「これは…。」
「解放された負の〈死神〉が、全てのウマ娘を侵食相手と定めたのです。」
オフサイドは、無表情のまま〈死神〉の巨大な塊を見上げた。
「ウマ娘界の尊厳が破壊され、更に幾千万の同胞の魂が虚無の底に落ちた。〈死神〉にとってこの現状は、全てのウマ娘を侵食するにまたとない絶好機になったということですよ。」
「そんな…」
「もうこれを止める術はありません。やがてこの巨大な〈死神〉の塊は爆ぜてこの世界に飛び散り、全てのウマ娘に降りかかります。その魂を侵食する為に。」
「…負の〈死神〉が、全てのウマ娘に?」
ルビーは、表情が更に蒼白になった。
彼女程のウマ娘の心ですら即座に瀬戸際に追い詰めた〈死神〉が、全てのウマ娘の魂に襲いかかる。
それがどれだけ恐ろしいことをもたらすかは、容易に想像ついた。
「ご心配なく、全てのウマ娘が〈死神〉の手に落ちはしないでしょうから。」
オフサイドは蒼白になったルビーを見つめ、安心させるように首を振った。
「先輩方のような同胞は、〈死神〉の魔の手にも耐えきれるでしょう。他にも優秀な同胞達も大丈夫な筈です。〈死神〉の手に落ちるのは、この世界で不必要という現実と苦悩を抱えた同胞達だけでしょう。ですから、同胞全てが滅びるような事態には決してなりません。」
「…。」
「そう、不必要とされたウマ娘だけが、〈死神〉の餌食となるのです。あの最果ての場所で、人知れず散りゆく同胞達のように。」
オフサイドの視線は、療養施設の方角を向いていた。
巨大な〈死神〉の気配に纏われたウマ娘の表情は、何の感情もない無そのものだった。
「…。」
彼女に様々な言葉を投げかけたルビーもヘリオスも、この〈死神〉同然のウマ娘の真意はとても分からなかった。
だが、今彼女の遂行を阻止しなければ、途轍もない災いが起きることだけは明白だった。
「…止めるわ。」
愕然としていたルビーの傍ら、ヘリオスは蒼白な表情の中で眼を光らせ、オフサイドを見つめた。
「〈死神〉の爆発を止めると?どうやってですか?」
「オフサイド…その膨大な〈死神〉の矛先を、全てこの私達へと向かわせて。」
オフサイドの問いかけに、ヘリオスは答えた。
かつて見せたことのない覚悟の光が、太陽のウマ娘の眼に宿っていた。
「無理な要求をされますね。」
ヘリオスの眼光と言葉に対し、オフサイドは呆れたように冷然と見返した。
「私に出来るのは〈死神〉の制御だけです。〈死神〉を支配する力などはもっていません。」
「嘘はつくな。」
ヘリオスは口調も変わっていた。
「これは負の〈死神〉の力だけじゃない。…一つの到達点に辿り着いたウマ娘しか持ち得ない『領域』も感じるわ。この膨大な負の〈死神〉の塊には、あなたの意志も混じっているでしょう?」
「はは、何を仰るのですか。」
ヘリオスの指摘に対し、オフサイドは呆れたように笑った。
「私の意志は、〈死神〉との決着をつけること。それだけですよ?」
「〈死神〉との決着?…これのどこにその意志があるのよ。」
ヘリオスはオフサイドを睨みつけるように見つめ、その言葉を信じなかった。
「どう見ても、〈死神〉とあなたが結託して、同胞達に大きな災いをもたらそうとしているようにしか思えないわ。」
「そう思われるのでしたら、それでも構いません。」
ヘリオスの追及を、オフサイドは相手にしなかった。
「何と言われようと、もう現実は進行しています。私にこれを止める術はありません。」
闇空を覆い尽くす程に膨張していく〈死神〉の塊を見上げつつ、オフサイドは言った。
「オフサイドっ!」
「近づくことは許しません。」
「…っ…く…」
オフサイドに詰め寄ろうとしたヘリオスは、苦しみに歯軋りして両膝をついた。
ヘリオスを侵食する〈死神〉の強さが更に増し、彼女の心身を更に抉ったから。
「…。」
追い詰められたヘリオスの傍ら、ルビーは、自身も〈死神〉の侵食の苦しみを堪えながら、オフサイドを無言で見つめたていた。
