お化け狩りの夜が廻る 作:甲乙
真っ赤な月光が、草原を照らし出した。
ユイも足を止めて、それに見入る。
背中のハルも、足元のクロとチャコも、蜘蛛神も、子グモも、ネズミ達も。
月は、あんなに大きなモノだっただろうか。
空は、あんな色をしていただろうか。
あんな、青ざめた――血のような。
そして、巨大な満月を背にして、異形の影が浮かんでいた。
ゆらゆらと黒い触手を蠢かせるソレはだんだんと大きくなって、それでも正体が判然としない。
あんなモノ、見たことがない。
やがて、ソレは音も無く草原の中央に降り立った。
その、顔にあたるだろう部分には、顔じゃないナニカが張り付いている。
目のようで目じゃない、口のようで口じゃない、顔のようで顔じゃないナニカが。
ゆらりと。
ソレが顔じゃないナニカで蜘蛛神を見上げるような動きをした。
蜘蛛神は動かない。動けないのだ、きっと。
睥睨されたように子グモもネズミも等しく固まっている。
ユイも、ハルも、動けなかった。
アレは、どんなお化けとも違う。
蜘蛛神とも、コトワリさまとも違う。
この世の何者とも違う、別のナニカ。
動けなかった。
目を離せなかった。
何も考えられなかった。
いつだってうるさかった心臓の音も、まったく聞こえない。
まるで、止められてしまったみたいに。
ソレが、その触手を――――。
その触手で抱えた袋を、放り投げた。
「…………へ?」
我に返ったユイが、素っ頓狂な声をあげる。
降り立ったナニカ――灰色の怪異が抱えていたのは、大きな袋だった。
三つも抱えていたその袋の一つを、触手で無造作に投げたのだ。「ポイッ」とそんな音が聞こえてきそうな程に適当な投げ方だったのに、その袋はとんでもない速さで飛んでいく。
蜘蛛神の顔面に向けて。
“アアアァァァッ!?”
その醜悪な顔に袋が直撃して、蜘蛛神が声をあげた。衝撃で、あの巨体が見えない糸の上でぐらぐら揺れる。ユイですらほんの少しだけ同情してしまうほど痛そうだった。
袋は、その勢いのまま跳ね返って、今度はユイ達の前に落ちてくる。
まるで隕石でも降ってきたみたいな音が響いて、土と草を長々と抉って、跳ねてゴロゴロと転がって、袋はやっと止まった。
そして、その袋から、
「おじさん!?」
狩人が、出てきた。
<●>
あの廻送者、次はぜったい狩る。
ズタボロになった体を起こしながら、貴方は心に誓った。
確かに連れていけと言ったが、誰が投擲武器にしろと言った。青白い目を血走らせながら振り返っても、やはりあの灰色の怪異の姿は無い。
昂る獣性をなんとか抑えていると、目の前に小さな人影が見えた。
「おじさん!?」
そこにいたのは、赤いリボンの少女――ユイだった。
元から傷だらけだった体は更に傷を増やしており、同じく傷だらけの少女を背負っている。
背負われた青いリボンの少女――ハルは、初めて見る貴方の姿に不安そうな目を向けていた。
足元のクロは使者と挨拶するようにその匂いを嗅ぐ。チャコは使者の姿に怯えているのか、ユイの足に隠れていた。
「え、だ、ユイ? ……知り合いなの?」
「ああ、ほら、このおじさんだよ、さっき話した狩人さん」
「えぇ……」
いったいどういう紹介をしたのか。
ハルは変質者かナメクジでも見るような目で貴方を見てくる。貴方はすこし……いや、非常に傷ついた。
「……あの、大丈夫ですか?」
それでも、折れた手足をぶらつかせている貴方を見て、ハルはおずおずと声をかけてきた。
やはり慈悲深い少女だ。ユイとはまた違う、慈愛のような温かさを感じる。
ゴキゴキと手足の骨を自分で戻しながら、ハルのリボンを見てまた貴方は全身から血を噴き出した。飛び散った血をユイは慣れた様子で回避し、ハルは悲鳴をあげる。
「なに!? なんなのっ!?」
「へーきへーき。このおじさん、小さい女の子を見ると鼻血が出る病気なだけだから」
その言い方は誤解を招くから訂正してくれないだろうか。
どこか温度の下がった目で貴方を見ていたハルの目が、緊張に見開かれる。
「あぶないっ!」
背後に散弾銃を向ける。放たれた無数の水銀弾が子グモを数匹まとめて消し飛ばした。
見れば、草原の中はネズミと子グモに埋め尽くされている。「群れ」を苦手とする貴方には刺激の強い光景であったが、今の貴方は
ユイとハルも、気持ちを切り替えるようにその瞳をキリと尖らせる。
「おじさん、聞いて」
ユイが早口で状況を説明する。
