お化け狩りの夜が廻る   作:甲乙

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いのり   -Requiescat-

『ユイは、大きくなったら何になりたい?』

 

 父の痩せた背中に飛びついて、無理矢理おんぶしてもらう。ひょろりとした父はよろけてしまったけど、怒ることもなくユイを背負ってくれた。

 その黒縁眼鏡を外して自分で着けてみたりして遊んでいると、ユイはそう聞かれた。

 将来の夢。よく聞かれることだけど、8歳のユイにまだこれといった夢は無い。うーん、と考えていると、父はいくつか候補をあげてくれる。

 

『体育の先生とかどうだい? ユイは運動が得意だから』

 

 大学の先生でもあった父らしい言葉だった。もしかしたら、ユイにもそうなってほしかったのかもしれない。でも、当時のユイにとって体育の先生とはつまり怖い先生のことで。

 だから「やだ」と即答すると、父はすこし落ちこんでしまった。

 

『じゃあやっぱり、お嫁さんかな?』

 

 きっと「お父さんの」と付け足してほしいんだな、とユイは思った。ユイは鋭いのだ。父のことは好きだけど、でもそういうんじゃないな、とも思った。

 だから、すこしの意地悪と、本音をまぜて言ったのだ。

 

『ハルの友だちになりたい!』

 

「もうなってるじゃないか」と苦笑する父に、「これからもずっと!」とユイは答えた。

 

 

 

 

 そう、これからもずっと。

 大好きなお父さんも、お母さんも、ハルも。

 ずっと傍にいるんだと、信じて疑わなかった。

 

 

 

 

 なぜ、今こんなことを思い出しているのか。

 これは、やっぱり。

 

 ――やっぱり、無理だったかも!

 

 何も考えずに飛びおりたけど、さすがに無茶だったかもしれない。

 真っ逆さまに落下する中、頭の中でぐるぐる回る走馬灯と、ぐんぐん近づいてくる地面を見ながら、ユイは思う。

 手応えはあった。鋏で、見えない糸を確かに切った感触があった。

 あとは、なんとか上手く着地すれば足を折るぐらいで済むかもしれない。でもそう甘くはなかった。

 ユイは頭から落ちているし、しかも下ではハルが両手を広げてユイを受け止めようとしている。

 

 ――だめ! よけて!

 

 これじゃハルまで巻きぞえだ。

 今更になって自分の無茶を後悔しはじめたけど、もう何もかも遅くてすぐそこにハルがいてよけておねがいだからたすけてだれか!

 

 

 ガクン! と。

 

 

 ()()()()()()()みたいに、握ったままの鋏が宙に止まった。

 落下していたユイも急停止して、腕が引っこぬけそうな衝撃と痛みが両肩に走る。鉄棒のように鋏にぶら下がったユイの足元で、ハルがぽかんと口を開けていた。

 そのまま、ゆっくりと降りる鋏に合わせて、ユイもハルの前に音もなく着地。やっと地面につけられた足に、クロとチャコがじゃれついてくる。ハルは、まだユイを見たまま固まっていた。

 

「えーっと、その」

 

 気まずい。何と言ったらいいんだろう。

 

「た、ただいま……?」

「…………」

 

 苦しいな、と。自分で言っておいてそう思った。現に、ハルはどうも許してくれそうもない。

 じわじわとハルの目に涙がたまってきて、ふるふると体が震えはじめて、でもその口は盛大にへの字に曲がっていて。

 

 

 ぷいっ! と。

 

 

 そっぽを向いてしまった。

 ハルは、たまにこうなる。ハルが本気で怒った時の、怒り方だった。

 クロとチャコは、そそくさと逃げた上で遠巻きに二人を眺めている。使者が赤黒い小瓶を渡してくるけど、たぶん飲んでくれないと思う。

 

 ――さて、どうしようかな。

 

 ご立腹な親友にどうやって機嫌を直してもらおうか。狩人の加勢にだって行かないといけない。

 そう考えるユイの耳に、その叫びは聞こえてきた。

 

 

 

 

   ◎

 

 

 

 

“イタイ! イタイ! アア!”

