お化け狩りの夜が廻る   作:甲乙

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たすけて  -Dear my friend-

 

 長い夜が明けようとしていた。

 

 貴方は、いつになく晴れやかな気分で山を下りていく。

 足取りは軽く、背負ったハルの重みもまるで感じない。気を抜けばスキップしだしてもおかしくないような気分であった。鼻歌をらんらんと口遊(くちずさ)みながら、水を差してくるお化けを石ころで撃ちぬいて歩みを進める。

 極めて順調。何の障害もなく、山道の出口へと辿りつこうとしていた。

 

 山道を下りる少女たちを見るのは、これで三度目だった。

 廻送者が、貴方に見せた次元。

 一度目は、ユイとハルだけだった。クロは、小さな死骸となっていた。

 二度目は、ハルだけだった。ユイは、虚ろな亡霊となっていた。

 だが、今は。

 ユイとハル。クロとチャコ。満身創痍であれど、四者が揃って帰路につこうとしていた。

 これが、勝利。誰を犠牲とすることもなく、誰を欠くこともなく、皆が揃った結末。

 貴方が、はじめて得た明確な勝利。

 

 ああ、悪くない。

 

 死と敗北と犠牲を積み重ねた末の、血塗れの勝利。そこに達成感などなく、あったのはどこまでも虚ろな安堵だけ。今となっては、そんな物にはもう何の価値も見いだせなかった。

 はじめての勝利の味を噛みしめながら、貴方は歩く。

 

 だから、後ろを歩くユイが何故あんなに暗い顔をしているのか、貴方は理解できなかった。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 狩人の大きな背中に揺られながら、ハルはそっと後ろを見る。

 狩人の後ろをクロが歩いて、チャコは落ち着きなく歩き回っている。最後に、ユイが踵を引きずるみたいに歩いていた。ハルと目が合うと、サッと表情を明るくする。

 

「なに?」

「……ううん、別に」

 

 もう何度目かのやり取りだった。視線を前に戻して、ハルは小さく溜息をつく。

 

 あの後、濡れた服を焚火で簡単に乾かしてからすぐ、みんなで山を下りた。

 狩人は、ハルの左足に添え木と包帯を巻き直した上に背負ってくれている。はじめはなんだか怖くて変な人だと思ったけど、そこまで怖い人じゃないみたいだった。現に、今はなんだかすごく機嫌も良さそう。

 ハルも、やっと緊張から解放されてほっとしていた。

 昨日の夕方からずっと、ほとんど休むこともなく走り回って、戦っていた。痛い目にも怖い目にもいっぱい遭った。あの大きなお化けも、やっとの思いでやっつけられた。

 もうくたくただった。左足は痛いし、左手の傷だって治っていない。お腹もすいた。お風呂に入ってベッドで眠りたい。

 だから、家に帰られるのは嬉しいことのはずなのに。でも、ユイだけが暗い顔をしていた。

 

「…………」

 

 その理由を、ハルはもう気付き始めていた。

 切っ掛けは、あの時に見てしまったユイの額の傷。あれは、階段から落ちた傷というより、誰かに殴られたような(あと)に見えた。

 そう思ってしまえば、あとはドミノ倒しみたいに気付きが繋がっていく。 

 ユイが、よく転んで怪我をするようになったのは、いつ頃からだったか。

 ユイが、あまり家に帰りたがらなくなったのは、いつ頃からだったか。

 ユイの両親の仕事が忙しくなったのは、いつ頃からだったか。

 ユイの家に呼ばれなくなったのは、いつ頃からだったか。

 ぜんぶ、同じ頃からじゃなかったか。

 去年、いやもっと前から、ずっと。

 家に帰る時、ユイは今みたいに暗い顔をしてはいなかったか。

 また、そっと後ろを見る。

 暗い顔で足元を見ながら歩くユイは、ハルの視線に気づかない。その後ろに、まだあの人はいた。

 左手がない、眼鏡をかけた男の人。

 白黒写真みたいなその人は、体はピクリとも動かさないまま、ずっとついてきている。

 つかず離れず、そんな距離で、ユイにぴったりと。

 