宝石色の瞳には怒りと悲しみ、そして憐憫の色が混ざっていた。
「何か?」
ルビーの視線に気付き、オフサイドは冷然とヘリオスを見下ろしていた視線を彼女の方に向けた。
「…〈死神〉と結託したのではないというあなたの言葉は、信じます。」
ルビーはオフサイドを見つめたまま、冷静な静かな声で答えた。
「それはどうも。」
「結託したのではない…陥落したのね。」
「…?」
「虚無に心身を乗っ取られた。…そして…あなたが到達した『領域』も、〈死神〉に奪われた。」
「もう、無意味な問答はやめましょう。」
ルビーの言葉も相手にせず、オフサイドは面倒そうに首を振って言葉を打ち切った。
そして改めて二人を見下ろし、無表情で言った。
「両先輩とも、自身に侵食した〈死神〉に耐え切ることに集中されて下さい。その状態でこれ以上無駄に反発されたら限界を超えてしまい、虚無の底に落とされてしまいますから。」
「…限界を超えなければ、何も守れないよ。」
再度退避を促したオフサイドの言葉に、ヘリオスは朦朧としてきた意識の中で、こめかみを伝う冷たい汗を指先で払って薄く笑った。
「…限界で脚を止めたら、守れるものは自分だけ。限界を超えることで初めて、守りたいものを守れるようになるんだ…。」
「…その通りですわ。」
ヘリオスの言葉を聞き、ルビーも苦悶の表情の中で僅かに微笑した。
その微笑を残したまま、彼女はオフサイドを見上げて、言った。
「あなたもそうだったでしょう?あの天皇賞・秋、あなたは明らかに限界を超えていたのに、止まろうとしなかった。何故ならあなたには、間違いなく守りたいものがあったから。」
「っ…。」
ルビーの言葉に、オフサイドの無表情が初めて揺らいだ。
同時に彼女から溢れ出る〈死神〉の気配も、明らかに揺らいだ。
「知ってる者ならば、皆それを分かっているよ。」
オフサイドの動揺を感じとり、ルビーに続いてヘリオスが更に言った。
「あの天皇賞・秋で、あなたが着けていたシャドーロール…それが何よりの証だからさ…。」
「…黙って下さい。」
オフサイドの口から、これまでと全く違う暗い声が洩れた。
「その名を口に出さないで下さい…あの天皇賞・秋を語らないで下さい。」
平然としていたオフサイドの口調が、明らかに変わった。
同時に、ルビーとヘリオスを侵食していた〈死神〉とは違う、別の気配が彼女から溢れ出した。
それは、〈死神〉のような凶悪さはなかった。
しかし〈死神〉よりも重く、深刻なものが感じられた。
「私は何も守れていない…何も守れなかったんです。」
これまでと異なる気配を溢れ出させると同時に、仮面のような微笑ばかり浮かべていたオフサイドの表情には苦しげな色が滲み出していた。
「オフサイド…。」
「ケイエスミラクル先輩を守ったルビー先輩とは違う。ルビー先輩を守ったヘリオス先輩とは違う。私は…守れなかった。何も…何もかも…」
明らかに苦しみに満ちた呟きが、オフサイドの口から洩れていた。
ルビーにもヘリオスにも、それがはっきりと分かった
「オフサイドトラップ、やはりあなたは…」
「黙って下さい!何も言わないで下さい!」
言葉を出そうとしたルビーを遮り、オフサイドは冷静さを失った声で叫んだ。
同時に、彼女から溢れ出ていた別の気配は消えた。
「…無駄だったんだ、何もかも…」
オフサイドは眼を瞑り、すぐに見開くと表情を元の冷たい無表情に戻した。
「…そう、だからもう言葉はいらない。…使命を果たすだけでいい。」
口元で何言か呟くと、オフサイドは二人の先輩を冷然と見据えた。
「ダイイチルビー先輩、ダイタクヘリオス先輩。偉大なウマ娘である両先輩の願い、叶えて差し上げます。同胞達の魂の苦しみをどうぞ存分に背負って味わって、救えるだけ救って下さい。守れるだけ守って下さい。」
〈死神〉の嵐の中、オフサイドのその言葉と同時に、周囲を覆った〈死神〉の気配が更に激しくなった。