 

 蜘蛛神は、必死にもがいていた。

 あのヒトに似たナニカ、ヒト擬きが投げた光る剣。あれに顔を貫かれた上に、落とされないはずの足場まで落とされたのだ。

 その巨体を地面に墜落させ、瘤だらけの足は何本かひしゃげていた。全身の赤い目は潰れ、無事な目はもうほとんど残っていない。

 その目に映る逆さまの視界の中で、黒い人型が近付いてくる。

 足音というには、ひどく重い音を引きずりながら。

 

 

 ずりずり ずずず ごりっ

 ずりずりずり ごりっ ずりずり

 

 

 その人型――ヒト擬きの手に握られているのは、あの光る剣ではなかった。

 そもそも武器ではなく、あるいは道具ですらなかった。ヒト擬きが引きずる物、それは丸く巨大な。

 車輪、であった。

 

 ぐしゃり、と。

 

 まるで挨拶でもするかのようにヒト擬きは、蜘蛛神の顔の裂傷に車輪を叩きつけてきた。

 ぐりぐりと、丹念に、執拗に、その傷を抉るように。

 痛みに、屈辱に、蜘蛛神は叫んだ。

 

“イタイ! イタイ! イタイ!”

“ヒドイ! ヒドイ! ヒドイ!”

 

 それを間近で聞いたヒト擬きは、ナメクジが首を(もた)げるような動きで目を覗きこんでくる。

 その青白い目は――喜悦に歪んでいた。

 怨敵の首を取ったような。満願を成就させたような。嗜虐の悦びに悶えるような。

 狩人が、獲物を追い詰めたような。

 その悍ましい目に戦慄する蜘蛛神の前で、ヒト擬きは車輪の形を変えて見せる。

 

 

 オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛――――ッ!

 

 

 封を解かれたように噴き出す、赤黒い瘴気。

 怨念じみた、否、まさしく怨念そのもののそれは、車輪が回転する程に勢いを増してゆく。

 そして、凄惨な「処刑」が始まった。

 叩き潰される。轢き潰される。摺り潰される。

 ナニカの怨念が、当たり散らすように蜘蛛神を焼き潰す。

 夥しい返り血を浴びても、ヒト擬きは怯まない。それどころか、より一層に狂喜を増している。

 めり込んだ車輪を引き剥がされる度に、蜘蛛神の内にあった「それら」も血のように噴き出した。

 それは、仄かに輝く光の玉。

 蜘蛛神が弄び、死に繋ぎ、喰らってきた、ヒトの魂。それらを巻き取るように車輪が回り、魂が渦を巻いて車輪を覆い始める。

 車輪が叩きつけられる。バキバキと、蜘蛛神の血肉を潰していく。

 車輪が叩きつけられる。ズルズルと、溜め込んでいた魂を引きずり出される。

 車輪が叩きつけられる。ユラユラと、人型を成した魂が蜘蛛神に憤怒の表情を向ける。

 車輪が叩きつけられる。ゲラゲラと、ヒト擬きが哄笑をあげる。

 

“アアアアアアアアアアアッ!”

“ヤメテ! ヤメテ! ヤメテ!”

“オネガイ! オネガイ!”

 

 苦痛と、絶望と、屈辱と、悲嘆と、憎悪と、怨嗟と、ありとあらゆる負念が蜘蛛神を支配した。

 負念に支配されながらも、全ての足を断ち潰された蜘蛛神はもがくこともできない。

 ただただ車輪に潰され、ただただ魂に焼かれ続けた。

 やがて、地面ごと抉るような一撃にその頭を打ち上げられる。

 

 落下する中で、一つだけ残った目に最後に映ったのは。

 

 何も持たない右手を構えるヒト擬きと。

 

 それに重なるように右手を引く、()()()()()()の魂。

 

 二つの右手が、蜘蛛神の目を貫く。

 

 貫き、抉り、その頭に詰まったモノを確と掴み取り。

 

 抜き出した。

 

 

“――――――――ッ!?”

