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そして迎えた、7月11日。
福島競バ場で開催された芝2000mの重賞、七夕賞。
仲間達に、同胞の魂達に、ローレルに、ブライアンに必勝を誓い、私は出走した。
レースが始まると、最下位人気のウマ娘が逃げを打つ展開の中、私はこれまでと違い中団につけてレースを進めた。
これまでは先行でレースを進めていつも最後に伸びきれず負けていたことを踏まえての作戦だった。
道中、脚に痛みは感じなかった。
本当は痛みはあったのだろうけど、それを感じない位、レースに集中していた。
そのままレースは進んで、最後の直線に入った。
中団待機といういつもと違うレース運びをしたものの、直線を向いた時に私はかなりいい手応えを感じていた。
その感覚通り、私が繰り出した末脚は他の走者よりも明らかに優れていた。
これは、いける。
私は、勝利への手応えを感じた。
だけど、一つ予想外の誤算があった。
それはスタートから逃げをうっていた最下位人気の走者、タイキフラッシュの存在だった。
彼女は私と同じ6年目だが実績においては格下で、このレースでは全くのノーマークの存在だった。
そんな彼女がうった逃げも、いずれ失速するだろうと軽く見ていた。
だけど、失速すると思っていたフラッシュの逃げは、最後の直線に入っても脚色が衰えず、後続を寄せ付けなかった。
私も懸命に追ったが、フラッシュを捕まえられない。
彼女もまた、千載一遇のチャンスに死力を振り絞っていた。
残り100m。
いよいよ苦しくなった状況に、私は脚の痛みまでも感じ、末脚が鈍りかけた。
また、駄目なの?
何度も味わってきた絶望が、私の胸をよぎりかけた。
…駄目な訳あるか。
よぎりかけた絶望を、私は打ち消した。
もう後はないんだ、諦めることは出来ないんだ。
最後の最後まで、死力を尽くして走りきれ。
私は心で叫んだ。
その瞬間、私の脚の痛みが消えた。
同時に今までにない力強い感覚が、私の全身を纏った気がした。
…これは?
思いがけない感覚の中、私は鈍りかけた脚に再びスパートをかけた。
すると、伸びきれなかった筈の私の末脚が、遂にゴールの瞬間まで衰えることはなかった。
そのゴール直前、私はフラッシュをクビ差で差し切っていた。
最後に勝利したバレンタインステークスから、3年5ヶ月が経過していた。
その間、〈クッケン炎〉にかかること2度、長期休養3度。
レースにおいては13連敗、年齢も既に6年生。
その過去を乗り越えて、私は遂に重賞初制覇を果たした。
七夕賞優勝。
私の重賞初制覇は、誰もが祝ってくれた。
ステイゴールドらのチーム仲間だけでなく、かつての同期の仲間達も。ー先にチームから離脱したサイレンススズカも祝ってくれた。
またメディアからも、私のことを幾度の故障を乗り越えて夢を叶えた不屈のウマ娘として特集を組みたいという要請まで受けた。
だけど、私自身としてはあまり喜んでなかった。
何故なら、私にとって重賞制覇は通過点だったから。
勿論嬉しくなかった訳じゃない。
何度も惜敗を続いた末の重賞制覇だから、心の中では嬉しいに決まっていた。
だけど、通過点。
私の本当の夢は、目指すべきものはただ一つ、頂点という栄光だけなのだから。
その地点に辿り着く為には、喜びに浸れる暇などなかった。
だから周囲の祝福もほどほどに受け入れ、メディアからの要請も断って、次の目標に集中した。
そんな私の心境を理解してくれたのは、岡田トレーナー、ローレル、ブライアンの三人だった。
三人とも、私の七夕賞優勝はあくまで通過点という認識をもってくれていた。
七夕賞優勝後、私は祝賀会もせず、再びトレーニングに没頭した。
懸念だった脚の状態も痛みだけの状態に落ち着いており、トレーニングに支障はなかった。
重賞制覇という通過点を乗り越えたこともあり、心の状態も比較的落ち着いていた。
心配だったブライアンの容態も落ち着いており、それが一番嬉しかった。
心が落ち着いているとはいえ、私は微塵も気を抜くことは出来なかった。
気を緩めたらその瞬間、再び〈死神〉が現れるという緊張感があったから。
そして、七夕賞の翌月の8月末。
私は再び重賞の新潟記念に出走することになった。
ここで勝てば、秋の大舞台に立つ切符を間違いなく得られる。
だが負けたら、その切符は失われるだろう。
私にとって、再び負けることが許されないレースだった。
だが、レースは距離こそ芝2000mという適正距離だったものの、馬場状態は私の得意でない重だった。
更にハンデ重賞の為、私には出走メンバー中最も重いハンデが課せられた。
今までと違う厳しい状況下だけど、それでも勝たなければならない。
