1998年11月1日「消された天皇賞覇者」   作:防人の唄

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魂襲(1)

***

 

 

オフサイドから爆発するように溢れ出た〈死神〉の気配は、一瞬にしてヘリオスとルビーを覆い飲み込んだ。

 

無論それは視覚には見えないものだったが、ヘリオスもルビーも自分達にそれが襲いかかったことを悟った。

そしてそれは二人を覆い込むと同時に、その心に、脳裏に、魂に、濁流のように一気に侵食した。

 

 

 

…これが、〈死神〉に穢された同胞達の魂の、成れの果てなの…?

侵食してきた負の〈死神〉と、それに染まった同胞達の魂をまともに感じ、ヘリオスはふらっと地面に両膝をついた。

幾千万の同胞の亡骸が一面に広がった光景が脳裏に流れこんできた。

声にならない虚無の叫びが心に響きわたった。

猛毒のようなそれは、重たさだけでなく氷のような冷たさも伴って、自身の心にあった希望、夢、支え、何もかも溶かすように消滅させていく気がした。

魂が永遠の奈落の底に引きずり込まれていくような、そんな感覚がした。

「…。」

ヘリオスは胸を抑え、歯を食いしばって気を保った。

気を緩めたが最期、〈死神〉の餌食になりそうだった。

 

 

「恐ろしいね、オフサイドトラップ…」

這いつくばりそうなのを堪え、ヘリオスは表情を歪めて胸を抑えながら、オフサイドの姿を見上げた。

「あなた、これ程のものをずっと抱えてたのに、外見だけでも平然としてられたなんて。」

 

「そうでもないです。つい先日までは苦しさから正気を失いそうな程吐きまくってましたし、今でも結構正気を保っているのがやっとな状態ですから。」

先輩の同胞を見下ろしたまま、オフサイドは微笑を湛えながら無感情な口調で答えた。

「〈死神〉によって追い込まれ散っていっただけでなく、敗者という犠牲がある中でも存在していくレースの尊厳という絶対的なものが不可解な理由で破壊された。それによって負の〈死神〉に落ちた魂ですから、それはもう虚無も虚無です。」

「…レースの尊厳の破壊が、散っていった魂達にこれだけの影響を与えてたの?」

「絶望の最果てで闘う同胞達は、レースの尊厳に対する意識は並の同胞以上に強いんです。そのレースに出ることすら厳しい状況に置かれている者達なのですから。」

 

「…尊厳が破壊された当事者のあなたも、そうなの?」

しゃがみ込んだヘリオスの傍らで、ルビーが震える声で問いかけた。

彼女も〈死神〉の侵食を受け、なんとか立ってはいたものの表情は苦しみを表すように蒼白に歪んでいた。

「不屈も軌跡も栄光も何もかも否定された現実を受けて、やはり虚無の底に落ちてしまったの?」

 

「私ですか?私は…。」

ルビーの問いかけに、オフサイドは少し考えてから答えた。

「それは、まだ言えません。」

「…どういう意味ですか?」

「言うべき相手にそれを伝えますから。」

 

「…どういうことかな、オフサイドトラップ。」

明らかに隠す意図のあるオフサイドの返答に、ヘリオスが咎めるように言った。

「あなたは世間の理不尽な攻撃を受けた結果、絶望のあまり自らを天皇賞ウマ娘に値しない勝者だと自己否定する程に追い詰められ、その果てに負の〈死神〉の侵食を受け、有馬記念で帰還する決意に至った…そう聞いてるわ。」

「…。」

「もしかして、違うの?」

 

「ヘリオス先輩。」

オフサイドは微笑を消し、無感情に眼を光らせてヘリオスを見据えた。

同時にヘリオスを侵食していた負の〈死神〉の力が強くなった。

「…く…。」

「先輩方のお相手は、〈死神〉とそれに侵された同胞達です。私ではありません。無関係な詮索はしないで下さい。さもないと、先輩方といえども虚無の底に落とされてしまいます。」

苦悶の表情で身体を伏せたヘリオスに、オフサイドは冷たい声で言った。

 

「ヘリオス…」

ルビーも地面に膝をつき、身を伏せたヘリオスの背に手を当てて呼びかけた。

「…大丈夫だよ、ルビー。」

心配いらないと、ヘリオスは苦悶の中に微笑を見せた。

「これぐらいの苦しさはなんともないさ。相手は幾千万の虚無化した同胞の魂の群れだ。彼女達が受けた苦しみに比べれば、この程度…。」

言いながら、ヘリオスは身を起こした。

 

 

「…オフサイドトラップ、私達を舐めては駄目だよ。」

身を起こしたヘリオスは、侵されゆく心と意識をなんとか保ちながら、オフサイドを見据えた。

「あなたは確かに、〈死神〉を何度も乗り越えた規格外の魂をもつウマ娘だわ。ただの精神力なら、私達でも及ばないかもしれない。…でもね、それだけが強さじゃないよ。」

「…。」

「レースで栄光の覇道を刻んだウマ娘の心もねえ、結構な強さを備えてるんだよ。」

 

「ええ…その通りです。」

ヘリオスの言葉に、傍らで地面に膝をついていたルビーも微かに頷いた。

「自分で言うのもなんですが、栄光の舞台で頂点を目指して闘い続けたウマ娘の強靭さというのは、〈死神〉如きに易々と屈するものではありません。ましてや私達は、レースで一時代を築き、生徒会としてウマ娘界の責任を担う者…」

言いながら、ルビーは蒼白な表情の中で宝石色の瞳を揺らめかせ、ヘリオスと同じく脚を踏ん張って、彼女と並ぶように身を起こした。

 

「この程度の〈死神〉には、我々は屈しません。同胞の無念の魂だって幾らで背負っていけますし、いずれ浄化させられます。」

流れ込んでくる〈死神〉の侵食に耐え、ルビーはオフサイドを再び見据えた。

「さすがはお嬢だ。」

ルビーの毅然とした姿を見て、ヘリオスはまたふっと微笑した。

並のウマ娘ならば一瞬で正気を失いそうな程の膨大な死神の侵食を受けながら、二人の偉大な足跡を残したウマ娘の瞳は確かに光っていた。

 

「やはり、偉大な先輩方ですね。」

毅然とした姿勢を再び見せたルビーとヘリオスに、オフサイドは感心したような声を出した。

「既にお二人とも崩落寸前になってるのに、なおも〈死神〉に抗う姿勢を見せるとは。私では届くことのない、偉大な栄光の足跡を残したウマ娘の誇り…。」

 

「少しは見直したかな?」

「ええ。ただ、先輩方だけでは少なかったですね。」

「え…?」

「〈死神〉の相手がお二人だけでは、あまりにも不足でした。偉大な同胞がもっと揃った状況ならば、簡単に『大償聲』が起きるようなことはなかったでしょうから。」

オフサイドトラップの表情は、その言葉と同様に危険な微笑を帯びていた。

 

 

「…『大償聲』?」

「ええ。それだけの規模になるのです。幾千万の同胞を虚無に落とした負の〈死神〉の大きさは。」

愕然とした二人に、オフサイドは平然と言った。

彼女から溢れ出ていた〈死神〉の気配が、いつの間にか巨大な塊のようになって、闇空に向かい突き上がっていた。

 

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