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その頃、ウマ娘療養施設。
この日の医務を全て終えた椎菜は、コーヒーでも飲もうかと医務室を出て病棟の食堂に向かっていた。
あと30分程で消灯時間になる施設内はしんと静かで、椎菜の歩く音だけが聞こえるだけだった。
と、暗くなっている受付前を通った時、エレベーターが下りてくる音がした。
誰だろうと見ると、エレベーターから出てきたのはスペだった。
「スペ、まだいたの。」
「はい!」
椎菜が声をかけると、大きなリュックサックを背負ったスペは持ち前の無邪気な明るい笑顔で頷いた。
「ギリギリの時間まで、スズカさんと一緒にいたかったんです!」
「大分遅いけど大丈夫なの?」
「大丈夫です。終電の時間も調べてますし、寮長さんからもスズカさんの看護でなら帰りが遅くなってもいいと許可をもらいましたので。」
そう、と椎菜は頷いた。
「じゃ、気をつけて帰りな。鞄のチャックはちゃんと締めてる?」
「締めてますよ。ではまた。」
ペコっと挨拶すると、スペは元気よく施設を出ていった。
スペと別れた後、椎菜は食堂に着いた。
多くの電灯が消えて薄暗くなっている食堂内には誰もいない、と思ったら、隅っこの方で一人黙念とお茶を飲んでいる療養ウマ娘がいた。
ルソーだった。
何を思ったか、椎菜はコーヒーを用意すると、彼女の側に向かいその前に座った。
「…。」
椎菜に気づいたものの、ルソーは何も言わずに、かなり憂げな表情で一人思考に耽っていた。
「今日、クッケン炎で療養していた4年生と2年生の子の2人が、退学を表明したわ。」
コーヒーを飲みながら、椎菜はルソーの憂いげな表情に眼を向けつつぽつりと呟いた。
「…またですか。」
溜息を吐いて反応したルソーに、椎菜は続けた。
「4年生の子は実績があるから、なんとか引き取り先があるみたいだけど、2年生の子は実績もなく引き取り先もないから、還ることになったわ。」
椎菜は、大きく嘆息した。
「…最近多いですね。」
ルソーは痛ましく憂げな表情のまま言った。
「ここ一ヵ月で8人目。うち3人が還ったわ。」
「〈死神〉が、猛威をふるってますね。」
私の脚にもだけどと、ルソーは包帯を巻いている自らの片足を見た。
ウマ娘療養施設で療養生活しているウマ娘達。
そのうち、脚の病の為入居している者は100名程いるが、そのうち半分近い者が患っている病が『クッケン炎』、通称〈死神〉と呼ばれる不治の病だった。
クッケン炎。
ウマ娘に最も恐れられている脚の病。
これに罹ると患部が腫れ、焼けるような痛みと熱をもつようになり、レースで怪我や重傷を負う危険が非常に高くなる。
どんな頑丈なウマ娘でも罹りうる病で、重症であれば1年以上、軽症でも半年近い療養生活が必要となる。その上治療にもかなりの苦痛が伴う。
また、患部が発病前の状態に戻る例はまれであり、一旦おさまってもトレーニングやレース中に病が再発する可能性も高く、競走能力に著しい悪影響を及ぼす。
その為、この病に罹った7割のウマ娘はレースから引退(卒業・退学)する。(競走生活を終えれば再発は殆どしないので、日常生活に支障はきたさない)
こうした症状から「不治の病」ないし「ウマ娘のガン・死神」と称されているのだ。
「一時は少なくなってたのにね。」
椎菜はコーヒーを飲みながら嘆いた。
最近、クッケン炎の治療を諦める者が増えてきた理由は、病症仲間の希望が消されてしまったせいだ。
そう、長年にわたって〈死神〉と闘い続けた希望の星が、あのような目に遭ってしまったせい。
「あなたはよく耐えてるわね、大したものよ。」
「私はずっとここにいるから、単に治療に慣れただけです。オフサイド先輩には足元にも及びません。」
オフサイド先輩は、〈死神〉との激闘を何年にも渡って繰り広げた。
チーム仲間として、また闘病仲間としてオフサイドと長い期間密接な関係にあったルソーは、その壮絶な闘いとそれを支えた彼女の強靭な精神を誰よりも間近で目の当たりにしていた。
「それを、誰も知らないんですよね。」
ルソーは心底、無念そうに呟いた。
天皇賞・秋後の世間の反応や報道を見たらそれがよく分かった。
タイムだか夢だか知らないが、よくもまあ、あそこまでオフサイド先輩のウマ娘としての名誉も栄光も踏みにじれたものだ。
あんな姿にされるまで…
ルソーは思い出したくない昼間のことを思い出した。
久しぶりに会った先輩の姿…ゴールドから聞いてはいたけど、まさかあんな状態になってたとは。
「非常に深刻な状態だわ。」
椎菜もぽつりと呟いた。
「オフサイド先輩ですか?」
「オフサイドもそうだけど、クッケン炎の闘病者達が。」
天皇賞・秋の騒動の影響からか、彼女達の間で絶望的な空気が満ちはじめている。
このままじゃ、療養を諦める者が続出しかねない。
「ルソー、あなたも辛いだろうけど、どうか病症仲間を支えてあげて欲しい。」
〈死神〉の闘病者としては最古参の存在である彼女に、椎菜は心の底から願うように言った。
「…はい。」
ルソーは重たく頷き、お茶を一気に飲んだ。
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その頃。
場所は変わり、学園寮。
オフサイドは自部屋で、誰かに電話をかけていた。
「もしもし、ケンザン先輩ですか?…実はお願いが…………以上です。…宜しいでしょうか。…ありがとうございます。では明日から、そちらにお世話になります。では…失礼します。」
12月13日、有馬記念まであと14日。