私は覚悟を決めて、レースに挑んだ。
レースの展開は、懸念したように苦しいものとなった。
前走と同じく中団につけてレースを進めたものの、ハンデの重さや馬場状態の悪さに苦労し、かかり気味になってしまった。
それでもなんとかミスを極力抑えてレースを進め、最後の直線に向いた。
馬場状態もあり混戦状態となった直線、私はスパートをかけた。
だけど、末脚が伸びきれない。
混戦状態の中、一人の走者が徐々に抜け出し、残り200mで先頭に立った。
私は彼女を必死に追い縋ったが、ハンデと馬場の苦しさにどうしても伸びきれない。
終わったか…
私は思わずそれを覚悟した。
ここまで来て、悪条件に屈するのか。
…屈するものか。
諦めかけた心を、私は振り払った。
七夕賞の時もそうだった。
追い詰められて追い詰められて、そこから勝つことが出来たんだ。
七夕賞の時より状況が苦しかろうが、諦めていい理由になんてならない。
ゴールの瞬間まで、全てを出しきれ。
悪馬場を踏みしめ、私は末脚を繰り出した。
するとその時、七夕賞の時と同じようにまた身体全体が力強い感覚に包み込まれた気がした。
…まただ。
私は再び感じたその不思議な感覚の中、末脚を繰り出し続けた。
馬場に苦しんで重かった筈の脚が軽い。
私は脚を弾ませ、最後の力を振り絞って先頭を追い縋った。
そしてゴールの瞬間、私が僅かハナ差でゴールに先着していた。
七夕賞に続き、新潟記念を優勝。
重賞連勝で、私は秋の大舞台への切符を手にした。
6年生の高齢ウマ娘の私が、ローカルとはいえ重賞を連勝したことは、七夕賞優勝時と同じくそれなりにニュースになったようだった。
引退目前のウマ娘の輝きとか、ナリタブライアン世代の最後の意地とかよく分からない称賛のされ方だったらしいけど。
私は前述のように目標がその先にあったので、それを果たすまでメディアには出ないと決めていた。
ただ、私の目標だけは公言した。
〈私オフサイドトラップの目標は『レースの頂点』、それだけです〉と。
私が公言した目標については、どうやら世間には冷笑されたらしい。
幾ら重賞連勝したとはいえ、6年生の高齢ウマ娘が頂点を目指すなどとは身の程知らずと思われたのだろう。
加えて、私が向かうであろう大舞台には規格外の強者がいることもその理由か。
もっとも、そんな世間の反応など、今の私にとってはどうでも良かったが。
そして9月に入り、私は最後の目標である頂点の舞台に挑むことを決めた。
11月1日に開催される第118回、天皇賞・秋に。
第118回天皇賞・秋に向けてのローテは、トレーナーと相談を重ねた末、前哨戦を挟まずに直行するということになった。
当初は10月の毎日王冠へ出走するという案もあったが、私の脚の状態がそれを許さなかった。
復帰後、ここまで脚は痛みだけで収まっているものの、連戦による影響でいつそれが病魔へと変わるか予断を許さない状態にあった。
これ以上、脚に負担をかけることは極力避けた方がいいとの考えで、前哨戦は回避すると決めたのだった。
ローテが決まると、私はしばらく休養することにした。
前述のように脚の状態を懸念しての休養だった。
その間、療養施設へ療養仲間の見舞いに行ったり、チーム仲間のトレーニングの協力やレースの応援などにも行った。
でも休養の間に最も費やした時間は、闘病中のブライアンと過ごした時間だった。
ブライアンは、余生を送っている地で闘病生活を続けていた。
数ヶ月前に発病した際は命が危険な程の状態だったが、その後療養を続ける中で順調に快復していた。
少しずつ元気になっていくブライアンの姿を見ていくことは本当に嬉しかったし、それだけで力をもらった気がした。
また、海外で療養中のローレルとも連絡をとり、三人で話す時間もよくあった。
ローレルもまだ帰国の目処は立たないものの故障は順調に快復しているとのことだった。
今は離れ離れにしまった私達だけど、再会できる日も近い。
そう感じた。
9月下旬に差し掛かると、私はトレーニングを再会し、同時に秋天に向けた戦略を練り始めた。
天皇賞・秋に出走するメンバー全員がまだ決まってなかったが、最高峰のレースであるだけに主要のメンバーだけはおよそ目星がついていた。
鳴尾記念でエアグルーヴを破ったサンライズフラッグ。
私が新潟大賞典で敗れたサイレントハンター。
前年の有馬記念の覇者シルクジャスティス。
天皇賞・春の覇者メジロブライト。
G1で好走を続けるチーム仲間のステイゴールド。
そして、大本命である宝塚記念覇者のサイレンススズカ。
この大敵達を相手にどうレースをするか、どうすれば勝てるか、懸命に戦略を練りながら調整を進めていた。
…以上が、私の9月27日までの記録。
(回想録 終わり)