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夜遅く。
喫茶店『祝福』。
この日の営業は既に終え、上の自宅に戻っていたライスは、いつものように脚の手当てを行なっていた。
行なっている最中、店の呼び鈴の音が聞こえた。
夜遅くに誰だろう?マックイーンさんかな?
既に部屋着に着替えていたライスはジャケットを羽織り、慎重に下に降りて、扉を開けた。
え…
来訪者を見て、ライスはちょっと驚いた。
マックイーンではなく、同期で生徒会役員の一人であるミホノブルボンだったから。
「ブルボンさん…」
「こんばんは、ライス。」
口元に手を当てたライスに対し、生徒会制服姿のブルボンは礼儀正しく頭を下げて挨拶した。
「どうされたんですか、こんな遅くに。」
「大した用事ではありません。生徒会長から、これをライスに渡すよう頼まれただけです。」
言いながらブルボンは、鞄から一通の封筒を取り出し、ライスに渡した。
「今日は、マックイーンさんはいないのですか?」
「生徒会長は、この日は仕事で中山に行ってます。私は学園で留守番だったので。」
「あ、そうでしたか。」
ライスは納得したように頷くと、手紙を受け取った。
「では。」
「あ、待ってくださいブルボンさん。」
帰ろうとしたブルボンの制服を、ライスは慌てて掴んだ。
「コーヒー、飲んでいってください。」
「良いのですか?もうお休みの準備されてたようですが。」
「構いません。一休みされていって下さい。」
黒髪に隠れた眼を微笑させ、ライスは店内の明かりを点けた。
「では、お言葉に甘えて。」
ブルボンはライスの誘いを受け、店内の一席に座った。
その後、ライスはコーヒーを淹れた二つのカップを用意し、それを持ってきた。
「どうぞ。」
「ありがとうございます。」
ブルボンは恭しく受け取ると、それを一口喫した。
心地よい苦味が口内から全身に暖かく染み渡り、鉄仮面のようだった彼女の表情は自然と綻んだ。
「やはり、いつ喫しても美味しいですね。ライスの淹れるコーヒーは。」
「えへへ。」
ライスは照れくさそうに笑って、彼女の前に座った。
同期の戦友であるブルボンとは、他のウマ娘達とは違って、肩に力をいれず接することが出来る。
「久々にブルボンさんとコーヒー飲めて、ライス嬉しいよ。」
口調も、自然と現役時代のものになった。
「最近は色々大変なことが相次ぎましたから、中々来れませんでした。」
「気にしないで。何があったかはライスもよく知ってるから。」
自身、その渦中へ身を踏み込んでいるライスは、労るように言った。
ほんの10分程で、ブルボンはコーヒーを飲み終えると立ち上がった。
「もう帰るの?」
「ええ。明日も早いですから。」
明日から、有馬記念へ向けての大変な日々が始まる。
生徒会は今年一忙しくなるだろう。
それはライスもよく分かっていた。
「気をつけてね、ブルボンさん。」
ライスは、店の外までブルボンを送りに出た。
「有馬記念が終わったら、またここに来てライスとお話ししようね。」
「はい。来れるよう頑張ります。」
「きっとだよ。ライス、待ってるから…。」
…?
ブルボンは、ライスがちょっと涙ぐんでいるのに気づいた。
「ライス、泣いてるんですか?」
「ちょっとね。大丈夫よ、悲しいわけじゃないですから。」
ライスは夜空を仰いで涙を払い、それからブルボンを見て微笑んだ。
「ただ、ブルボンさんと会えて良かった。そのことが嬉しくて、ライス泣いちゃったの。」
かつての健気さが混じったその微笑は、夜空に輝く蒼月と同じくらい美しく、ブルボンの眼に映った。
「相変わらず泣き虫ですね、ライスは。」
ブルボンは鉄仮面だった表情を緩め、妹を慰める姉のような微笑を浮かべた。
そして彼女の側に近寄ると、その頬にそっと掌を当てた。
「事が終わったら、また会いましょう。必ず。」
「うん。ライス、楽しみにしてるから…」
ライスはブルボンの掌に触れ返しながら、微笑し続けた。
一方のブルボンは、ライスの左脚を幾度か見ながらも、最後まで微笑を崩さなかった。
*****
その頃、メジロ家。
中山から帰宅したマックイーンは、メジロ家の使いの者や生徒会役員達と連絡をとりあい、各所の情報を収集していた。
スズカのいる療養施設は変わりなし。
富士山麓も同じ。
学園のゴールドにも特に目立った行動なし。
学園側に、気になる情報はなかった。
続いて、報道や世論の動きについて収集した。
既に世論は、ネットを中心に過激な声や動きが出始めているようだ。
一方報道は、今のところ特に動きはない。
ただ世論の反応を見て、明日には動きを起こす可能性が高いとのことだった。
特に気になる点として、世論の中で幾つか報道で取り上げられそうな声があるとの報告が来た。
一つ目は『あのような内容のレースで勝ったオフサイドトラップを天皇賞ウマ娘と認めていいのか』という声。
二つ目『レース中に故障者が出た場合は、そのレースを中断するべきでは』という声。
三つ目は『天皇賞後に大失言をしたウマ娘になんの処分もせずに出走させて良いのか』という声。
他にも大なり小なり気になる声はあるみたいだが、大きく取り上げられそうなのはその三つだということだった。
「報告ありがとうございます。以後も何かあったらすぐに連絡をお願いしますわ。」
礼を言って情報収集を終えると、マックイーンは一息ついた。
それから、メモに記したその三つの項目を改めて見た。
騒動再燃は避けられませんね。
マックイーンは腕を組み、翠眼を険しく光らせた。
しかし、これは流石に…
マックイーンの眼は、一つ目でも三つ目でもなく、二つ目の項目に注がれていた。
今、このような内容を大きく取り上げるのですか?
オフサイドトラップはともかく、ホッカイルソーがどう思うか、少し恐ろしいです。
騒動再燃への緊張と別に、マックイーンの脳裏には3年近く前の記憶と、その時目の当たりにしたルソーの姿が強く蘇っていた。
有馬記念まで、あと7日。