1998年11月1日「消された天皇賞覇者」   作:防人の唄

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泥沼(2)

 

*****

 

午前9時過ぎ、ウマ娘療養施設。

 

朝食を終えたルソーは、いつものように遊歩道に出て朝の散歩をしていた。

 

今日は曇り空。

雨か雪か、今にも降り出しそうな天気だ。

気温もかなり低く、肌身に染み渡る寒さに覆われている。

この寒さは患部に堪える。

いや、心にも堪えるな。

ルソーは、遊歩道の傍らにあるベンチに腰掛けた。

 

一昨日、病症仲間の中でも特に年少のリートが還った。

その影響が、昨日から仲間達の間ではっきりと出ている。

彼女の最期の言葉を受け、〈死神〉に打ち克てるよう決意を固めた者も僅かにいるが、大半は重たい悲しみと絶望に浸された。

状況は厳しくなるばかりだ。

 

私は絶対に折れない…

リートの最期の瞬間を聴きとっていたルソーだけは、全く心は揺らいでなかった。

最古参の私が折れさえしなければ、仲間達は大丈夫だ。

そう自分に言い聞かせていた。

 

 

散歩を終え施設内に戻ると、椎菜と会った。

 

「おはよう、ルソー。」

「おはようございます、椎菜先生。」

「体調はどう?」

「至って健康です。」

 

挨拶の後、椎菜はスマホを取り出しながらあることを伝えた。

「さっき、オフサイドから連絡があったわ。」

「オフサイド先輩から?」

「午前中に、ここに来るみたいだわ。」

「えっ?」

ルソーは驚いた。

「先輩、有馬記念に向けて調整中なのでは?」

「うん。」

オフサイドから、ケンザン宅で極秘で調整するという報告を貰ったうちの一人である椎菜は、やや厳しい表情だった。

「単に調整の休息日として、ここに来るだけだと思いたいけどね。ここに報道規制が入っていることも知ってるだろうし、特に不安はないけど…」

何故だろう、胸にざわめきを感じた。

 

「天皇賞・秋の時は、レース前の一か月間、療養施設には全く来ずに調整に集中してたのに…」

「天皇賞・秋は別でしょう。」

ルソーはぽつりといった。

あのレースは、オフサイド先輩はこれ以上ないくらい重い決意と覚悟で臨んでた。

今回は、正直目的が分からない。

普通に考えれば勝つ為に出るんだろうけど。

 

考えても意味がないな。

ルソーはそう思った。

「分かりました。オフサイド先輩が来訪することは、仲間のみんなにも伝えておきます。」

 

 

ルソーと別れた後、椎菜は医務室に戻った。

ルソーには話さなかったが、実はここに来ると連絡があったオフサイドから、ある要望をされていた。

それは、『サイレンススズカと会いたい』というものだ。

 

スズカと会う…ここに来る彼女の目的はそれだと分かった。

何故今なのかとか、会って何を話すのかとか、そういうのは詮索しないことにした。

通るかどうか不明だが、まず取りあってみようと椎菜は決めた。

 

 

 

*****

 

 

「オフサイドトラップが、サイレンススズカとの面会を希望?」

 

学園。

マックイーンは療養施設からその連絡を受けていた。

 

全く予想してなかったオフサイドの行動に、マックイーンは驚いた。

 

しばし熟慮した後、返答した。

「構いません。面会させてあげて下さい。」

 

 

*****

 

 

再び療養施設。

 

施設内の一室で、スズカは初めてのリハビリに励んでいた。

 

「…う…ん…」

リハビリそのものは簡単なものであったが、2ヶ月近くも殆ど身体を動かしていなかった為、それでもかなりきつそうだった。

「頑張って、スズカさん!」

医師の指導の元、汗を滲ませながらそれを行うスズカを、スペは傍らで励まし、時には手を貸したりして支えていた。

 

リハビリ初日、この日のそれは30分程で終わった。

その後スズカとスペは、特別病室に戻った。

 