 

 

 もはや、痛みすら感じられない。

 何も見えず、何も考えられなくなった中、ただ触覚と聴覚だけが残った。

 その触覚に、ひどく冷たく、ひどく太い何かを感じる。

 その聴覚に、ヒト擬きの声を聞く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 炎が炸裂し、蜘蛛神の(からだ)は、木端微塵に吹き飛んだ。

 

 

 

 

   <●>

 

 

 

 

 貴方は、絶頂の中にあった。

 

 艱難辛苦(かんなんしんく)の果てに()っくき蜘蛛神を地に落とし、ローゲリウスの車輪を以てその身を轢き潰してやった。

 全ての足を叩き折った末に、内臓攻撃を以てその脳髄と臓腑を抉り出してやった。

 最後は、その裂けた大口に大砲を捻じ込んで、何もかも消し飛ばしてやった。

 

 勝った。

 勝ったのだ!

 この身を犠牲にしないまま! 少女たちも無事なまま! 一度も死なないまま!

 勝利だ!

 負け続けたこの自分が! 死に続けたこの自分が!

 はじめて! 勝った!

 もはや、言葉になどできなかった。

 だから、無意識に「彼」の言葉を借りていたのだろう。

 雨のように降り注ぐ蜘蛛神の血を浴びながら、両手を広げて、貴方は高らかに叫んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 少女たちよ、ご覧あれ!

 

 私はやりました、やりましたぞ!

 

 この醜い蜘蛛を、潰して潰して潰して、赤色の血煙に変えてやりましたぞ!

 

 どうだ、お化けめが!

 

 如何にお前が悪辣だとて、血肉をすべて吹き飛ばされれば、何ものも唆せないだろう!

 

 すべて血煙、粉微塵に消えたその姿こそが、おぞましい貴様には丁度よいわ!

 

 ヒャハ、ヒャハッ

 

 

 私はやったんだあ――――っ!!

 

 

 ヒャハハハハハハァ――――ッ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

「……」

「……」

 

 血の雨が止み、声が涸れ、鎮静剤を5本ほど飲んでようやく落ち着いた貴方が見たのは。

 穢れた獣か、気色悪いナメクジか、頭のイカれた医療者か。夜に蠢く汚物でも見るような目を向けてくる、二人の少女の姿であった。

 あんまりじゃあないか。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

「おじさん、そのままハルに近づいたら蹴るからね」

 

 ぷるぷるとチャコみたいに震えているハルを遠ざけながら、ユイは尖った目で狩人を牽制した。

 恩人に向ける言葉としてはあんまりかもしれないけど、その恩人は頭から足元まで血でずぶ濡れなんだから仕方ないとユイは思う。今まで見てきたお化け達より、よっぽどお化けだった。

 ショックを受けた様子で打ちひしがれる狩人に、使者たちが霧吹きみたいな物を浴びせる。きれいにはなっていくけど、何故か転げまわる狩人を横目にして、ハルに向き直る。

 

「大丈夫? 気持ち悪くない?」

「…………うん」

 

 色白なハルの顔はさらに青くなっていた。怖い映画どころかアニメの血が出るシーンでも目を覆ってしまうようなハルだ。狩人の、あまりにもあんまりな行いを見てしまってショックを受けているに違いない。

 ハルの背中をさすりながら、自分のナップサックを漁る。たしか、お姉さんからもらった飴玉が残っていたはず。見つけた飴玉を口に入れてあげると、すこしだけハルの表情が和らぐ。

 その顔を見て、ユイもやっと人心地ついて……そこで、ハルが何かを思い出したみたいにユイから距離をとった。そのまま、腕を組んでそっぽを向いてしまう。

 

「……ごめんってば。ハル」

「……」

 

 つーん。

 あわよくばこのまま忘れてほしかったけど、そこまで甘くはないらしい。飴玉いっこで機嫌を良くしてしまっても、それはそれで心配ではあるけれど。

 

「無茶してごめんなさい! 反省しています! もうしません!」

 

 ダメ押しに「このとーり!」と下げた頭の上で両手をすり合わせても、ハルはまだこっちを見てくれなかった。今日のハルはどうにも手ごわい。

 

【この先、血はないぞ だから、私を思い出せ】

【発狂? ならば、素晴らしいアイテム】

 

 見れば、いったい何を吹きかけられていたのか、ずいぶんと小綺麗になってテカテカしている狩人が、ハルに赤黒い小瓶を差し出していた。使者といい狩人といい、あの怪しい薬がそんなに好きなんだろうか。

