさ。…故障に蝕まれなければな。」

 

「…そうですね。」

ブライアンの重みを伴った言葉に、ローレルも静かに頷いた。

彼女達の世代は、彼女達自身も含め故障に苦しんだウマ娘が多かった。

ブライアンが名を挙げたエアダブリンやスターマンも、それぞれ故障で引退を余儀なくされていた。

 

「故障というのは恐ろしい。どんなに能力が優れたウマ娘からも、容赦なく走りを奪っていく。」

「本当に…。」

ブライアンもそして今のローレルも、故障により走りを奪われた。

その恐ろしさは、消えることない傷となって、彼女達の心に刻みつけられていた。

 

 

それだけに、今この二人の胸に自然と去来しているのは、一人のウマ娘の姿だった。

クラシックでブライアンに木っ端微塵にされ、相次ぐ重度の故障に見舞われ、更に長い間勝ち星から見離されながら、それでも今なお夢を諦めてないウマ娘。

 

 

「…ブライアンさん。」

「ん?」

「オフサイドトラップさんは、どうされてますか?」

今、最も気になっているそのウマ娘の名を、ローレルは口にした。

 

「オフサイドは、闘い続けているよ。」

車椅子を押していた手を止め、ブライアンは答えた。

「お前が再起不能の故障を負ったことを知った時は、激しく動揺してた。だけどお前が命の危機を脱すると、すぐに自分の闘いに戻ったさ。それが、お前の為に出来る最大のことだと信じてな。」

 

「…。」

ローレルは無言で、分厚い包帯が巻かれた脚に視線を落とした。

故障直後、ローレルは電話や手紙でオフサイドから何度も励ましの言葉を貰っていた。

その時はローレルは言葉も文字も理解出来ない位に絶望のどん底にいたが、声や筆跡から感じるオフサイドの思いだけは僅かずつだが沁み渡り、絶望に染まった心を溶かしていった。

今、ここまで心が回復出来たのはオフサイドのお陰だと、ローレルは思っていた。

 

「オフサイドさんらしいですね。私の容態が危機を乗り越えた途端、すぐに自らの闘いに集中し直すなんて。」

「さっきも言ったように、それがお前にとって一番良いと思ったからだろ。」

実際そうだろと、ブライアンはローレルの俯いた顔を覗き込んだ。

「ええ…。」

ローレルは素直に頷き、空を見上げた。

「どんな状況であれ、私はオフサイドさんが諦めることなく闘い続けていることが一番嬉しい。私が認めざるを得なかった不屈のウマ娘が、巨大な絶望相手に退かない姿を見せ続けていることが、私に生きる希望を与えてくれる。」

 

 

「オフサイドは、ターフに復帰出来ると思うか?」

空を見上げているローレルに、ブライアンはつと話題を変えるように尋ねた。

 

「当然です。」

それを疑うことがおかしいというように、ローレルは即答した。

「ブライアンさんは、そう思っていないのですか。」

「まさか。」

自分も同じだと、ブライアンは首を振った。

「あいつは必ずターフに戻ってくるだろう。その後は…断言は出来ないけど、私達の想像を越える走りを残すんじゃないかと思ってるさ。」

 

「想像を越えた走り?」

その言葉に、ローレルは首を傾げた。

「ああ、」

ブライアンは、言葉を続けた。

「オフサイドが〈死神〉と闘い続けたことで得た力を、ターフで見せつけてるということだ。」

 

「力…。」

「つまり、『領域』のことだ。」

ブライアンがその言葉を口にすると同時に、ざわっとした空気が流れた。

 

「…そうですね。」

ブライアンの言葉に、ローレルは緊張感のこもった微笑を浮かべた。

 

 

『領域』。

それは極限の状態において発揮される、人知を超越した力。

稀代の素質や能力を備えたウマ娘や、限界を越えた地点に辿り着いたウマ娘にしか得ることの出来ない、異次元の力。

 

