「オフサイドトラップ、」
一つ深呼吸をした後、デュレンは震えながらも覚悟を決めたのか、落ち着いた態度で口を開いた。
「あなたは、同胞のことを憎んでるのかしら?」
「憎んでなどいません。」
オフサイドはにこりともせずに答えた。
「さっきの二人に対しても、その感情はなかったの?」
「両先輩が望まれたことを叶えただけです。…まあ、ほんの少し平静を失いはしましたが。」
「平静を失った?」
「それ以上は答えたくはありません。」
オフサイドは黙ってというように冷たい視線をデュレンに向けた。
「…そう、憎んでないというあなたの言葉は、ここは信じるとしよう。」
デュレンは微笑で返した。
全くの部外者である彼女は、生徒会とオフサイドの間で何があったのかは当然知らないので、それ以上言及はしなかった。
「ただ、今のあなたは、そうなってもおかしくない状態に見えるわ。心が壊れて、同胞に対しても何の感情が無くなる位にね。」
…そう、心が壊れてね。
デュレンは瞳を曇らせた。
彼女も、自身を侵食していく〈死神〉と、それと共にこだまするウマ娘の魂の嘆きがどのようなものか、少しずつ分かり始めていた。
…これは、栄光の尊厳を破壊されたことへの嘆きと、それによって生じた負の塊か。
「ものすごく理解出来るよ…。」
浸されゆくのを感じながら、デュレンは同情するように呟いた。
あの天皇賞・秋のレースを観ていたデュレンも、周囲のオフサイドに対する気遣いのなさには不信感を抱いてたし、それによって彼女の心が壊れたのは無理がないと思った。
「…私もそうだったわ。」
同情しつつ、デュレンはぽつりと言った。
「最後の、あの有馬の時は本当に心が壊れかけたからさ。」
「最後の有馬、ですか?」
「うん、サニーライトの悲劇があった菊花賞、サクラスターオーの悲劇があった有馬記念、そこまでは何とか耐えられた。でも…スーパークリークの斜行を受けた、あの最後の有馬記念で、…心が壊れかけた。」
やや意外そうなオフサイドの問いかけに、デュレンは視線を落として答えた。
デュレンの言ったレースとは、丁度10年前の有馬記念のこと。
当時新たなウマ娘ブームを巻き起こしたタマモクロスとオグリキャップの最後の対決となったことで有名なレース。
結果は激闘の末、オグリがタマモを下して優勝という形で幕を閉じた。
しかし両ウマ娘が名勝負を演じた一方で、レース中にあるアクシデントが起きていた。
それは3着に入線したスーパークリークが、最後の直線でメジロデュレンの進路を妨害したというもの。
結果としてクリークは失格となり、彼女もそれを受け入れた。
しかしクリークの斜行による影響で5着に敗れたデュレンの方は、簡単に受け入れられなかった。
「あの有馬記念は、私にとって自分の力を証明出来る最後の機会だった。」
デュレンは視線を落としたまま、低い声で当時のことを話し始めた。
「その前に勝った菊花賞も有馬記念も、レース中に起きた悲劇の影響で、私は真の喜びも評価も得られなかった。その後は不甲斐ないレースばかり続いて…それでもようやく立て直して、私はあの有馬記念に挑んだの。」
「レース運びも完璧だった。直線向いた時の手応えも抜群だったし、スパートをかけた瞬間は、オグリもタマモもクリークもサッカーボーイもみんな破って勝てると思える位に心が躍った。最強の相手を総薙ぎにして、今度こそ完璧な栄光を手に入れられるとね。」
「でも、私が繰り出そうとした生涯最高の末脚は、一瞬しか出せなかった。失格覚悟のクリークの乱暴なコース取りの煽りを食らって…転倒寸前でなんとか堪えられたけど、その瞬間に私の栄光への夢は儚く消え去った。…永遠に。」
言いながら、デュレンの表情は夜闇よりも暗く翳って見えた。
