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深夜、療養施設。
何かしら…。
特別病室で就寝していたスズカは、不意にパチリと目を覚ました。
病室には彼女以外だれもいない。
だけど、何かの音が聴こえる気がするのだ。
隣にある医務室からではない。
外?
スズカは身を起こし、ベッドの傍らにある窓をゆっくりと開けた。
高原の冬の冷たい風がカーテンを揺らして室内にふわっと入ってきた。
それと一緒に、誰かの歌声が混じって聴こえるのが分かった。
この歌声は…
この歌声の主は、特別病室のすぐ上の屋上(スズカの病室は5階の施設最上階)で歌っているようだ。
寒風に混じりながらだが、その歌声は小さくもはっきり聴こえた。
この冬夜空の中にふさわしい、美しい歌声だ。
人なのかウマ娘なのかは分からないが、その声色は耳に覚えがある。
多分同じウマ娘だろうけど、誰だったかしら。
スズカは首を傾げつつ、冬の澄みきった空気とともに流れこんでくるその歌声に聴き入っていた。
その屋上。
柵のない一番奥の場所に腰掛け、夜景を眺めながら歌を口ずさんでいたのは、ルソーだった。
「…ラララ…ララララララ…ララララ…ララララ…ラララララーララ……」
チーム仲間のゴールドと似て、陽気で姉貴肌のルソー。
なので普段、暗い表情や悲しい表情は見せない。
だが今屋上でたった一人、施設の芝生広場と煉瓦の遊歩道を眼下に、高原と星空が重なった神秘的な夜景が拡がっているのを眼前に、歌を口ずさんでいる彼女の瞳には、涙がいっぱいに溜まっていた。
「…ララララー…ひくっ……ラララー…ララララーー… …ララララーー…ラ…うっ…ララ…ラー……」
歌の最後の方、ルソーの歌声は嗚咽混じりになっていた。
歌い終えた後も、彼女は何か独り言を言ってるのか口を何度か動かしただけで、しばらくその場から動かなかった。
やがて、彼女は眼元に指を当て、溢れそうだった涙を拭い払った。
そしてゆっくりと立ち上がり、一面の夜景を前にぽつり呟いた。
「…さよなら。」
*****
時刻は数時間前に遡る。
夕食の時間帯、療養施設の食堂では多くのウマ娘達が集まって夕食を食べていた。
療養施設といえども、食事の時間帯は結構賑やかだ。
特にここ最近は、とんでもない大食ウマ娘が施設で生活し始めたので一段と賑やかになってる。
言うまでもなくスペのことだ。
この日の彼女の夕食は、ニンジン定食7人前。それを水でも飲むかのような勢いで食べている。
それもすごく美味しそうに。
実力・人気共に学園屈指の彼女だが、フードファイターウマ娘としても学園最強レベルだろう。
「ごちそうさまでしたー!」
ご飯粒一つ残さず食べ終えると、スペは大満足そうに手を合わせた。
「スペ先輩、早いですねー…。」
彼女の傍らで食べていた患者ウマ娘達は、彼女の食べっぷりに感嘆と呆れが混じった表情をしていた。
「だって美味しいんですもん。」
スペは口元を綺麗にしながら思いっきりあっかるい笑顔で答えた。
「学園寮の食事もすごいですけど、ここの食事も最高です!皆さんが元気になる為にって愛情が凄く感じられて。」
「アハハ。でもスペはそれ以上元気にならなくてもいいじゃん。元気過ぎるとみんな吹き飛ばしちゃうわよ。」
「いえ!スズカさんを元気にする為にでしたら、もっとエネルギー補給が必要です。」
スペは口の手入れを終えて食器を下げると、
「では、皆さんまた明日!」
あっかるい声で場にいる患者ウマ娘の皆に挨拶し、食堂を出ていった。
「噂通り元気なウマ娘ね、スペシャルウィークは。」
スペが出ていった後、患者ウマ娘達は彼女のことを話題にしながら夕食を進めていた。
「ですね。まさに明るい天使って感じのウマ娘です。」
「でも、あれでいて実力は物凄いんだよね。」
「そうそう。ダービーの勝ちっぷりとかやばかったし。」
「憧れるなー、スペシャルウィーク先輩。」
患者ウマ娘達は、スズカの怪我に頻繁にここに訪れるようになったスペと親しくなっていた。
スペ自身も、スズカの事で頭がいっぱいではあったが、いずれスズカが彼女達とも生活することなども考慮し、自分も友達になりたいと考えているようだった。
…まあ単純にスペはウマ娘たらしなほどのウマ娘望というか魅力があるので、何も考えずに自然と親しくなっているのかもしれない。
