「そういうことでしたか。」
美久から正体を明かされたオフサイドは、全く驚きの表情を見せず、軽く頷きながら言葉を続けた。
「何故あなたが私と会いたいのかその理由が不明でしたが、それが事実ならば納得が出来ました。」
どう考えても衝撃的事実であるのに、オフサイドは平然とした口調のままだった。
「…どうして分かったの?」
自分が明かすよりも早く正体を見抜いたオフサイドの推察力に、サンキューは恐れを抱きながら尋ねた。
「以前から、美久さんが元ウマ娘なのではないかという噂が流れていて、ふとそれを思い出したんです。」
オフサイドはコーヒー杯に手を伸ばし、それをゆっくりと飲んだ。
「…それだけで?」
「あとは、あなたの中から〈死神〉に浸されたウマ娘の魂を感じたので。」
「…え?」
「“負”の〈死神〉に囚われ、救いのない虚無に落ちた同胞の魂のことですよ。それを抱えているウマ娘は、限られた者しかいませんから。」
虚無に落ちた魂…
その言葉に、サンキューは自らの胸に手を当てた。
「今の私から、それを感じるの?」
「ええ。」
オフサイドは頷き、胸を押さえたサンキューの手を射抜くように言った。
「どうやら、私に会ってしまったことで、サンキュー先輩の中にあったそれが呼び覚まされてしまったようですね。」
「…。」
「逃げて下さい。」
胸に手を当てたまま沈黙したサンキューに、オフサイドは無表情で促した。
「今、どのような状況になっているかお分かりでしょう?」
先程からオフサイドの全身から溢れ出した〈死神〉の気配が、絶望の冷たさを伴って、いつのまにかサンキューを完全に覆い包もうとしていた。
「このままでは、サンキュー先輩はまたしても〈死神〉の餌食になってしまいます。その前に逃げて下さい。先輩を再び絶望と虚無の底に落としたくはありませんから。」
本当だ…
オフサイドの凍てついた雰囲気と、彼女から溢れ出す膨大な〈死神〉に覆われながら、サンキューは岡田やビワから伝え聞いたことを思い出した。
“オフサイドは幾千万のウマ娘の無念の魂を背負ってしまっている”
“その絶望の魂が爆発しかかっている”
それが事実であることを、サンキューははっきりと感じとった。
「…逃げないわ。」
恐怖心を堪え、サンキューはオフサイドの冷たい眼を見つめ返して答えた。
「〈死神〉の餌食になってもいいのですか?」
「その覚悟は出来てる。例えそうなろうとも、私には今のあなたに伝えたいことがあるから。」
サンキューは、既に逃げることなど出来ない状況に追い詰められていることを悟っていた。
「…。」
サンキューの言葉に、オフサイドは小さく吐息を吐くと、ゆったりと椅子にもたれた。
「ではどうぞ。〈死神〉の手に落ちるまで、私に伝えるべき言葉を述べて下さい。」
冷たい言葉が、オフサイドの唇から寒気を伴って漏れた。
「…オフサイドトラップ。」
サンキューは恐れを振り払うように一度深呼吸し、改めてオフサイドを見据えた。
「あなたが、ある決意をもって明日の有馬に出るということは既に知ってる。」
「…。」
とうにそれも察していたのか、オフサイドは特に反応を見せなかった。
冷たい汗を身体に感じながら、サンキューは更に言葉を続けた。
「私はあなたのその決意を変える為に会いに来た。6年前、あなたの同じようになってしまったウマ娘であるサンエイサンキューとして。」
「6年前…。」
サンキューのその言葉に、オフサイドはピクと反応した。
「サンキュー先輩も、私と同じく帰還を決意して有馬に出たのですか。」
「帰還しようとは、思ってなかった。」
サンキューは首を振り、俯きながら重い声で言った。
「ただ、もう何もかもどうでもいいって心境で、あの有馬記念に出た。」
*****
6年前の有馬記念、出走直前。
「サンキューさん。」