「…………」

 

 ハルは視線を戻した。

 ユイが、自慢の父親の話をしなくなったのは、いつ頃からだったか。

 

 

 

 

 

 

 

 

「じゃあ、またね。ハル」

 

 朝霧が濃い町中を歩いて、やっとハルの家の前に辿りついてすぐ、ユイは足早に立ち去ろうとした。

 

「ユイ……」

「うん?」

 

 貼りつけたような笑顔で、ユイが振り返る。

 何かを言わないといけないのに、何を言えばいいのか、結局ハルには分からなかった。口をモゴモゴさせるハルに、ユイはいつも通り(たしな)めるような声をかけてくる。

 

「ほら、今日はもう帰ろう」

「ちゃんとお父さんとお母さんに電話して、病院に行かないとダメだよ」

「花火は……、また、今度にすればいいじゃない」

 

 帰る。お父さん。お母さん。花火。

 そんな、なんでもない言葉を口にするたび、ユイのお面みたいな笑顔が崩れそうになっていた。ハルが口を開こうとすると、ユイは早口で狩人に水を向ける。

 

「そうだ。おじさん、まだ時間はある?」

「ハルのお家、今日はまだ誰もいないんだ」

「一人じゃハルも心細いだろうし、しばらく一緒にいてあげて?」

 

 狩人は、じっと青白い目でユイを見下ろしていた。探るようなその視線から目をそらして、ユイは一歩後ずさる。

 

「……じゃあね!」

「ユイ!」

 

 手をつかもうとしたハルの手が空を切って、転びそうになった体を狩人が支えてくれた。

 ユイは一瞬だけ立ち止まってから、逃げるように走り去ってしまう。クロとチャコが、躊躇いがちにそれに続いた。

 

「ユイ……」

 

 人気のない静かな町の中を、ユイと子犬たちの足音が遠ざかっていく。

 夜明け前の一際暗い空の下で、ハルと狩人は顔を見合わせた。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 はあ、とユイの溜息が朝霧に溶けていく。ズリズリと引きずられる踵は、疲れのせいだけじゃない。いつものことだった。

 そう、家に帰る時は、帰らないといけない時は、いつもこうだった。

 

「……」

 

 町には、まるで人気がない。夜明けが近いからなのか、お化けすらいなかった。耳鳴りがしそうな静けさの中、ユイが足を引きずる音だけが陰鬱に響く。

 ハルはさっき家に送った。狩人と使者はもういない。クロとチャコは空き地においてきた。一人で、暗い道を歩く。

 帰りたくはない。でも早く帰らないと、それはそれでまた痛い思いをすることになる。額の包帯を撫でながら、疲れと憂鬱で止まりそうな足をなんとか速めた。

 どうか、あの人が帰ってきていませんように。

 そんな暗い願い事をしている自分が、心底イヤになった。

 

 

 

 

 願いも虚しく、ユイの家の前には人影があった。

 ウロウロと落ち着きなく玄関の前を行ったり来たりしているその人を見て、ユイは足を止める。

 胸がギュッと苦しくなって、お腹がキリキリする。手足が冷えて、呼吸も浅くなった。ズキズキと、額の傷が痛みだす。

 

 

「……お母さん」

 

 

 その人を、ユイはそう呼んだ。

 消えそうな声が聞こえたのか、朝霧の中に佇むユイを見たのか、その人――母が、振り返る。

 久しぶりに見た母は、ひどくやつれていた。

 こけた頬。疲れ切った顔。ぼさぼさの髪。よれよれのブラウス。皺だらけのスカート。

 まるで、お化けみたいだった。

 

「…………ユイ?」

 

 母の虚ろな目が自分に焦点を結んだ時、ユイの心に湧いたのは安堵ではなく、ただ恐怖だけ。

 母の青白い顔が一瞬だけ柔らかくなって、すぐに真っ赤な険しい(かお)に変わる。

 