「お疲れ様でした。」

ベッド上に戻ったスズカに、スペは優しい笑顔で労いながら、温かい飲み物を差し出した。

「ありがとうございます。」

スズカは疲労した様子ながらも、微笑を浮かべてそれを受け取った。

 

「かなり疲れてしまいました。」

何口か飲んだ後、スズカはぽつりと呟いた。

怪我して以降、初めて身体をまともに動かしたが、上半身だけでもかなりきつかった。

覚悟はしていたけど、想像以上だった。

復活への道のりは大変だな。

最近は心身ともに順調な快復を続けてきたけど、今回現実的な壁にぶつかった気がする。

 

「大丈夫ですよ、スズカさん。」

スペは明るい笑顔のまま、スズカに言った。

「ホウヨウボーイ先輩やトウカイテイオー先輩など、これまでにも多くの偉大な先輩方が奇跡の復活を遂げてきました。スズカさんにも出来るはずです。いえ、絶対に復活出来ます!」

「絶対に、ですか?」

「はい。」

スペはスズカの傍らに身を寄せて、飲み物を置くとスズカの両掌を包み込んだ。

「だってスズカさんは、優しくて美しくて、そして誰よりも速い『夢を叶えるウマ娘』なのですから!」

 

「…。」

スペらしい無邪気な励ましを受け、スズカは顔がちょっと紅くなった。

優しいとか美しいはあまり関係ない気がするが、それでも励まされると嬉しい。

夢。

スズカもスペの掌を包み込んだ。

「スペさんの夢って、なんですか?」

「私の夢、ですか?」

「はい。」

 

スズカの質問に、スペは少し考えこんでから、答えた。

「私の夢は、『誰よりも速くゴールを駆け抜けるウマ娘』になることです。入学した時から、その夢は変わっていません。」

「つまり、誰よりも強いウマ娘になるということですね?」

「はい。もう何度も負けてしまいましたけど。」

言いながら、スペはちょっと悔しそうな表情をした。

「うふふ。」

その表情を見てスズカはちょっと先輩らしい笑みを見せ、スペの頭を撫でた。

大丈夫ですよ、スペさんは必ず、ウマ娘界の未来を背負う程の存在になりますから。

 

「スズカさんの夢は、なんですか?」

頭を撫でられながら、スペはスズカに尋ね返した。

「はい。」

スズカはスペの頭を撫でたまま、微笑をもって答えた。

「私の夢は、『先頭の景色を決して譲らない』ウマ娘になることです。でも、」

つと、左脚に視線を落とした。

「このようなことになってしまった以上、その夢は諦めなければいけないかもしれません。」

 

「え…」

「決して悪い意味ではありません。」

心配しないでくださいと、スズカは続けた。

「私が新たに目指すべき理想のウマ娘像は、トウカイテイオー先輩のような『不屈のウマ娘』になることかもしれません。それで、私の走りを観てくれる皆さんが幸せになってくれるのなら、それに越したことはありませんから。」

 

「みんなの幸せ、ですか。」

「はい。私がずっと先頭で走り続けたのは、私の能力がそれに適していたこともありますが、その走りで勝ち続ける中で、皆さんの笑顔が沢山観れたからです。走ることしか出来ない私が、皆さんに幸せを与えられた。それが凄く嬉しかった。」

スズカは、その光景を思い出すような表情をした。

「今回の怪我で、例え従来の走りが出来なくなったとしても、私のウマ娘としての理想は『みんなを幸せにするウマ娘』です。そう、それこそテイオー先輩のような…。その為に、復活したいのです。」

 

「素敵です。」

スズカの言葉に、スペは感嘆した。

やっぱり凄いな、スズカさん。

確かに、スズカの走りはみんなを幸せにした。

観ている人達の想像を越えたスピードと強さを、ターフで魅せ続けてきた。

誰もが、スズカに遥かな夢を抱いくようになった。

スペもその一人だ。

 