ネズミの群れは味方であること、蜘蛛神の多様な能力、その攻略法、そして。
「いっしょに戦って。おねがい」
前と変わらない意思の強い瞳。だがその奥にあった、どこか死に惹かれたような陰りはもう見えなかった。
ああ、少女よ。よい目になってきたな。
苦難を超えて、超えて、超えて。絶望に塗れた夜を知り。だが折れぬ、狩人の目だ。
「その……、わたしも、おねがいします!」
もう一人の少女、ハルもその瞳を向けてくる。
ユイ以上に満身創痍で、もう自分で立つことすらできない身でありながら、その心は折れていない。
二人の足元で、二匹の子犬が胸を張るように貴方を見上げている。
先刻に視た残像を、貴方は思い出す。
自死し、亡霊となったユイ。
小さな墓穴に埋まるクロ。
夜をさまようチャコ。
そして、左手を失くしたハル。
長い夜が明けた時、彼女らはあまりに多くを失くしていた。
あの時は、ユイとクロだけだった。
だが今は違う。
ユイの隣には、ハルがいる。もう守られるだけの存在ではなくなった、ユイの親友が。
クロとチャコがいる。どこか主とその友に似た、二匹の忠犬が。
貴方がいる。だが、今ここに貴方がいなくとも、彼女達はきっと勝利を得ていただろう。
貴方は自覚していた。
貴方は、あの悲劇の連鎖に投じられた、ひとつの石ころに過ぎない。
しかし、たかがひとつ、されどひとつ。
残酷に組み上げられた歯車は、そのひとつの石ころによって狂わされたのだ。
だからユイ達は今ここにいる。そして貴方も。
ユイはもう、ひとりではない。
故に、貴方がユイに語ることもそう多くはなかった。
【狩人は、一人じゃない そして 貴公】
「――うん!」
走り出すユイ達を見送り、貴方は剣を抜いた。
貴方が持つ仕掛け武器の中でもっとも強く、そして神秘に満ちた、その剣を。
「…………」
“…………”
青白い目で、貴方は蜘蛛神を見上げる。
全ての赤い目で、蜘蛛神は貴方を見下ろす。
気に入らない。
貴方は剣の刀身を撫で、導きの光を露わにした。神秘の結晶たる大刃がその姿を現し、それを見た蜘蛛神の目が見開かれる。
しかし、所詮は剣。空中に陣取る自身に届きはしない。……とでも考えたか、蜘蛛神の目はすぐに愉悦の色を浮かばせた。
その目が、貴方は気に入らなかった。
見下ろすんじゃあない。降りてきたまえよ。
光の刃が、蜘蛛神の顔面を斬り裂いた。
※
後ろから聞こえた、聞いたこともないような甲高い音と、蜘蛛神の悲鳴にユイは振り返った。
殺到する赤い糸を次々と回避する黒い人影と、蜘蛛神に向かって撃ちだされる
「すごい……」
「ね? デタラメでしょ、あのおじさん」
ハルは、初めて見る狩人の超人ぶりに呆然とした様子だった。
ユイも足は止めないまま、狩人の異常性を改めて認める。薄々思ってはいたけど、あの人は普通の人間じゃないのかもしれない。
それでも、今は。
「ハル! おねがい!」
「うん! このまままっすぐ! あの木の横!」
今は、やるべきことをしよう。ユイは足を速める。
狩人が蜘蛛神を引きつけてくれて、子グモの数は増えなくなった。それでも、ネズミ達が押されているのは変わらない。
ネズミと戦っている子グモを避けて、ユイ達を追ってくる子グモの横をすり抜ける。
立ちふさがる子グモにクロとチャコが噛みついて、その隙にハルが鋏を突き刺した。
ユイは、ただひたすらに走った。
「ここ!」
ハルが思いきり手を伸ばして鋏を閉じる。ジョキン、と糸を切った音。
蜘蛛神が更に大きく傾いて、ほとんど横向きになった憎々しげな顔を向けてくる。その顔に、翠の光がまた浴びせられた。
「次!」
「あっち!」
ユイは、一人じゃない。
それだけで、力が湧いてくるみたいだった。
<●>
やりづらい敵だ。
貴方は蜘蛛神を内心でそう評した。
単純な攻撃性や暴力性に限れば、ヤーナムの獣や上位者には遠く及ばないだろう。だが、蜘蛛神の真の力は戦いで発揮されるものではない。
アレは、人の心というものを
その獲物が、どう囁けば言いなりにできるのか。どうすれば心を弱らせるのか。何を欲するのか、何を恐れるのか。
洗脳と煽動。そして悪意によって人の心を操ることに長けた上位者。それがあの蜘蛛神だ。
故に、アレは貴方が嫌がることも知っている。
ギョロリと、赤い目の一つが遠くを駆ける少女達を見た。ユイ達を狙って、赤い糸を操る秘儀を放とうとする。
そして、それをやらせる貴方ではない。
両手で握った剣の刀身が
“アアアアア!”