「ユイ……っ!」

 

 つかつかと歩み寄ってくる母の姿に、ユイはひゅっと息を飲んだ。思わず逃げ出したくなる足を必死に押さえこむ。

 

「今まで、どこに行っていたの!」

 

 明け方まで家に帰らなかった娘に対する言葉としては、不自然ではなかった。

 ただ、あまりにも慣れた様子で振り上げられた、その手を除いては。

 

 ――ああ、まただ。

 

 ユイはただ、涸れた眼差しで母を見上げていた。こうなってしまえば、この人にはもう何を言っても無駄なんだと、知ってしまっていたから。

 だからいつも通り、ただ歯を食いしばって、目と心を閉じた。

 

 パン、と。頬を張る音が響く。

 

 

 

 

「…………?」

 

 

 

 

 聞きなれた音だけで、慣れない痛みは一向にやってこない。

 そろりと片目を開けると、そこには。

 

「……ハル?」

 

 道路に倒れる、ハルと。

 

「……か、ぁ……っ!」

 

 狩人に腕を捻りあげられる、母の姿。

 

「な……」

 

 状況に、頭がおいつかない。

 頭が真っ白になっているユイの足元で、のろのろとハルが体を起こす。その色白な頬には赤い手形がくっきりと残っていて。自分の代わりに叩かれたんだと、すぐに分かった。ユイの顔から、血の気が引く。

 

「ご、ごめんハル! 大丈夫!? ねえ!」

 

 ハルの体を起こして、鼻血を拭こうとポケットを探って、ハンカチはもうハルの傷に使ってしまったんだと思い出して、母のうめき声に慌てて狩人を止める。

 

「やめて! お母さんをはなして!」

 

 狩人の青白い目は剣呑な光を放っていて、ユイの懇願にも納得はしていなさそうだった。それでもその目を見返していると、小さく息をついた狩人が母を開放する。

 その直後、狩人の手が母の首を掴む。そのまま何かをしたのか、気絶した母が道路に倒れこんだ。

 

「やめてってば!」

「ユイ」

 

 母の前に立って狩人を睨みつけるユイの耳に、ハルの声が届く。

 振り向くと、顔を腫らしたハルが、まっすぐユイを見つめていた。その傷と瞳から目を逸らして、ユイは俯く。

 

「わたしが頼んだの。いっしょにユイの様子を見に行こうって」

「……なんで、わたし、なにも」

「ユイ」

 

 ハルの手が、ユイの頬を挟む。涙が滲みだしたハルの目は、どこまでもまっすぐにユイの瞳の芯を捉えていた。

 

 

「――本当に、ごめんなさい」

 

 

 突然の謝罪に、ユイは目を丸くした。

 ハルは、顔を腫らしながら、鼻血を垂らしながら、涙を流しながら、ユイに謝り続ける。

 

「気付いてあげられなくて、ごめんなさい」

「いつも頼ってばっかりで、ごめんなさい」

「こんな、ダメな友だちで、ごめんなさい」

 

 懺悔するみたいに、ハルは頭を垂れた。ポタポタと、ユイの足元に、ハルの血と涙が落ちていく。

 

「ユイにだって、助けてほしい時があったんだよね」

「でも、わたしが弱虫だから、ユイに助けてもらってばかりだから」

「誰にも、助けてって、言えなかったんだよね」

 

 違う。

 それは違う。

 ユイはずっとハルを頼りにしてきた。ハルがいるから、ハルがただいてくれるだけで、ユイは頑張れていた。

 ……でも、本当にそれだけで良いと思っていたんだろうか。

 

「わたしは、卑怯だよね」

「あんな、ぬいぐるみなんかで、ユイを助けた気になってた」

「わたし、ほんとに……最低だ」

 

 違う。

 違う!

 ハルがくれたあの人形はユイの宝物! ずっと、毎日、あの人形がユイを助けてくれていた!

