「何しに来たんですか。」
エレベーター前で会ってから数分後、療養施設の屋上。
一面灰色の雲に覆われ、時折寒風が吹きつける空の下、スペは対峙する様にオフサイドと向かいあっていた。
「スズカに会いに来たわ。」
「スズカさんに会いに来た…それだけですか?」
「彼女と話したいことがあって、来たの。」
「それは、謝罪しに来たということですか。」
「謝罪?」
やっぱりですか…
オフサイドの平然とした表情を見て、スペは唇を噛み締めた。
「オフサイド先輩…。先輩にはやはり、何の罪の意識もなかったのですね。」
「罪…?」
少し眉を潜めたオフサイドに、スペは睨みつけるような視線と共に言った。
「どうしてオフサイド先輩は、スズカさんの怪我を喜んだのですか?」
「私が、スズカの怪我を喜んだ?」
「とぼけないで下さい!」
スペは思わず大きな声を出した。
黒髪の中にある白毛の前髪が寒風に揺れた。
*****
?…
屋上のすぐ下の特別病室。
ベッド上で、読書をしながらオフサイドが来るのを待っているスズカは、ふとページをめくる手を止め、窓の外に眼を向けた。
今、スペさんの声が聞こえた気がする。
と、雨が降り始めたのが見えた。
気のせいかな。
スズカは開けていた窓を閉め、再び手元の本に眼を向けた。
*****
〈…気分良く走れました…笑いが止まらないです!…〉
「忘れたとは、言わせません。」
スペは、その優勝インタビューの音声を持参していたスマホで再生させ、オフサイドに突きつけた。
「明らかに、スズカさんの怪我を意識しての発言ですね、これは。」
「…。」
オフサイドの表情が、少し蒼くなった。
スペの表情はそれより蒼かった。
「“笑いが止まらない”…G1レースの優勝インタビューにそぐわない、ぞんざいで軽薄な言葉です。普通なら、絶対に出てこない言葉だと思いました。」
実際、過去の同インタビューでもそんな台詞は聞いたことがない。
「何故オフサイド先輩がこんな言葉を言ったのか、私なりに考えました。」
スペはスマホをしまった。
「結論から言いましたら、『オフサイド先輩はスズカさんの怪我を喜んだから』だと、確信しました。…違いますか?」
「違うわ。」
オフサイドはやや苦しげな表情をしながら、それを否定した。
「…では何故、あんな言葉を使ったのですか?」
「…。」
「答えられないですよね!歓喜の表現だけなら、もっと丁寧な言葉が出るに決まってますから!」
沈黙したオフサイドの態度が、見苦しい言い逃れを探しているように映ったスペは、普段とはまるで違う容赦ない口調で続けた。
「…こんなことを言うのは間違ってるかも知れませんが、敢えて言わせて頂きます。あのレースは怪我しなければスズカさんが絶対に優勝してました。調子もスタートもレース運びも完璧でしたから。それに、ただ勝つだけなら、スズカさんはあそこまでハイペースで走らなかったと思います。スズカさんは勝つだけでなく、スピードの向こう側…皆の夢を叶える為に、最高の走りをしようとした。そして、身体が持ち堪えられる速度の限界を超えてしまいました。あんな悲劇さえ怒らなければ、どれほどのタイムでゴールを駆け抜けていたでしょうか。」
「スズカさんの身に起きた悲劇に、誰もが悲しみました。レースで闘っていた皆さんも、スズカさんへの心配で一杯になってました。でもオフサイド先輩だけは唯一人、笑ってました。スズカさんの怪我を。そうですね、スズカさんが怪我しなければ、オフサイド先輩が勝てる筈ありませんでしたから。タイムにも表れてますし。それは、笑いたくもなるかもしれませんね。」
一瞬、スペの表情に嫌悪感が滲んだ歪な笑みが浮かび、すぐに消えた。
「その感情は、勝負師としては理解出来なくもないですが、同じウマ娘としては、私は全く理解出来ません。あの時…スズカさんは生死の瀬戸際にいたというのに…」
言いながら、スペの眼に涙が滲み出て、ポロポロと頬から足元に溢れ落ちた。
ターフに倒れたスズカの姿が胸に蘇ってしまったから。
「先輩にとって、スズカさんの身などどうでも良かったのですか?後輩の命の心配よりも、自身の勝利を喜ぶ方を優先にして、良心の呵責はなかったのですか。ウマ娘は走ることで皆に幸せを与えることが役目の一つだった筈ですが、それも忘れてしまったのですか。」
そこまで言うと、スペは言葉を止めた。
普段は純心無垢な彼女の表情は、非情と侮蔑が入り乱れて蒼白になっていた。
「…。」
スペの一連の詰問に対し、オフサイドは何も答えず、不意に背を向けた。
「何処に行くんですか?」
「帰るわ。」
「帰る?」
「体調が悪くなったの。会えなくなったと、スズカに伝えてくれるかな。」
「待って下さい!」
去ろうとしたオフサイドの袖をスペは掴み止めた。
「なんでずっと黙ってるんですか!せめて…スズカさんに謝罪しようとは思わないのですか。」
「スペシャルウィーク。一つ、尋ねてもいい?」
背を向けたまま、オフサイドは重たい口を開いた。
「…どうぞ。」
「あなたは、スズカが故障する可能性を考えてた?」
「え?」
「スズカがあれほどのスピードで走り続ける中で、いつか限界を超えてしまうのではないかという危惧はしてたの?」
「してません。」
スペは首を振った。
「スズカさんの身体は、怪我の心配が全くないくらいに頑丈かつ柔軟な身体でしたから。あの怪我の原因は、前述のようにスズカさんの走るスピードが速すぎて、脚が限界を超えてしまったからです。本当に、運が悪かったんです…。」
スペの返答に対し、オフサイドは背を向けたまま、言った。
「私は、スズカが怪我する可能性を考えてた。」
「…。」
「どんなに頑丈でも、どんなに周囲が大丈夫だと言っても、ターフに絶対の無事はないの。私はそれを何度か見てきた。チーム仲間の後輩が、なんでもないただのホームストレッチで、突然脚が…」
そこまで言いかけて、オフサイドは言葉を止めた。
あの出来事は、私は絶対に語ってはいけないことだわ…
胸を抑えながら、オフサイドは蒼白な表情でスペを振り向いた。
「一つ、あなたの質問に答えるわ。」
「…どうぞ。」
「あの天皇賞・秋のレース後、私が何故あれだけ喜んだのか。その理由は、喜ばなければいけなかったから。」
「どういう意味なんですか?」
オフサイドの返答に、スペは意味が分からないという表情をした。
あのようなことが起きたのに、喜ばなければいけない?
「スズカさんの悲劇があったのに、ですか?」
「スズカの悲劇があったからよ。」
「え?」
「私が言えるのはここまでだわ。」
オフサイドは再び背を向けた。
「スズカに伝えて。“会えなくてごめんなさい”と。」
最後にそう言うと、オフサイドは屋上を去っていった。
いつのまにか、冷たい雨が降り出していた。