だから、あの天皇賞・秋でスズカさんを襲った悲劇に、誰もがあれほど悲しんだ。

でも、スズカさんはまだ諦めてない。

みんなの夢を叶えるウマ娘、それを目指している。

この苦しい状況でその夢を失っていないことに、スペは感嘆しそして感激した。

 

「勿論、『先頭を譲らない』走りを諦めた訳ではありません。」

うるうるとした瞳で自分を見上げているスペに、スズカは更に続けた。

「まだその走りをすることが叶うのならば、それに越したことはありません。でもその走りが出来なかったとしても、私は絶望せずに、前述の夢と理想を持ってターフに立てるよう、頑張ります。その時は、」

スズカは、眼光を少し強くして、スペの瞳を見つめた。

「あなたと闘いたいです、スペシャルウィークさん。」

 

「私もです!」

スズカの強い眼光に、スペも明るい笑顔ながら闘志を込めた視線を返した。

「完全復活し、万全の状態になったスズカさんとターフで一緒に走って、そして勝ちたいです!」

 

「スペさんらしいですね。」

スズカは眼光を緩め、またちょっと微笑を浮かべた。

闘いたいまでじゃなく、勝ちたいまで言うなんて。

でも、スペさんのそういう純心なところが好きだなと、心から思った。

「好きです。」

明るく無邪気で、真っ直ぐで負けず嫌いなところも…

 

「ど、どうしたんですか?」

スペの戸惑った声を聴き、スズカはハッとした。

彼女は無意識のうちに、スペの身体を抱き寄せていた。

「あっ、ごめんなさい。」

戸惑ってたスペの紅くなった表情を見て、スズカは慌てて謝りながら腕を離した。

 

 

丁度その時。

コンコン。

病室の扉をノックする音がした。

 

「はい、どうぞ。」

一度深呼吸してからスズカが返事すると、担当の医師の先生が入ってきた。

どうやらリハビリ後の状態を聞きにきたようだ。

 

「身体の具合はどう?」

「少し疲れました。」

「患部以外に痛くなった場所とかは?」

「ありません。」

「リハビリ中、吐き気とかは?」

「ありませんでした。」

医師の先生の質問に対し、スズカはいつもと全く変わらない様子で淀みなく答えていた。

一方傍らのスペは、真っ赤になった顔を隠す為、椅子に座ったままずっと下を向いていた。

 

一通りの質問が終わった後。

医師の先生は、あることをスズカに伝えた。

「実は、今日の午後にあなたと面会したいというウマ娘がいるんだけど、どうする?」

「どなたですか?」

ゴールドかな、と思ったスズカに、先生は答えた。

「オフサイドトラップよ。」

 

「えっ!オフサイド先輩ですか!」

スズカは珍しく、驚きの声をあげた。

「先輩、有馬記念間近で調整に集中してると聞きましたが?」

「詳しくは知らないけど、今日あなたに会いたいらしいわ。どうする?」

先生の尋ねに、スズカは驚きと笑顔が混じった表情で即答した。

「勿論会いたいです!」

「了解。」

スズカの返答を受けると、先生は出ていった。

 

オフサイド先輩が、来てくれる。

ずっと会いたかった、心から尊敬する先輩がようやく来てくれる。

ようやく会える。

スズカの胸は、嬉しさで一杯になった。

 

 

 

感激しているスズカの傍ら、スペはまだ下を向いたままだった。

だが表情は、真っ赤な色から、純心な彼女とは思えない蒼白なものに変わっていた。

 

オフサイド先輩が、スズカさんに会いに来る?

 

『…気分良いレースが出来ました!笑いが止まらないです!…』

スズカの悲劇に笑いが止まらない

スズカの悲劇に笑いが止まらない

スズカの悲劇に笑いが止まらない

スズカの悲劇に笑いが止まらない

スズカの悲劇に笑いが止まらない

 

耐えがたい記憶と言葉、そして重い感情が、スペの心に湧き上がっていた。

 


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