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天皇賞・秋から数日間。
岡田は、異変を感じたオフサイドのことを警戒し、彼女の状態を注視し続けていた。
その間、オフサイドから再びあの気配を感じることはなかった。
だが、夢見てた栄光を手にしたにも関わらず、彼女の心身の状態は不安定に思える日々が続いていた。
そしてある日、岡田はオフサイドと二人きりで、そのことについて話した。
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「率直に尋ねる。今のお前、心の状態がかなり良くないんじゃないのか?」
「…はい。」
オフサイドは、正直に答えた。
「原因は…天皇賞・秋か?」
「…。」
オフサイドは、無言で重く頷いた。
「どうしてだ?あのレースで、お前は大願成就を果たしただろ。内容だって完璧な文句のつけようのないものだったじゃないか。それなのに、何故曇る?」
岡田は理解が出来ないように尋ねた。
「…喜べないんです。」
オフサイドは、暗い声で答えた。
「トレーナーの言葉通り、私は完璧な走りが出来ました。自分の力全てを出し切って、壊れることもなく先頭でゴールを駆け抜けられました。それは確信しています。なのに、心が全然嬉しくないんです。」
「…サイレンススズカの故障があったから、勝利に自信がもてないのか?」
暗い声のオフサイドに、岡田はそう尋ねた。
「スズカの故障は関係ないです。」
オフサイドは、そこは即座に首を振った。
「無事でいるものも能力のうち、なんなら運だって実力のうちです。どんなに強いウマ娘でも、走り切らなければレースにならない。どのような展開であれ、最後まで無事に走り切って先頭でゴールした者が勝者。その尊厳は絶対です。今回の天皇賞・秋、私はスズカを含めてメンバーの誰よりも強かったと自負してます。」
反論すら許さないように、オフサイドは断とした口調で言った。
「じゃあ、何故喜べないんだ?」
「…レースの尊厳とは別で、スズカの故障に対するショックがありますから。」
オフサイドの口調は、断としたものから憂いと悲しみを帯びたものに変わった。
天皇賞・秋からまだ数日後の現在、瀕死の重傷を負ったスズカの容態は以前予断を許さない状況が続いていた。
かつて彼女とチーム仲間でお互いを認めあう関係にあったオフサイドが、スズカの容態を深く憂いているのは当然だった。
「どうか助かって欲しいです。もう二度と走ることは出来なくなったとしても、どうか生き残って欲しい。生きていれば…生きてくれさえいれば…」
祈るように言いながら、オフサイドの身体が震え出していた。
彼女の手のひらには、白いシャドーロールが握られていた。
「…。」
岡田はしばらく黙って、オフサイドの様子を見守っていた。
スズカの命を憂う彼女の心境と、それと共に意識にあるであろう同胞のことを察したから。
「やはり、スズカの故障が理由か。」
少し時間をおいた後、岡田は再び口を開いた。
「勝利の喜びよりも、今はその憂いが胸中を占めているということなんだな。」
「…いえ、それだけじゃないんです。」
オフサイドは、首を振った。
「自分が信じてきたものが、崩れていくような不安に襲われているんです。」
「信じてきたもの?」
「レースの尊厳と、この世界への希望です。」
オフサイドの口調は、心の底から恐れるような口調だった
「私は、この世界で本当に天皇賞ウマ娘と認められたんでしょうか。」
恐れる口調で、オフサイドは続けた。
「さっき言った通り、私は私自身のことを文句のつけようのない天皇賞・秋の勝者だと自負しています。あの日の夜にトレーナーも私をそう讃えてくれました。だけど…この世界の人々はどう思ってるんでしょう?」
「…。」
「あのレースを終えた直後から、この私を天皇賞ウマ娘だと認めたくないという空気が、この世界に大きく渦巻いている気がするんです。」
「オフサイド…」
「いや、…私を天皇賞ウマ娘を認める云々以前に、あのレースのことを…第118回天皇賞・秋を価値のないレースだとするような空気が…」
「思ってもそのような表現を口にするな。」
オフサイドの言葉を途中で遮り、岡田は厳しい口調でそれを咎めた。
「お前はレースの頂点の一つに到達したんだ。この世界に何千何万といるウマ娘の中でほんの僅かな者でしか手に出来ない栄光を手にしたんだ。そのお前が、頂点の価値を疑うようなことはあってはならない。」
