先日、リートはクッケン炎の治療を止め、ターフへの復帰を断念した。
それは学園を退学するということであり、また、レースでの実績が皆無で血統やその他の能力も殆どなく、また引き取り手もなかった彼女にとって、今後の未来に二者択一の決断をせねばならないことを意味していた。
一つは、ウマ娘の特徴&能力&記憶を消去する手術を受け、人間(女性)として新たにて生きていく選択。
もう一つは、本世界で永遠の眠りにつき、ウマ娘の世界(天国)へ帰還(還る)する選択。
既にリートは、そのいずれかの決断を下していた。
そして今晩、あと数時間後に、その処置をとることになっていた。
病室の、リートの身の周りは綺麗に整理されていた。
療養生活中に使用していた物品はほぼ全て処分されており、後に残っているのは、枕元の写真立てと、ベッド上に用意されたトレセン学園の制服だけだった。
写真のことをルソーに話してからしばらく経ったあと、リートは患者服から制服に着替え始めた。
「1年以上ぶりですね。」
療養生活を始めてからそれを着る機会がなかったリートは、少し嬉しそうに着替えていた。
「あれ、ちょっと小さくなってますね。」
「1年前のだからね。」
仕方ないよと、ルソーは着替えを手伝いながら言った。
「出来ました!」
着替え終えると、リートは鏡の前から笑顔で振り向いた。
ややきつそうだったが、それがまだ幼さが残るリートにすごく似合っていた。
「すごく可愛いよ。」
「本当ですか!」
「初々しい、天使みたいなウマ娘に見えるわ。」
「えへへ。」
リートの表情から、思わず無邪気な笑みが溢れた。
それから少し経ったあと、二人は病室を出て、病気病棟専用の大きなリハビリルームへと向かった。
リハビリルームに着くと、クッケン炎の病症仲間のほぼ全員がリートを待っていた。
その他にも繋靱帯炎や重度の骨折と闘病中のウマ娘の姿もあった。
「エルフェンリート!」
リートが室内に現れると、皆は一斉に彼女に視線を集めた。
30人余りいる病床仲間の前に立つと、リートはまず挨拶した。
「皆さん、集まってくれてありがとうございます。私の最後のわがままを聞いて下さり、感謝しています。」
療養生活最後の日を前に、リートは生徒期間中に叶えられなかったあることをしたいと皆にお願いしていた。
それは、皆の前で歌を歌うこと。
リートは名前通り、歌が好きなウマ娘だった。
そして実際、優れた歌声の持ち主だった。
大きなレースに勝って、ウイニングライブのセンターで歌うのが、彼女の一つの大きな夢でもあった。
その夢を叶えることは出来なかったが、最後にここで皆の前で歌いたいという希望をしていた。
病床仲間はその望みを叶える為、ここに集まっていた。
「リート!頑張れよー!」
歌う準備を始めたリートに、病症仲間達は明るく声援を送った。
「一世一代の大舞台よ。最高の歌声聴かせてね!」
「病床の歌姫ー!」
病症仲間達も、リートの歌声の良さはこれまで何度か聴いたことがあるので知っている。
皆、湧き上がる感情を抑えて、笑顔で彼女を励まし続けた。
「…頑張ります!」
リートも、身体を震わせながら必死に笑顔をつくった。
「アカペラで歌います。曲は…◯◯◯◯◯◯です。」
曲紹介すると、リートは目を瞑って大きく深呼吸した。
その周囲、ルソーも病床仲間達も、目と耳を見開いて、リートの夢を待った。
五分後、リートは夢を叶えきった。
「ありがとうございました!」
歌い終えたリートは、観衆の仲間達に深々と頭を下げた。
「良かったよ、リート!」
「最高!」
「初ライブでこれ以上ない出来だったわ!」
観衆の仲間達は、大きな拍手と共に惜しみない賛辞をリートに送った。
「そんな…」
リートは嬉しそうに恥ずかしそうに顔を赤らめ、やがて感激でいっぱいになったのか口元を抑えた。
「私…幸せです!こんなに…皆さんに喜んでもらえるなんて。」
涙はなんとか堪え、何度も何度もお礼を言った。
「頭下げすぎよ!」
仲間の何人かがリートの側に来て、彼女の頭を撫で回したりくすぐったりした。
「はわわわ、先輩くすぐったいです〜。」
「晴れ舞台なんだから、もっと胸を張っていいの。本当に良い歌声っだったわ。」
「はっ、はいー。」
久々に賑やかな、笑顔が溢れた時間が続いていた。
だがやがて、少しずつ静かになり、現実に戻されていった。
「長い間、お世話になりました。」
現実の静寂さに戻された空間で、リートは最後の挨拶をした。