 ……でも、本当にそれだけで良いと思っていたんだろうか。

 

「そうだよ。わたしじゃなきゃ。わたしじゃないと、ダメだったのに」

 

 ……本当は、ずっと。

 

 

 

 

「でも、今なら言えるよ」

 

 

 

 

 ハルが、顔を上げて。折れたその足で、立ち上がる。涙に濡れた目で、ユイの瞳を捉え続ける。

 

「わたしだって、ユイを助けたい!」

 

 ハルは、怖がりで、寂しがりで、放っておけない妹みたいな子。

 

「助けるよ! ぜったい! 約束する!」

 

 でも、きっと、本当は。その心は、自分なんかよりずっと強い。

 

「だから、ユイ!」

 

 この夜で強くなった。いや、ずっと前から強かった。

 

「言ってよ! ユイ!」

 

 ……本当は、ずっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………たす、けて」

 

 

 

 

 たすけて、ほしかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 

 

 

 

 ユイは語りだした。

 

 今から2年前、父親がいなくなった。

 予兆はあった。まるで、ナニカに話しかけられているみたいに、独り言ばかり言っていた。

「私ひとりで行く」ある晩にそう言って、いなくなってしまった。

 

 それから、母親がおかしくなった。

 滅多に家に帰らなくなった。掃除も料理も一切やらなくなった。

「お父さんは他の女のひとの所に行った」そう言って、他の男のひとを連れてくるようになった。

 ユイのことも放っておくようになった。

 それなのに、ユイが家に帰らないとすごく怒った。何度も叩かれた。

 

 ユイの家はもう、ゴミで溢れかえっている。

 電気も、ガスも、水道も、もうずっと止まっている。

 ユイのごはんは、母親がくれる千円札。

 ユイのお風呂は、公園の水道。

 帰りたくなんてない。

 でも帰らないと、また叩かれる。

 

 ぜんぶ、嘘。

 お父さんとお母さんの仕事が忙しいなんて、嘘。

 クロとチャコを飼うのに反対されたなんて、嘘。

 転んで、階段から落ちて怪我をしたなんて、嘘。

 ぜんぶ、ぜんぶ、嘘。

 ずっと、嘘をついていた。

 ぜんぶ、ずっと、ハルに隠していた。

 

 ハルに、心配させたくなかったから。

 ハルに、迷惑かけたくなかったから。

 ハルに……嫌われたくなかったから。

 

 ずっと、ハルを頼りにしていた。

 ハルと遊んでいる時だけ、つらいことも忘れられた。

 ハルがいたから、ユイは心折れずに頑張れていた。

 

 でも、もうハルは引っ越してしまう。

 でも、それは一時のお別れ。また会える。手紙だって書く。

 そのために、あのお化けをやっつけた。

 

 でも。

 

 それでも。

 

 やっぱり。

 

 

 

 

「つらいよ」

 

 ハルにしがみつきながら、絞り出すみたいにユイは言った。

 

「やだよ、もう痛いのは、やだ」

「なんで、わたしばっかり、こんな目にあうの」

「わたしが何をしたの、なんにもしてないのに」

「お父さんは、いつ帰ってくるの」

「お母さんは、いつ元に戻るの」

「ハルまで、なんで遠くにいっちゃうの」

「ひどいよ。あんまりだよ」

 

「たすけてよ、ハル……」

 

 

 

 くしゃくしゃの顔で、ユイは泣いた。

 泣いて、しがみついて、ハルに助けを求めていた。

 はじめて、ユイが泣いているのを見た。

 はじめて、ユイの泣き言を聞いた。

 はじめて、ユイに助けを求められた。

 その重さに、ハルは絶望すら覚える。

 こんなに重いなんて。

 人から助けを求められるのは、こんなにも重い。

 それも知らずに、自分はユイに助けてもらってばかりいた。

 こんなに重いのに、いつもユイは助けてくれていた。

 助けないといけない。他の誰でもない、ハルが。ハル自身がそう約束した。

 どうする。

 どうすればいい。

 目を閉じて考えて、考えて、何も浮かばない。

 目を見開いて、ハルは辺りを見回す。何でもいい。何か、何かヒント、手がかり、閃き、何でもいいから、何か!

