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夜、ケンザン宅。
オフサイドが書き物を始めてからしばらく経った頃、ケンザンが夕食の準備が出来たと呼びに来た。
食事は一人でとるつもりだったのだが、この日は先輩の厚意を受けることにした。
食事中、ケンザンとオフサイドは何言か雑談を交わした。
その内容は料理の味や、ケンザンのここでの生活とか他愛ないものが殆どだった。
ここに来た理由や脚の状態、学園のことなどはお互い一切触れなかった。
食後、オフサイドは夜のトレーニングをすると、再び着替えて寒夜のグラウンドに出ていった。
富士山の麓は都心に比べ格段に寒いが、オフサイドはジャケット1枚羽織っただけで特に寒そうな素振りも見せず、黙々とグラウンドを走っていた。
また寒い分、夜空も空気も都心とは異世界かと感じる位澄みきっていた。
電灯がなくとも、トレーニングをしているオフサイドの姿が星明かりだけではっきり観える位だった。
…。
自宅の窓から、ケンザンは後輩のトレーニングする姿をじっと眺めていた。
『有馬記念まで、そちらでしばらく生活させて頂けますか。』
オフサイドから電話でそう頼まれたのは昨夜。
突然のことだったが、ケンザンはすぐに承諾した。
2年前に引退するまで『フォアマン』のリーダーだったケンザンは、引退後もチームの後輩達の面倒をよくみていた。
なので当然、天皇賞後の騒動の際はオフサイドに会って、理不尽に追い詰められていた彼女をなんとか支えようとした。
だが力及ばず、オフサイドは心を病んでしまった。
自らの無力さを痛感したケンザンは、騒動がほぼ収まって以降はオフサイドと会わずにいた。
しかし、彼女のことはずっと心配していた。
そうした中で彼女からの頼みがきたのだ。
本当に苦しいだろうな…
オフサイドのトレーニングを眺めながら、ケンザンは彼女の心境を思いやった。
あの天皇賞秋優勝後、オフサイドはようやく掴んだG1の勲章を誇りに現役を勇退するつもりだった筈。
それが、価値なき優勝と酷評を浴び、更にはバッシングまで受け、勇退なんて出来る状況じゃなくなった。
四面楚歌の中、心まで失った彼女が唯一見つけ出した活路が、有馬記念なのだろう。
ゴールドと同じく、ケンザンもそう考えていた。
有馬記念で結果を出せれば、踏みにじられた誇りを取り返すことが出来る
その為に出走を決断し、調整に集中する為ここに来たのだ。
でも、それはあまりにも無謀過ぎる。
ケンザンは動きが良くないオフサイドを見てそう思った。
騒動の影響で殆どトレーニング出来てない上、心身も安定とは程遠い状態のままだし、懸念である脚の具合も良くなさそう。
おまけに有馬記念は距離不適正(オフサイドは2000m以下が主戦場。有馬記念は2500m)。
どこを見ても、オフサイドが勝てる要素がない。
正直、出走は止めた方が良いと思っている。
だけど、止められないな。
ケンザンは唇を噛んだ。
彼女は“非情で自己中なウマ娘”の烙印を押され、名誉も何もかも失ったのだ。
時間が経てばその烙印は消えるかもしれないが、天皇賞制覇の栄光の方は、称賛される未来が全く見えない。
それがオフサイドにとって一番辛いはずだ。
だから、彼女は無謀でも有馬記念制覇を狙っているのだ。
そんな悲壮な決心を、止められる筈がない。
止めたところで、現状の彼女を救える手段が他にあるのか?
ない。
例え、酷評や理不尽なバッシングした連中全てがオフサイドに謝罪したとしても無理だろう。
彼女の心には取り返しのつかない程の傷が刻みつけられのだから。
やがて、オフサイドはトレーニングを終えて戻ってきた。
ケンザンは彼女に温かいお茶を用意し、それを渡すと一言だけ声をかけた。
「頑張れ、オフサイド。」
「…。」
オフサイドは汗を拭い、ちょっとだけ微笑した。
窶れた表情に、僅かな明るさが見えた。
その後、シャワーを浴び脚の手当てを済ませたオフサイドは部屋に戻り、就寝につくまで書き物の続きを書いていた。