「私は〈死神〉に負けてしまいました。でも、どうか皆さんは、〈死神〉に打ち克って、再びターフに戻って下さい。そして、夢と栄光と未来を掴みとって下さい。それが私の、最後の願いです。」
その挨拶を最後に、リートはルソーと共にルームを出ていった。
彼女が去った後、残ったウマ娘達も、一人また一人と腰を上げ、それぞれの病室に戻っていった。
リートとルソーは、病室に戻った。
「歌、良かったよ。リート。」
彼女にお水の入ったペットボトルを渡し、ルソーは労いの言葉を送った。
リートは無言でにっこりと笑顔を浮かべてベッド上に腰を下ろし、ルソーから受けとったお水を飲んだ。
一息吐くと、ルソーは時計を見た。
「まだ、時間あるわね。」
どうする?と、聞くと、リートは汗を拭い、立ち上がった。
「最後に、外の空気を吸いにいきたいです。」
「そう。じゃあ行こうか。」
制服姿のリートに笑いかけると、ルソーも持参していたコートを患者服の上から羽織った。
二人は、施設の外に出た。
そのまま一緒に並んで、遊歩道や芝生の上を歩き続けた。
だが先程までと違い、二人は殆ど会話を交わさなかった。
あったのは冬の高原の澄みきった空気と一面の星空、そして迫りくる刻の足音だけだった。
やがて時間は経ち、療養施設は消灯時間となった。
クッケン炎の患者達も、それぞれの病室で就寝についていた。
だが彼女達の殆どは、ベッドの中で中々寝付けなかった。
リートの面影と、彼女の歌声が、頭に響き続けていたから。
そして、耐え難い無念の思いもあった。
クッケン炎…いや〈死神〉は、なんであんな良いウマ娘の夢まで、奪ってしまうんだ。
それも、たった一度のレースの機会すら与えずに。
丁度その頃、リートとルソーも、施設内に戻って来ていた。
二人は、病室に戻った。
リートは腰を下ろさず、枕元の写真立てを手に取ると、ルソーを振り返った。
「行くの?」
「はい。」
写真立てを胸に、リートは頷いた。
流石に笑顔は浮かべられなかった。
「…送るわ。」
「大丈夫です。一人で行けます。」
「一人で?」
「はい!場所も分かってますから。」
そう返答すると、リートは精一杯の笑顔を見せて頭を下げた。
「ルソー先輩。本当に長い間、お世話になりました!」
「あなたこそ、本当によく頑張ったわ。」
ルソーも笑顔を返し、つとリートの小柄な身体を抱きしめた。
「強い子だよ、リートは。」
「先輩、」
リートも、ルソーの背を抱きしめ返した。
「先輩は、リートのことを覚えていてくれますか?」
「当たり前じゃない!忘れるわけないわ!」
私だけじゃなく、病症仲間のみんなも絶対忘れないよと、ルソーは強く抱きしめた。
「そうですか…良かったです。」
リートは微笑し、ルソーから身を離した。
「…では先輩、お元気で。」
「…うん。」
最後の挨拶を交わすと、制服姿のリートは胸に写真立てを抱き、病室を出ていった。
リートの姿が廊下の奥に見えなくなった後、ルソーも病室を出ていった。
病室を出たリートは、施設の奥にある、地下の某部屋へと向かった。
途中何度か足を止め、呼吸を整えながら、震えそうな足を必死に奮い立たせて、その部屋へ向かって歩き続けた。
やがて、部屋の前に近づいた。
その部屋の前に、彼女が来るのを待ってる医師がいた。
椎菜だった。
「一人で来たの?」
「はい。」
「…。」
強気に答えたリートに、椎菜はそうと頷いただけで何も言わず、無表情で部屋扉を開けた。
部屋の中は、治療室と大して変わらない広さ・明るさだった。
その隅の方に椎菜の助手が二人、隅の方で待機していた。
そして室内の中央部には、固定用のベルトが着いたベッドと、その傍らには幾つかの注射器が用意されていた。
それが目に入った瞬間、リートの心臓の音が大きく鼓動した。
だが彼女は迷わず、室内に足を踏み入れた。
前述した二者択一の選択。
リートが選んだのは、これまで同様の決断を迫られた過去のウマ娘達の殆どと同じく『帰還』だった。
『…水、飲む?』
『…いえ、大丈夫です』
『じゃ、ベッドへ』
『…は…はい…』
…リート。
病室を出たルソーは、施設の屋上に移動していた。
冷たい寒風に吹かれながら、ルソーは、耳に付けたイヤホンで、その室内での様子を聴いていた。
ルソーは慄えていた。
聴きたくなかった。
想像したくなかった。
逃げ出したかった。
でも、聴かねばならなかった。
想像しなければいけなかった。
人知れず還っていく同胞を忘れない為に。
クッケン炎と闘い敗れた同胞達の現実から目を逸らさない為に。