“イタイ! イタイ! イタイ!”
“ヒドイ! ヒドイ! ヨクモ!”
光波が、蜘蛛神の醜い顔を深々と斬り裂く。悲鳴とも怒号ともつかない声をあげ、全ての赤い目が貴方に向けられた。
怒り。憎悪。そして悪意。その目からは、赤々とした負の感情しか読み取れない。
いったい、どれ程の負念をその身に抱いているのか。いままで、どれ程の負念をその身に溜め込んだのか。
アレがこの地で神として信仰されていた上位者ならば、その負念は人間のものなのだろう。人間の負念が、あの上位者をあそこまで穢したのだろう。
だが、貴方は見抜いていた。
愉しんでいただろう?
はじめは、何かの為に人を死なせていたのだろう。その為に心を弱らせていたのだろう。その為に人を痛めつけていたのだろう。
だが得てして、手段と目的とは容易に入れ替わるものだ。
獣を憎んだ狩人が、最後は狩りそのものに酔ったように。力を求めた墓暴きが、最後は血晶石そのものに狂ったように。
いつしか、あの蜘蛛神は悪意で人を弄ぶことを愉しみだした。それ自体を、目的としてしまった。
元が何者であったかなど関係無い。今のアレは獣だ。悪意の塊と化した、
そして何よりも。
よくも、やってくれたな。
貴方は見ていた。
蜘蛛神が、この次元でユイ達にした残酷な仕打ちを。あの次元で、ユイ達にした凄惨な仕打ちを。
少女たちを弄んだ。ハルを苦しめた。ユイを殺めた。
許せるはずもない。故に狩る。
どこまでも
※
これで何本目か。ユイはまだ走り続けていた。
ハルを背負いながら走って、子グモをかいくぐりながら走って、糸を切って、また走る。どんなに運動が得意でも限界はある。ユイの体力は底をつこうとしていた。
「ユイ、もういいよ! 無理しないで!」
「……」
ユイの様子を感じとったのか、ハルが背中から下りようとする。それに言葉で答える余力は無くて、ただハルの足を支える手に力を込めた。ひどく傷ついた、その足を。
ハルは、ずっと背負ってくれた。知らない街に飛ばされて、たった一人で、ユイを背負いながら戦っていた。足が、折れてしまうまで。
それに比べれば、こんなの!
ユイの気持ちは萎えてはいなかった。でも、体はもう言うことを聞かなかった。
「……ぁっ!」
足がもつれて、転ぶ。
ハルの足をぎゅっと掴んで、ユイの代わりにハルが両手をついて、二人でゴロゴロと草の上を転がった。
一瞬、意識が飛ぶ。
気が付けば夜空を見上げるように仰向けになっていて、状況も忘れてその満天の星空に見入ってしまう。
どっと疲れが押し寄せてきて、そのまま寝てしまいそうになる。
寝ちゃダメ。起きないとダメ。ハルが、クロが、チャコが、おじさんが。
ぐい、と手を引かれた。
「ユイ! しっかり!」
ハルが、肩を貸してくれた。でも
「っ! あぐっ……!」
「無理してるのはどっち!」
ハルの左足にはもう添え木も包帯も無い。骨折した上に痛めつけられたその足で立とうだなんて無茶だった。だから、ユイも肩を貸す。
ちょうど、二人三脚でもするみたいに歩き出した。十歩ほど歩けば、ユイもハルもコツをつかむ。速足で前に進んだ。
そういえば、去年の運動会に二人三脚の種目があって、ハルといっしょに練習したっけ。
「……なつかしいね」
ハルも同じことを考えていたのか、息を切らしながらもポツリと呟いた。
「いっぱい転んだよね」
「ごめんなさい……」
「ハルも泣いちゃうし」
「ほ、本番では泣かなかったもん!」
こんな時なのに笑いがこみあげてきて、少しだけ二人で笑った。糸を切って、また歩き出す。
糸は、あと一本。
今年の運動会に、ハルはいない。
ハルと二人三脚ができるのは、これで最後。
――ちがうよね。
最後じゃない。
最後にしないために、ユイたちは歩いた。
<●>
月光の聖剣。
医療教会における最初の狩人にして「英雄」ルドウイークの剣。彼を導き、そして惑わした欺瞞の光。その起源は深く秘匿され、今となっては知る由も無い。
確かなのは、その強大な神秘の力。そして、この剣の本来の使い手はかの英雄であり、貴方ではないということ。
故に、その力の行使には代償が必要となる。
刀身に力を注ぎ、その月光を大きく膨らませる。限界まで高まった光を解き放ち、蜘蛛神に浴びせた。もう何度目かも分からないその攻撃は蜘蛛神に確かな手傷を負わせるが、それと同等に貴方も消耗していた。
