1998年11月1日「消された天皇賞覇者」   作:防人の唄

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妖精の歌(5)

 

再び地下室。

 

リートの遺体を別室に移動させると、椎菜はその後のことを助手達に頼み、地下室を出た。

 

自分の医務室に戻ると、椎菜はスマホを取り出した。

そして、マックイーン宛てにメールをうった。

『今夜の電話相談の件ですが、明朝に変更をお願いします。』

 

送信後、すぐに返信が来た。

『了承致しましたわ。明朝連絡をお待ちしています』

 

マックイーンの返信を確認すると、椎菜は再び医務室を出た。

 

出入り口前の自販機で缶コーヒーを買うと、それを手に施設の外へ出た。

 

 

外は凄く寒かった。

冬の高原なので寒いのは当たり前だが、今の椎菜には特にその寒気が身に沁みた。

彼女は遊歩道のベンチの前に来るとそれに腰掛け、缶コーヒーの蓋を開けた。

 

“たった一度でいいから…ターフを走りたかった…”

冷たい夜景を前に、椎菜の脳裏に響き続けているのは、リートの最期の言葉。

 

みんなそうだった…

コーヒーを飲みながら、椎菜は無表情で思った。

この療養施設で働き始めてから十数年、彼女は数百人のウマ娘達の帰還に立ち会い、また百回を優に超える処置を執り行ってきた。

還っていくウマ娘達は皆、悲しさと無念さを隠しきることはできず、還っていった。

 

だけど。

椎菜は缶口の辺りを噛んだ。

ターフに一度も立てないまま、帰還に追い込まれたウマ娘は希少だった。

 

だから、リートの最期の言葉があまりにも重かった。

治してあげたかった。

治らずとも、一度でいいからターフに立てる状態にさせてあげたかった。

 

クッケン炎(死神)の医師として、椎菜も無念だった。

ずっと無表情で感情を現すことなく処置を執り終えたが、本当は泣きたかった、

叫びたかった。

数百回の経験で、もうそんな感情は完全に封じ込めていた筈だったけど、今日は溢れ出しそうだった。

 

今朝、ルソーの件があったから。

 

ルソー…

溢れそうな感情を堪えながら、椎菜は彼女のことを思った。

今朝、あの報道を見て半狂乱になったルソー。

麻酔薬まで使って何とか彼女を静止させたが、彼女が受けた心の傷はどれだけのものだろうか。

いや…

椎菜はコーヒーを飲んだ。

ルソーは、もともと心にとてつもない大きな傷を負っている。

今回のことで、抑え込んでいたそれがあわや決壊しかけたんだ。

 

 

そんなことを考えていた時。

…?

不意に天空から、静かな歌声が聴こえてきた。

誰?

夜空を見上げると、それは屋上から聴こえていた。

 

初めは誰だろうと思っていたが、やがて驚いた。

この歌声は、ルソー?

あなたが、歌っているの?

 

驚きながら、椎菜はその歌声に聴き入った。

一面の澄みきった夜空の下、ルソーの歌声は、靡き続ける寒風と共に施設を包みこんでいた。

 

…ララララ…ララララ……

ベンチに座っている椎菜も、その歌を唇で口ずさんだ。

 

やがて、その歌声は止んだ。

止むと同時に、椎菜はベンチを立ち上がると缶コーヒーを飲み干し、施設内へと戻っていった。

 

胸中、彼女に対し強く思った。

あなたは本当に強いウマ娘ね…

心の傷が決壊しかけた…それは耐えがたい苦痛の筈なのに、仲間のことは決して忘れなかった。

…私も、乗り越えなければ。

悲しすぎる運命に直面して心が折れそうになっても、彼女達を救う為に

 

 

 

一方。

 

「ララララー…ひくっ…ラララー…ララララーー… …ララララーーー…ラ…ララ…ラー…」

 

屋上で一人、夜景を前に腰掛けて、リートが最期に歌った歌を口ずさんでいたルソーは、時折嗚咽しながらも、最後まで歌い終えた。

 

歌い終えた後、ルソーは膝を抱え、彼女のことを思った。

 

リート…辛かったろうね。苦しかっただろうね。

1年以上、闘病を頑張ったのに報われず、ターフに一度も立てずに還ってしまったなんて…同胞として、考えただけでも、胸が張り裂けそうな程辛いわ…

 

 

そこまで痛切に思いつつも、ルソーは胸中の苦しさ・絶望を、奥歯を噛み締めて抑え込んだ。

 

そして、心の奥底から誓った。

 

あなたの…いや、これまで〈死神〉に敗れた仲間達の無念…絶対に忘れないわ。

リート、あなたが私達に残した最後の願い…“〈死神〉に打ち克って、再びターフに戻って下さい”

その願い、叶えてみせるわ…

 

今後どんなことがあろうと、仲間達が、オフサイド先輩が、今以上に絶望に覆われてしまったとしても、私は絶対に屈しない。

そして、〈死神〉と闘うウマ娘(私達がいる世界)を知ろうともしない者達、或いは理解しようとしない者達とも闘ってやる。

例え相手が人間だろうと、同胞のウマ娘であろうと、この世界のことを絶対無視させない。

天皇賞での言動の真意を全く理解されなかったオフサイド先輩を救う為、いや真意を想像すら出来てない者達をそれと向き合せる為にも。

 

とても残酷なことだろうけど、それがこの私の、オフサイド先輩の生き様を誰よりも見、幾多の病症仲間達との永別を経験し、そして…最愛のウマ娘をレースで喪った私の出来る、唯一のことだから。

 

 

ルソーは目元に溜まっていた涙を払い、松葉杖を手に立ち上がった。

そして、夜空を仰いで、静かに言った。

 

「さよなら、リート。」

 

 

12月21日、有馬記念まで、あと6日。

 


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