「…トレーナー。」
「頂点の価値を疑うことは、お前に希望を託した同胞や、お前が背負ってきた幾多の同胞への大きな侮辱だ。それはお前が誰よりも分かってる筈だろ。」
「…分かってます、分かってますよ。」
咎めた岡田に対し、オフサイドはやや表情を蒼白にして言い返した。
「頂点の価値と尊厳の重さは分かってます。分かってるから、私はレース後に躊躇なくその喜びを表現したんです。スズカの故障への動揺も堪えて、栄光を手にした歓喜に浸った。私を信じてくれた仲間達の為にも、絶望と闘う同胞達、散っていった同胞の為にも。そして…」
オフサイドの声が、不意に詰まった。
「…かけがえのない同胞の為にも。」
「…。」
岡田は、また黙った。
彼女の胸中に浮かんだ同胞が誰なのかは考えるまでもなく分かっていた。
「だけど…不安が抑えきれないんです。」
オフサイドは、恐れる表情で胸に手を当てた。
「この第118回天皇賞・秋に対する人々の視線と思いは、歴史上に前例がない程複雑に揺れ動いてる。それも歪んだ方向に。…そのことを、私よりも私の中の魂達が感じているんです。」
「お前の中の魂だと?」
「はい。」
怪訝な表情を浮かべた岡田に、オフサイドは頷いた。
「クッケン炎に罹りターフに帰ることも出来ず散った魂、栄光とは無縁で無名のまま散った魂、全てに絶望した果てに散った魂…。〈死神〉を乗り越える為に、私がかき集め背負った同胞の無念の魂のことです。それが、異変を起こしてるんです。」
「…理解が追いつかないが、その魂の群れが、現実に起きてることに対して危険な反応を示してるということだな?」
岡田は困惑しながらも、緊張した表情で言った。
「はい。」
「…そうか、そういうことか。」
岡田は納得したように腕を組み。表情を更に険しくさせた。
「お前から感じた危険な気配の正体は、それだったのか。」
「…正直に言うと、かなり深刻な状態です。」
胸に手を当てたまま、オフサイドも険しい表情になった。
「このままでは、同胞達の魂は、“負”の〈死神〉の餌食になってしまうかもしれないんです。」
「負の〈死神〉…」
岡田は表情を歪めた。
彼もその存在を知っていた。
クッケン炎などの“病”の〈死神〉や心を侵食する“絶望”の〈死神〉とは異なる、魂を虚無の底に落とす負の〈死神〉。
それは、ウマ娘が何よりも恐れる最悪の〈死神〉だった。
心はおろか魂までも侵食し、全てを奪って虚無の底に叩き落とす最悪の〈死神〉か…。
岡田は長いキャリアの中で、病の〈死神〉や絶望の〈死神〉に侵食されたであろうウマ娘達は無数に経験してきた。
ただ負の〈死神〉の経験となると、ほんの僅かしか思い当たらない。
その僅かが、あのハマノパレード事件とサンエイサンキュー事件という、ウマ娘の世界を崩壊させかけた時のものだった。
表情を歪めている岡田に、オフサイドは続けた。
「絶望の中で帰還してしまった同胞達の魂は、常に負の〈死神〉に浸される危険があるのです。…目には見えませんが。」
「…侵食されたらどうなるんだ。」
「現実と同じく、その魂は虚無の底に突き落とされるでしょう。そして…これは予感でしかありませんが、生きている同胞達の魂にも連鎖して、甚大な影響を与えると思います。」
かつて起きたウマ娘界の危機に陥る可能性があることを、オフサイドは示唆した。
「何故、そんなことになってる。」
「…先程言ったように、ウマ娘にとって絶対であるべき尊厳が、不可解な原因で揺るがされているからではないでしょうか。」
「お前自身は、負の〈死神〉の侵食を受けているのか?」
「標的にはされてます。」
オフサイドはそれ以上答えず、胸から手を下ろした。
冷たい汗が彼女の頬を伝っていた。
「…。」
岡田も険しい表情で腕を組んだまま、しばらく何も言わなかった。
「あいつは、」
重い空気の中、岡田が最後に尋ねた。
「サクラローレルは、お前の天皇賞制覇をなんと言ってた。」
「…ローレルは、私の天皇賞制覇を心の底から賞賛してくれました。」
その言葉と裏腹に、オフサイドの口調は暗かった。
「ローレルの賞賛では、満たされないのか?」
「…ローレルの賞賛のおかげで、私は心を繋ぎ止められている状態です。」
オフサイドは俯いた。
無二の盟友への思いと、胸中に蠢く苦悩が、その表情に滲んでいた。
二人だけの室内は、深刻な憂いの空気に満たされていた。
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