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11月1日の夜、府中競バ場。
表彰式後、オフサイドトラップは天皇賞の盾を抱きながら、誰もいない観客席の中で1人ぽつんと座っていた。
先程までは彼女を探していた岡田がここに来ていたが、岡田が帰路についた後もオフサイドはしばらくその場に留まっていた。
夜闇に包まれた競バ場内、オフサイドは一人、コースを眺めていた。
「…そうだよね。時間、かかるよね…。」
しんとした空気の中、ぽつりと、彼女の口から呟きが洩れた。
悲願であり夢であった天皇賞・秋優勝を成し遂げたものの、オフサイドの心は喜べる状態になかった。
それは勿論、レース中に起きたスズカの故障というアクシンデントがあった為だった。
そのアクシデントの影響で、本来ならば勝者が受ける歓声も称賛も殆どなく、ウイニングライブも中止となり、動揺と悲嘆に満ちた雰囲気のまま終始した天皇賞・秋。
そんな前例のない状況では、今すぐは心から栄光を喜ぶことが出来ないのも至極当然だった。
でも、やれるだけのことはやった…
複雑な心境の中、オフサイドは自らの行動を省みた。
自分も、レースが終わった後からスズカの故障に意識が向いた時は、かなりの混乱に陥った。
それでも動揺は見せず、インタビューでは自分が優勝したという事実をちゃんと喜びで表現したし、最後まで笑顔を貫き通した。
表彰式でも、この栄光の盾を自信をもって受け取った。
勝者の義務は果たした。
このレースが悲劇一色に染まってしまうことは阻止出来た筈…
複雑な心境の中で、オフサイドは何度も自分にそう言い聞かせた。
それよりも…
ふと、オフサイドは眼を瞑った。
意識を、自らの心の奥へと向かわせた。
オフサイドの心の奥底には、これまで彼女がかき集め、そして背負った数多のウマ娘達の魂が宿っていた。
レースで散っていった魂。療養施設で散った魂。人知れず歴史の果てに消えていった魂。
それらの魂が、オフサイドの心の奥底で不気味な鳴動を起こし始めていることに、彼女は気づいていた。
…やはり。
眼を開いたオフサイドは、胸を抑えつつ表情を曇らせた。
この天皇賞・秋の結末が、同胞の魂達に異変を起こさせているのだと、はっきり感じたから。
同胞達の魂の願いを叶えたのに、栄光を掴んで魂を昇華させることが出来た筈なのに…逆に曇り出している。
「…落ち着いて。」
危機感が募る中、オフサイドは胸を抑えたまま、心の奥に語りかけた。
魂の不気味な鳴動の理由を、彼女は察していた。
散っていった同胞達にとって、最期の最期まで抱き続けた希望で生きる意味でもあった、レースの頂点という栄光とその尊厳。
それが揺るがさかねない現状に対して、悲嘆と不信が生じている。
その結果、魂が曇り出しているのだと。
そう、負の〈死神〉の侵食を受け始めたのだと。
…駄目、曇ってはいけない。
オフサイドは、鳴動する魂達に願った。
このまま曇ってしまったら、負の〈死神〉に浸されてしまうかもしれない。
救われることの出来ない、虚無の闇に落ちてしまうかもしれない。
「まだ、時間が必要なだけだから…」
さっき呟いた台詞を、オフサイドは再び口にした。
…今は、サイレンススズカの悲劇の影響が大き過ぎて、誰もが動揺してしまってる状況なの。
栄光の尊厳に、気を向けない状況なの。
レースが終わった今は、スズカの命の方が大切だから。
…大丈夫、時間が経てば、かならず栄光への称賛はされる。
天皇賞の尊厳は、快復される。
「私も、そう信じてるから。」
オフサイドは、天皇賞の盾を抱きしめながら、心の奥に必死に呼びかけた。
「私は完璧な走りをした。自分の力を全て出し切った。どれほどの絶望や〈死神〉が相手でも、ウマ娘の魂の強さには敵わないということを証明出来た筈だわ。だから、どうか耐えて。」
***
しかしそれから数日経っても、オフサイドの心と彼女の中の魂は落ち着くことはなかった。