 当然、ハルはそれを受け取らずにじりじりと狩人から距離をとっていく。そして結局は、ユイの背中に隠れてしまった。またショックを受けたような狩人。そんな二人の様子がおかしくて、ユイは噴き出してしまう。

 

「……もうっ! ユイ!」

「ごめんって!」

 

 緊張の糸が切れたせいか、なかなか笑いが収まらない。頬を膨らませたハルにデコピンされて、それすらもなんだかおかしい。ケラケラと笑うユイにそっぽを向きつつも、ハルも傍を離れようとはしなかった。多少は打ち解けた様子のユイたちに安心したのか、クロとチャコも尻尾を振りながら駆け寄ってくる。

 狩人は、すこし離れた場所からそれを見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ふわりと、淡い光が浮かぶ。

 

「……わぁ」

 

 どちらが漏らしたのか、感嘆の声をあげるユイとハルの前で、その光は徐々に数を増やしていく。やがて、無数の蛍が飛び立ったみたいに、草原は幻想的な光で照らしだされた。

 その光は、一瞬だけネズミの姿や、あるいは人の姿になって、また宙に消えていく。

 役目を終えたネズミたちが、蜘蛛神から解放された人たちが、今度こそ本当の眠りにつこうとしている。そう、ユイには見えていた。

 

 ――ありがとう。

 ――そして、おやすみなさい。

 

 だから、ユイはただ手を合わせた。言葉もなく、ただ目を閉じて、ただ祈った。

 狩人と使者が、それを真似るようにぎこちなく手を合わせる。

 クロとチャコが、魂の行く末を見届けるように夜空を見上げる。

 ハルだけは、ただ一点を見つめていた。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 ――あの人……。

 

 目を閉じて祈るユイのすぐ横に、その人はいた。

 

 色の無い、半透明の残像。

 ひょろりと痩せた体つき。温和で気弱そうな表情。その(まなじり)を覆う黒縁眼鏡。

 そして、何かに断ち切られたように無くなっている左手。

 

 その男性の魂、あるいはお化けは、白黒写真みたいに動かないままユイを見下ろしている。ユイにも、狩人にも、その姿は見えていないみたいだった。

 男性の顔に見覚えは無い。無いはずだけど、どこかで見たことがある気もする。

 なんとか記憶を探っても思い出せなくて、もう一度ハルが顔を上げた時、男性と目が合った。

 やっぱり、その男性は動かない。でもその表情は、ハルに何かを伝えようとしているみたいに険しい。

 

 ズキン、と左手の傷が疼いて。

 

 視界の端に、小さな赤い光が映る。

 

 ハルの全身に、緊張が戻ってきた。

 

 

「――――あそこ!」

 

 

 今までにないぐらい大きな声が出た。

 さっきまで赤い光が見えていた、今は何も見えない暗闇に向けて、左手で指さす。

 突然の大声に子犬たちが飛び跳ねて、ほぼ同時に轟音が響いた。

 狩人の左手に握られた、冗談みたいな大砲。そこから撃ち出された砲弾が草原の一角を吹き飛ばして、強烈な閃光が舞い上がる草と土を一瞬だけ照らし出す。

 

 その光の中で。

 吹き飛ばされた、蜘蛛のような影と。

 そして、それに飛びつく、小さな人影をハルは見た。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 バスケットボールをキャッチするみたいに、ユイは逃げ去ろうとする影を捕まえた。そのまま、両手で地面に叩きつける。手加減なんて、しない。

 

“イタイ! イタイ!”

“ハナシテ! ハナシテ!”

 

 蜘蛛神は、子グモと同じぐらいに小さくなっていた。縮んだのか、子グモに乗り移ったのかは分からない。

 だけど、どうでもいい。どちらにせよ、ユイのやることは変わらないのだから。

 

「……よかった」

 

 ボソリと優しげな口調で呟く。でもそう呟くユイの目は、闇夜にギラギラと輝いていた。その手に握った、真っ赤な鋏と同じように。

 

「やっぱり、アンタだけは、わたしが……っ!」

 

 その気色悪い顔を鋏で挟む。両手で力をこめると、蜘蛛神もその足で刃をつかんで抵抗する。

 

“ヤメテ! ヤメテ! ヤメテ!”

“ユルシテ! ユルシテ!”

“カワイソウ! カワイソウ!”