ゲート前で待機していたサンキューに、同じく待機していたライスシャワーが声をかけた。
「本当に、このレースに出て大丈夫なんですか?」
「あなたらしくないわ、ライスシャワー。」
ライスの問いかけに、サンキューは注意で答えた。
「対戦相手の心配なんてしちゃ駄目でしょ。それじゃ集中力が乱れるよ。」
「気にしないで下さい。ライスはこのレースではサンキューさんをマークしてないし、サンキューさんに負けるとも思ってないから。」
「ひどいよライス。」
「…サンキューさん。」
膨れたサンキューに、ライスは誤魔化さないで下さいと視線を強くした。
「ライスも分かってるんです。今のサンキューさんは身体も心も、もうレースを走ることすら出来ない状態だってことを。」
「ライス、」
心配で一杯のライスに、サンキューは笑みをもって答えた。
「本当に大丈夫だから。少なくとも無事には走り終えるからさ。」
「嘘です。」
ライスは首を振った。
「だって、サンキューさんの眼は全然輝いていません。脚からは骨が軋む音まで聴こえます。そんな状態では、無事に完走することさえ…」
そこまでライスが言った時、ファンファーレの音が鳴った。
「…。」
ファンファーレが響く中、サンキューはぽんとライスの肩を叩いた。
「…後は頼んだよ。」
「え…?」
「お互い、無事にレースが終わることを祈ろう。じゃあ。」
サンキューは背を向けると、ゲートへと向かった。
…ごめん。
ゲートに入ると、サンキューはライスや同期のティアラ仲間達の姿を思い浮かべ、心の内で彼女に謝罪した。
あなた達の言う通りだわ。
もう私には、走る脚も心も残ってない。
だからこれが、私の最後のレース…
スタートが開かれた。
そしてサンキューは、その待ち受ける運命の先へと走っていった。
*****
「故障する気はなかった。でも、ただ完走して…それで終わり。そんな虚な思いで、あの有馬記念を走った。信じていた人間に何度も裏切られたことで、希望も何もかも失ってたから。」
サンキューは、その記憶を思い出しながら、身体の震えを堪えて言葉を続けた。
「そして、結末は知っての通り。最後の直線に入って、ほんの少しスパートをかけようとしただけで、軋んでいた私の脚は砕けた。」
言いながら、かつて砕けた自らの右脚をサンキューは見つめた。
「故障した瞬間、私は最期を悟ったよ。でも、悲しくもなんともなかった。耐え難い激痛に対してすら、どこか嬉しさを感じた。これで全ての苦しみから解放されるって。」
右脚を見つめるサンキューの表情に、深い翳りが見えた。
「…。」
オフサイドは少しも感情を動かされてない様子で、彼女の話を聞いていた。
「だけど、私は予後不良の重傷だったのに、すぐには安楽帰還執行されなかった。何故なら、トレーナーがそれに反対したからね。その理由は…私に生きてて欲しかったからなのか、それとも自らの保身の為だったのか…まあ、それはいいや。」
考えたくないなと、サンキューは苦しそうに唇を噛んで首を振った。
「すぐに帰還執行されなかった結果、私は延命する中で、有馬記念後に何が起こったか知ってしまったの。そう、私が予後不良になったことを知った仲間達が、悲しみのあまりに人間や学園に対して負の思いを爆発させてしまったことを。」
「…。」
それを聞いたオフサイドの表情が、ほんの僅か動いた。
「…その時の状況がどんなものだったか、私は詳しくは知らない。ただ一つ、そのことを知った私は、初めて自分がおかした過ちに気がついた。」
サンキューは、それをゆっくりと言った。
「一つは、自分がどうなってもいいという心の状態でレース出たこと。一つは、無事に走り終えるという約束を果たせなかったこと。そして…もう一つが、自分を大切に想う仲間達の存在のことを忘れてしまったこと。」