レースで頂点に君臨し、稀代の強さを誇ったブライアンもローレルも、その『領域』といえる力を得ていた。

その二人が、オフサイドがその『領域』を持ち得るウマ娘であることを、お互い薄々感じとっていた。

 

 

「とはいえ、恐らくオフサイドさん本人は、自分が『領域』を得ようとしているなど気づいてないでしょうけどね。」

「だろうな。本来『領域』というものは、ターフの上で体得し得るものだからな。だけどオフサイドは違う。病床の上だ。」

「それも相手はウマ娘ではなく、〈死神〉。」

ローレルもブライアンも、どこか恐れが混じった口調だった。

 

「果たして、オフサイドさんが得るであろう『領域』は、どのようなものなのでしょうね。」

恐れと希望がこもった口調で、ローレルは呟いた。

自分達も含め、従来のウマ娘が得た『領域』…即ち、レースの覇者とされる者達が得た『領域』は、それは強さの証明という形で現れていた。

だが、オフサイドトラップが得るであろう『領域』は、従来とは全く異なる性質であることは明白だった。

 

「ウマ娘にとって最果ての地で、巨大な〈死神〉に蝕まれ続け、同胞との永別を目の前で見届け、その無念の魂を自ら背負って、それでなお〈死神〉に抗い続けた末に手にする『領域』…想像が出来ません。」

 

「恐らく、諸刃の剣だろうな。私達の『領域』以上の。」

ローレルの言葉に、ブライアンは眼を瞑った。

「オフサイドがその力を無事に発揮出来れば、確かな力になるだろう。ただ誤った発揮の仕方をすれば、それはあいつにとって災いとなってしまうかもしれない。」

 

「…災い?」

「『領域』が、抗いようのない絶望に変わってしまうということだよ。その可能性があると危惧してる。…何せ、〈死神〉が渦巻く場所で得ようとしている力なのだから。」

ブライアンの口調は、憂いを帯びていた。

「随分と心配なのですね。」

「…極限の状況下で闘い続けているオフサイドの姿を見ているからな。」

 

そう言うと、ブライアンは眼を開いた。

「だけど、もしオフサイドにそのようなことが起こったとしたら、その時は私があいつを守る。」

 

「…。」

「オフサイドの心を、魂を、絶望から絶対に守る。それが彼女との約束だ。…愛する同胞としての義務だ。」

空を見上げてそう言ったブライアンの口調と表情は、力強い意志に満ちていた。

 

「…羨ましいです。」

ブライアンの言葉と姿を見て、ローレルは再び脚元に視線を落とした。

動くことすらままならない大怪我を負った身では、オフサイドの為に何もすること出来ない。

その現状への嘆きと苦悩が、ローレルの表情に滲んでいた。

 

「気にするな。今のお前は、充分オフサイドの力になってる。」

ローレルの心情を察し、ブライアンはローレルの両肩に手を当てた。

「生きていてくれてるのだから。」

 

「ブライアンさん…。」

「今は自分の快復に努めるんだ。焦らず、確実にな。」

自分を見上げたローレルを、ブライアンは優しく見つめ返した。

「オフサイドのことは心配するな。私がずっと、あいつの側にいるから。あいつを守るから。」

 

 

 

 

*****

 

 

 

…。

飛行機の中。

 

脚の状態と心拍の苦しさに耐えながら、ローレルは前年の記憶を思い返していた。

 

彼女の手には、白いシャドーロールの他に、何通かの手紙が握られていた。

オフサイドトラップからの手紙と、ナリタブライアンからの手紙。

何百回と読み返した、かけがえのない二人の同胞からの手紙。

 

「お嬢様、もう少しです。」

ローレルを看護している使用人が、窓の外を見て励ますように言った。

「…。」

ローレルも、窓の外に眼を向けた。

 

闇夜の中、日本の灯が、上空下に映り出していた。

 

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