ただ、スペと親しくなっているのは、殆どが怪我の患者ウマ娘達。
食堂の奥の方で、やや暗い表情を並べて食事している病気患者ウマ娘、特にクッケン炎(〈死神〉)の患者達とは、まだあまり親しくなっていない。
「スペ先輩、元気ですね。」
クッケン炎のウマ娘達も、スペの事を話題にしていた。
「ああ、羨ましいな。」
「怪我のウマ娘達とは、一気に親しくなってるね。彼女の明るさと魅力は凄いよ。ああいう子、うちの病棟にも欲しいね。」
「それは厳しいさ。この〈死神〉に取り憑かれたら最後、明るさとかとは無縁になる。」
「でもスペだったら、万が一この病気に罹ったとしても明るいままでいられるんじゃ…」
「絶対ないわ。」
言おうとしたウマ娘の言葉を、他のウマ娘が遮った。
「もし仮にスペが〈死神〉に罹ったら、即卒業するに決まってるわ。G1制した実績あるんだし、リスクが高い闘病なんてする訳ないよ。」
「そうね。」
別のウマ娘が、同意する様に頷いた。
「G1制覇とか大きな実績を挙げた後、〈死神〉に罹ったウマ娘の先輩達は数多くいたけど、殆どが闘病せずに引退してったもんね。」
古くはマルゼンスキー先輩、最近ではビワハヤヒデ先輩・ウイニングチケット先輩・ナリタブライアン先輩・マヤノトップガン先輩、みんな引退した。
「仕方ないよ。ていうか正しい選択だよ。だってこの〈死神〉に罹ったら、二度と全力で走れなくなるんだもん。そんなの、G1制覇した実力者ウマ娘には耐えられるわけない。それに、闘病を選択した先輩達だって…」
サクラチヨノオー先輩・ナリタタイシン先輩・ネーハイシーザー先輩…
彼女達は〈死神〉に屈せず闘病してターフに戻ったが、かつての栄光とは程遠い走りと敗北が続き、果てには〈死神〉再発、或いは自信喪失で引退した。
「…〈死神〉にボロボロにされるスターウマ娘の姿なんて見たくない、本人も周囲も悲しい。だから、〈死神〉に罹ったスターはターフを去るのが…凄く無念だろうけど正しいんだよ。」
「じゃあ私達は、なんでそんな無謀な闘病をしてるんだろうね…」
「当たり前じゃん、生きる為だよ。」
一人が、薄い笑みを浮かべて言った。
「私達はターフの実績もない、その他の能力や素質もない。生きる為には、〈死神〉を打ち破ってターフに立って勝って、実績を挙げるしかないんだもん。」
「可能性は限りなく低いけどね。」
「いーじゃん!まだ心は折れていないんだから!」
暗い言葉ばかりに耐えられなくなった一人が、不意に大きな声を出した。
「そりゃ辛いし、痛いし、おまけに治ると限らないし、もう苦しいことしかないけど、それでも諦めたくないもん!いや、まだ還りたくないの!」
こんな、レースとは世界一遠い最果ての場所で、絶望のまま還りたくない。
「ルソー先輩が言ってた。“まだ諦めたくないのなら、何か一つでも希望を持ちな”って。“どんな辛い時でも夢や希望をもつことは絶対に自由なんだから”って…。だから…私はまだ還ることを選ばないわ。例え可能性は1%以下でも…。」
明るい表情を浮かべたくても引き攣りを隠せずに言ったウマ娘の眼は真っ赤だった。
いつもの重い空気が食堂の一角に立ち込めた。
その空気の中、一人が周りを口を開いた。
「ルソー先輩は、ここにいないのかな?」
「ルソー先輩は、多分リートと食事しているわ。」
「リートと食事…」
そうか…
そういえば、そうだったね。
また、場の空気が重くなった。
「ルソー先輩、朝から体調不良で椎菜先生のとこで休んでたんじゃなかったっけ。」
「もう大分良くなったらしいわ。前から今晩リートと会うことは決めてたみたいだし、多少無理でもおしたんでしょ。」」
「すごいね、ルソー先輩。」
詳細は知らないが、体調不良の理由が何なのかは病室仲間全員分かっている。
それでも、後輩の為…いや、仲間の為に、心身を奮いたたせて。
「オフサイド先輩の生き様を誰よりも見てきたウマ娘だもんね、ルソー先輩は。」
その頃ルソーは、ある病症仲間の病室で、その病室で生活していたウマ娘と二人きりで食事をしていた。
そのウマ娘は、ルソーよりかなり後輩の2年生で、まだ幼さが残る生徒。
ピンク色の髪が特徴で、名前はエルフェンリート。
皆からは“リート”って呼ばれている。
彼女は昨年夏、入学間もない時にクッケン炎を発症し、以来ずっとここで療養を生活していた。
なので、まだレースの舞台にすら立ったことがなかった。