 

 自分にしがみつくユイ。

 道路に倒れたユイの母親。

 腕を組んで佇む狩人。

 白黒の、眼鏡の男性。

 

 

「……ユイ、ひとつ教えて」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハル達は、山に戻った。

 気絶したユイの母親を、狩人が担いで歩く。

 その前を、不安げなユイが歩く。

 いちばん前を、杖をついたハルが足を引きずって歩いていた。

 

「ハル、無理しないで」

 

 ユイが背負うと何度も言われた。

 でも、これは自分の足で歩かないといけない。ハルはそう思っていた。だから、狩人が貸してくれた金属製の杖にしがみつくようにして、山道を歩き続ける。

 その前を、あの男性のお化けは先導するみたいに進んでいった。写真みたいに動かず、こちらを向いたまま、後ろ向きに、山の奥へ奥へと。

 

 あの人が、ユイの父親なのはもう間違いない。

 

 ユイから聞いた外見の特徴はすべて当てはまっていた。ナニカの声を聞いていたというのも、きっとあのお化けのせいに決まっている。

 つまり、ユイの父親はもう亡くなっている。

 だからこの先にあるのは、ユイ達にとって残酷な真実なのかもしれない。知らない方がいい事なのかもしれない。

 でももう、ハルにできることはこれしか無かった。

 

 ――おねがいします。

 ――どうか、どうか。

 

 いったい何に、何をお願いしているのか自分でも分からない。

 なんでもいいから、信じたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 真っ白な木だった。

 暗がりの中でもよく目立つ、まるで光っているような白い木。

 その木の下に、ユイの父親の残像は吸いこまれるみたいに消えていった。

 その木の下の、白骨死体に。

 

「……ハル」

 

 それを懐中電灯で照らしていたユイが、青ざめた顔で振り返る。困惑したような、絶望したような、縋るような、そんな顔で。

 その顔から、ハルは目を逸らさない。逸らしては、いけない。

 

「ユイ、きっと、この遺体は――」

 

 

 

 

 ハルは、すべてを話した。

 ユイは、もう泣かなかった。

 ただ、「そっか」と消えそうな声を漏らしただけで。虚ろな笑みを浮かべながら、その頭蓋骨を撫でる。

 

「こんな、ちかくにいたんだね」

 

 平坦な声で父親に語りかけるユイの背中を、ハルはただ見ていた。

 ユイは、まるでネクタイを直してあげるみたいに、父親の首からロープの残骸を解く。きっと、あのお化けのせいで首を吊らされた跡を。

 やがて、父親の頭を元の位置に戻したユイが振り返る。

 

「ありがとう、ハル」

「なんだか、すっきりしたよ」

 

 ユイの目にはもう、涙は無かった。

 涙も、悲しさも、ぜんぶ涸れ果てたみたいだった。どこまでも暗い、夜みたいに真っ暗な、諦めだけがあった。

 その目を見返しながら、ハルは杖を握りしめる。

 こんなものなのか。

 こんなことしか、自分はできないのか。

 あんな偉そうなことを言っておいて、こんなことしか。

 ギリギリと握りしめる杖に、血が垂れていく。力を入れすぎたせいか、それともコトワリさまの叱責なのか、傷が痛んだ。

 左手を、見下ろす。

 

 ――左手……?

 

 気付きに、ハルは顔をあげる。

 あの人には、左手が無かった。

 何故?

 そんな目立つ特徴、聞けばユイはまっさきに挙げたはず。だから、左手を失くしたのは失踪した後、ここで首を吊る直前のこと。

 何故?

 あのお化けのせい? それもない。首を吊らせるなら、両手があった方が都合がいいはず。

 なら何故?

 何故?

 

 今度こそ、傷がたしかに熱を持った。ハルは、左手の傷を視下ろす。

 

 ――あなたが、切ったの?

 

 (そうだ)、と。コトワリさまが応えた。

 

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