 

 甘い、悲痛な声で訴えてくる。思わず同情したくなるような、そんな声で。

 そんな声なのに、余った足はユイの手を爪で引っ掻いてくる。言っている事とやっている事がまるで滅茶苦茶だった。

 

「うるさい……」

 

 きっと、こいつにとってはユイたちの言葉も、心も、命も、何の価値も無いんだ。石ころと同じで、気まぐれに蹴飛ばして、水に投げてしまう。そんな物でしかないんだ。

 だったら。

 わたしだって、そうしてやる!

 

「うるさい……!」

 

 アンタは何をした。

 ずっと前からハルのことをつけ狙って、ハルをさらって、ハルにあんなひどいことをして。

 ハルだけじゃない、おじさんにだって、わたしにだって、あんなにたくさんの人たちにだって!

 

“カワイソウ! カワイソウ!”

 

「うるさい! 思ってもないくせに! もう喋らないでよ!」

 

 叫んで、体重をかけて、全力をこめて、鋏の柄を握る。

 蜘蛛神の爪が手に食いこんで血が流れても、力だけは絶対に緩めない。

 

「アンタなんか……、アンタなんか……!」

 

“ヤメテ! ヤメテ! ユルシテ!”

 

 

 

 

「わたしが、狩ってやる!」

 

 

 

 

 ジョキン

 

 

 

 

 金属音がして、真っ二つになった蜘蛛神から、噴水みたいに血が噴き出す。それを、ユイは頭から浴びた。

 

カワイソウ…… カワイソウ…… カワィ……

 

 声だけは悲痛な断末魔が、すこしずつ小さくなっていく。

 その声も止んで、全身の赤い目玉から光が消える。

 くたりと脱力した爪がユイの手から抜け落ちて、草の上に投げ出される。

 そして、遂に蜘蛛神は赤い霧になって、跡形もなく消えていった。

 口にまで入ってきた蜘蛛神の血を吐き捨てながらユイは、

 

「自分でいわないでよ」

 

 呆れたように呟いて、血まみれのままユイは大の字になって寝転ぶ。

 星が、きれいだった。このまま、眠ってしまいそう。

 

「……やったよ……ハル」

 

 すぐそばで草を踏む音がした。

 首を動かすこともできない。気を抜けば閉じてしまいそうな瞼をなんとかこじ開けて、その足を見る。乾いた泥のついた靴。血で汚れた靴下(ソックス)

 意識を手放そうとする頭の上から、自分の名を優しく呼ぶ声を聞いた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 文字通り、頭から冷や水を浴びせられてユイは飛び起きた。

 

「ひやぁぁっ!?」

 

 起き上がった先から、次の水壺を手にしたハルに中身を浴びせられる。顔面を水で叩かれて、ユイはまた草の上に倒れた。

 

「は、ハル! ちょっとまぶえぇ!」

 

 まるでバケツリレーでもするみたいに、使者は次々とハルに壺を手渡している。

 血まみれになってしまったユイの為にやっているのは分かるけど、その割にハルの顔はずいぶんと楽しそうだった。

 これはきっとあれだ。

 ハルはまだ怒っていて、その仕返しなんだ。

 

「……もう、このっ!」

 

 でもいくらなんでも限度がある。髪の毛もリボンも服も下着も靴下も靴も、もう水浸しだ。

 ハルの手から壺を奪い取って、その顔に水をかける。ユイの反撃に驚いたのか、尻もちをついたその頭から二個めの壺を浴びせてやった。

 

「つめたいっ!」

「おかえしだよっ!」

 

 怒ったような、でも楽しそうな顔のハルがまた壺を手にして、不敵に笑ったユイも次の壺を持つ。

 ばしゃり、ばしゃりと、お互いに水をかけあう。

 チャコは水が気持ちいいのか、二人の足元で水を浴びてはブルブルと体を震わせている。

 クロは濡れるのが嫌なのか、すこし離れた場所で欠伸をしている。

 使者たちは、二人の為に黙々と水壺を手渡して、空の壺を回収していく。

 離れた場所で、狩人がひとり寂しく焚火の準備を始める。

 満天の星空の下、水音と、少女たちの楽しげな声だけが響く。

 

 

 

 

 片手の男の残像だけは、微動だにせずそれを見つめていた。

 

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