天皇賞・秋から時間が経つにつれ、栄光への尊厳が快復されると思っていた彼女の予測も、徐々に揺らぎ始めていた。
故障をしたスズカが依然命の危機にあるという状況の影響もあるとはいえ、あまりにも天皇賞・秋のことが無視されていた。
栄光の尊厳が快復されるどころか、まるでそれを否定するような空気が充満しようとしている。
オフサイドの憂いと、彼女の中の不気味な鳴動は、少しずつ深刻になっていった。
そんなある日。
オフサイドは学園で、スズカのことや天皇賞・秋について話している生徒達の声を幾つか耳にした。
その中でオフサイドは、天皇賞・秋の自分の言動について、思いがけない声を耳にした。
“レース後の勝者の言動は非情過ぎる”
“スズカ故障後の空気を読むなら勝利の喜びを自粛するべきだった”
という声を。
生徒内でもスズカに関すること以外では天皇賞・秋の内容に興味がもたれてないことは薄々感じていたが、自分へ非難の声があるということはオフサイドも初耳だった。
それを知った時、心が更に重くなった気がした。
その日の夜。
学園から帰ったオフサイドは、海外で療養中のローレルと連絡をとった。
心身が不安定な状況の中、彼女にとって最も支えとなる同胞はこの無二の盟友だった。
ローレルと連絡をとったオフサイドは、今抱えている苦悩を彼女に話した。
天皇賞・秋への歪んだ空気が渦巻いていること、スズカの悲劇は自分の心にも影を落としていること、レース後の自分の言動へ良くない指摘が出ていること、などを。
ただ、同胞の魂の深刻な異変については話さなかった。
オフサイドの話を聞いたローレルは、答えた。
“周囲の状況がどうであろうと、天皇賞・秋を勝ったことを誇りに思って”と。
“その誇りを保つ続ける限り、絶対にその栄光の尊厳は侵されることはない”と。
『有象無象の心ない声がどんなに大きくても、あなたが真の勝者だということは歴史の事実として揺るぎません。そして、あなたが掴んだ栄光の価値の大きさも、分かる者は皆分かっています。何よりこの私が、あなたの成し遂げたことの素晴らしさを分かっています。』
ローレルのその言葉は、確かにオフサイドの心に響いた。
だがそれは、彼女の深刻な憂いを消すほどのものにはならず、壊れそうな心を繋ぎ止めるに留まっていた。
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その翌日。
岡田に二人きりでチーム部室に呼び出されたオフサイドは、彼に自分の現在の状態を全て打ち明けた。
ローレルには話さなかった、同胞の魂のことも打ち明けた。
恐らく想像以上だったオフサイドの状態の深刻さに、岡田は深い憂いを見せていたが、現状への有効な対処は見つからなかないようだった。
結局、オフサイドはただ耐えることだけを考えることにした。
耐える中で願うことは、まず何よりもスズカが助かること。
そして、天皇賞・秋が顧みられるようになった時、栄光への尊厳が守られていることだった。
***
そして、数日後。
絶体絶命の時間を乗り越えて、スズカの命は遂に助かった。
そのことは、天皇賞・秋後からずっと沈んでいた世界の空気を、瞬く間に明るく復活させた。
オフサイドも、それを我が事のように喜んだ。
天皇賞・秋後、初めて彼女が心から嬉しく思えた出来事だった。
スズカの復活に歓喜しながら、オフサイドは人々の視点が天皇賞・秋へ顧みられることを待った。
世界に明るさが復活した今なら、歪みかけてると感じたレースへの見方も直っていると信じたから。
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「しかし、スズカの蘇生直後からようやく始まった天皇賞・秋の回顧と評価は、そんな私の淡い期待を完全に裏切りましたね…ハハ。」
言いながら、オフサイドは口元から笑い声が洩れた。
彼女の頬に滲んでいた微笑は、更に凍てついていた。