暗い表情のまま、デュレンは当時のことを振り返り続けた。
「レース後は正気を失いかねないぐらい荒れたわ。フレッシュボイスやランニングフリーに止められなければ、私はクリークに手を出してたかもしれない。そうでなくても、私はその後のクリークの謝罪を受け入れなかったけどね。…おまけに、周囲はオグリとタマモの対決に最後まで熱狂し続けて、私が受けたアクシデントのことなんて誰も顧みなかった。…私が有馬優勝した時は、他のアクシデントや悲劇ばかり顧みて、私のことなんて全然評価してくれなかったくせにさ…。」
振り返る途中から、デュレンの身体が小刻みに震え出していた。
これまで表れていた恐れのものとは違う、耐え難きものを耐えるような震えだった。
「…。」
その様子を見つめるオフサイドは無表情のままだった。
そして〈死神〉の気配は、いつのまにかデュレンを覆い包んで完全に侵食していた。
「…その後、私はすぐに引退したわ。もうレースが嫌になったから。」
苦い過去の追憶と〈死神〉の侵食に、口調も小刻みに震わせながら、デュレンは続けた。
「引退後は生徒会役員になったけど、長く保たず辞めた。G1を複数回勝った実績はあったけどどちらも評価される内容じゃなかったから、ウマ娘界の要職を全うするには格が足りないことを痛感したの。そのまま学園から去って、次世代の輩出の仕事もすぐに辞めて、その後は今日まで…ずっと隠遁生活を送ることにしたの。」
「隠遁、ですか。」
「そう、隠遁…」
オフサイドの聞き返しに頷きながら、デュレンは俯いて言葉を続けた。
「世を捨てたも同然みたいな響きだけど、それは私なりに考えた、私自身を守る為の最善策だったわ。」
「最善策?」
「そうよ。隠遁しなきゃ、私は溜め込んでいたものが爆発しそうだったから。心が壊れて、同胞を憎むことになりかねなかった。…負の〈死神〉の手に落ちそうだったから。」
デュレンは震えながら、掌を強く握った。
「どんなに落ちぶれたとしても、そうなることだけは絶対に避けたかった。それが私の…ウマ娘メジロデュレンの最後のプライドであり意地だった。だから隠遁した。世を捨てて逃げて、皆の前から姿を消した。」
そこまで言うと、デュレンは黙った。
しばしの間、沈黙が流れた。
「…そして、今日まで長い歳月が流れた。」
やがてデュレンの小刻みな震えは止まり、彼女は再び口を開いた。
「今でも、私は当時のことを大きく引きずってる。クリークに対しても大分和らぎはしたけど、まだ本心から許せないと思う。詳しくは言えないけどメジロ家の家族に対してもわだかまりが残ってる。…何より、妹のマックイーンにも複雑な感情を抱いたままよ。」
重い言葉を並べながらも、デュレンの口調は穏やかなものに戻っていた。
「…だけど、最後の一線は守った。同胞への憎しみだけは抱かなかった。理不尽な感情を抑えて、負の〈死神〉に心は奪われなかった。逃げることが出来たから。」
そこまで言うと、デュレンは顔を上げた。
オフサイドの希望もなにもない瞳を見つめ、そこにかつての自らの姿を照らし合わせながら言った。
「オフサイドトラップ、心が壊れそうなのならば、何もかも捨てて逃げてもいいのよ。」
「…。」
黙ったままのオフサイドに、デュレンは言葉を続けた。
「闘い、抗うだけが正しい道なのではないわ。この世界には抗いようのないものだってある。その事柄に直面した時は、例え理不尽なことだろうと、到底納得の出来ないことだろうと、ただひたすら逃げて、逃げて、自分を守ることも重要だわ。そして、時の流れに心の癒しを託すの。それは、生きる為に大切な手段の一つなのだから。」
そこまで言うと、デュレンは再び瞳を伏せて沈黙した。