水銀弾も輸血液もとうに使い果たしている。捧げられるのは、貴方の血だけ。徐々に、指先の感覚が遠くなってきていた。
対して、蜘蛛神の巨体は未だ空にあった。醜い顔から鮮血を垂れ流しながらも、空中に張り巡らされた不可視の糸に執念深くしがみついている。
「…………」
昂る戦意とは裏腹に、貴方の脳は冷静にそう判断してもいた。
地の利は完全に蜘蛛神にある。あの高さに陣取られては、近接戦闘でこそ真価を発揮する貴方の攻撃は届かない。
故に、貴方の持ち得る中で最も強力な遠距離攻撃を繰り返してきたが、どうも削り切れない。腐っても上位者ということか、あるいは神秘に耐性があるのか、なかなかにしぶとい。
ユイ達が糸を切り、蜘蛛神が地に落ちるのを待つ手もあるが、そうすればこの
貴方は悟った。この根比べは、わずかな差で蜘蛛神に軍配が上がる。
だが。
それがどうした。
元より夢に囚われた身。幾たび死のうと、容易に蘇る呪われた命。
そして、例え今ここで倒れようと、少女たちは己の力で勝利する。貴方はそう、確信している。
ならば、この身が果てることに何を躊躇するというのか。
光波を放ち、その隙を見て蜘蛛神が反撃に出た。四方から赤い糸が伸び、貴方を貫かんとする。
一本、二本、三本と回避し、四本目が首を掠めた。パッと鮮血が舞い、蜘蛛神が目を細める。
何がおかしい。
手近にいた子グモに剣を突き立て、その返り血を存分に浴びる。その血で、その感触で、生きる意思を
最後は倒れても構わない。だがまだ早い。
勝利などいらない。勝つのは少女たちだけで良い。
貴方は、蜘蛛神に血塗れの月光を突きつける。
続きだ。血の一滴まで付き合ってもらう。
それに応えるように、蜘蛛神がニタリと嗤った。
※
目の前でまた、ネズミが踏みつぶされた。ネズミは霞になって消えて、振り返る前にハルが子グモの頭に鋏を突き刺す。
その隙をつくように、別の子グモがユイに迫ってきた。
「このっ!」
鋏を持っていないユイは、子グモの頭を蹴り飛ばした。でもそれだけじゃ倒せなくて、足に組みつかれる。鋭い牙が肌に食いこむ感触に、歯を食いしばって耐えた。
唸り声をあげて、クロとチャコが子グモの足に噛みつく。鬱陶しげに振り回される足に食らいついて離れない。
「ユイ!」
カチンと音がして、半分になった鋏をハルが投げつける。子グモの頭に刺さったそれをユイが引き抜いて赤い霧に変えた。また、うじゃうじゃと子グモが寄ってくる。
糸はあと一本。
でも、その一本までがどうしようもなく遠い。
ネズミの姿はほとんど見えなくなっていた。また、子グモに取り囲まれようとしている。
ユイもハルも、もう走れない。お互いに肩を貸してゆっくりとしか進めないのが、気が狂いそうな程もどかしい。
そんなユイ達を嘲笑うように、いや嘲笑いながら、子グモ達が壁を作る。
いくつもの赤い目がユイ達を嗤う。ギチギチと、ハル達を嗤う。
それを睨み返すユイ達の前で、子グモの壁が燃えあがった。
「え!?」
暗闇に慣れた目には、あまりにも眩しい炎の光。
思わず手で顔をかばうユイの耳に、パリン、ガシャンとガラス瓶が割れるような音が続いて響く。そのたびに子グモの壁が燃えあがって、ついには消えてなくなってしまった。
『Oaea!』
使者だった。
地面から生える使者の小さな手には、火のついた小瓶が握られている。それを次々と子グモに放り投げていった。
「ありがとう!」
開かれた道を、急いで歩く。
一歩踏み出すたびに、すぐ隣でハルが小さく呻いた。唇をぎゅうと噛みしめて、足の痛みを堪えているのが分かる。
無理はさせたくない。でも、今は頑張らないと。
「……っ、あの木、あそこ……」
震える手で、ハルが前を指す。もう、あとすこしだった。
ユイは力を振り絞って歩く。ハルが歯を食いしばってそれに続いた。
クロが先導するように前を走る。チャコが励ますように何度も振り返った。
ネズミ達はもうずっと怯まず戦い続けている。使者がそれを援護した。
歩いて、走って、戦って。
ついに、最後の糸に辿りついて、
「そんな……っ!」
ハルが、絶望の声をあげる。
蜘蛛神がそれを見て、ニタリと嗤っていた。