お化け狩りの夜が廻る 作:甲乙
『――
その
見える景色が、コマ落としみたいに変わっていく。
ゴミだらけの神社から暗い山道に。山道から見慣れた夜の町に。町から、資材置き場に。
まわりは暗いのに、視界は赤く染まっている。何か良くない血をかぶりすぎたみたいに、穢れていた。
赤くて暗い視界のまんなかに、あの人がいる。
ユイのお父さん。
気弱そうな、やさしそうな顔を、ひどくやつれさせて。
その顔を、恐怖と、諦観と、安堵に緩ませて。
その左手を、こちらに差し出して。
そして、
「っ!?」
意識が戻ってきた。
ひどい立ち眩みみたいに視界が揺れて、倒れそうになったところをユイに支えられる。
――今のは……。
ユイが何か言っているけど、それも耳に入ってこない。ただ、今見た光景だけがぐるぐると頭の中をまわっていた。
あの人は、コトワリさまに左手を切られた。いや、
それが何の為なのかは分からない。でも、何か意味はあったはず。
確かなのは、あの人は最後まで正気を失くしてはいなかったということ。
なら、何か。
ユイの手も振りほどいて、ハルは遺体の近くを探りはじめた。
木の周りをぐるぐると歩いて、茂みに頭をつっこむ。大きな石を片っ端からひっくり返して、目的の物を探す。
そんなハルの様子を見かねたのか、ユイはただ懐中電灯で手元を照らしてくれていた。
そして、落ち葉をかき出した下、ほとんど土に埋もれるようにしていた「それ」を見つけた。
「あった……!」
それは何の変哲もない、ただのノート。
地面から掘り出すと、たくさんの虫がハルの手を這っていく。でももう、そんなことも気にならない。
ページを開こうとして、止めた。開かないまま、すぐ傍にいたユイに向き直る。
「……ユイ」
「……うん」
ノートと懐中電灯を交換する。
これが父親の遺書だということは、きっとユイにも分かっていた。
※
父らしい、整った字だった。
整ったその字で、父の最期が綴られていた。
大学で神社や神さまの研究をしていた父は、ある神――あの蜘蛛神の禁忌に触れてしまった。
蜘蛛神は頭に響く声と巧みな話術を以て、父の命を狙い始めた。
父だけではない。
妻と娘。つまり母とユイの命も共に差し出せと、父に強要した。
父はそれを拒み、しかし頭に響く声は日に日に強くなっていく。
このままでは、愛する家族も巻き込んでしまう。
だから父は、禁断の方法を使ったのだ。
この土地に祀られていた、縁切りの神――コトワリさまの力を使って、自らと家族との縁を切った。
その代償に、左手も失って。
そして、本当にただ一人となった父は、ここで首を吊った。
たった、ひとりで。
バサリ、とノートが足元に落ちる。震える手で、ユイは顔を覆った。
「……お、とう、さん」
崩れそうな体を、今度はハルが支えてくれた。
足に力が入らない。体中の血がぜんぶ、胸の中に集まっていくみたいに。
「おとうさん……っ!」
熱かった。
ドクドクと、胸の中に血が集まっていく。冷え切って、凝り固まったそこに、また血が通いだす。
火傷しそうなほど、熱い。
「お父さん――!」
父の名を呼びながら、ユイが縋ったのは母だった。気絶したままの母にしがみついて、揺り起こす。
母が、濃い隈のある両目を開いた。
「ユ……」
「お母さん! お父さんだよ! お父さんがいたよ!」
ユイの顔はもう、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。そんなことにも構わず、吐息もかかりそうな近さで母に捲したてる。
尋常でない娘の様子に呆然とする母に、荒れ狂う感情のままにユイは叫び続ける。
お父さんは、裏切ってなんかいない。
わたしたちを捨てたりなんてしてなかった。
ぜんぶ、わたしたちのためだった。
お母さんとわたしを守るために、お父さんは死んじゃった。
ずっと、ここにいた。
ずっと、わたしたちを守ってくれていた。
混乱の極みにあるような様子の母も、少しずつ状況を理解していった。
夫の名前が書かれた遺書を読んで、夫の服を着た白骨死体を見て、泣き続ける娘の姿を見て、母も、泣き崩れた。
ごめんなさい。譫言みたいに、ずっと、そう繰り返していた。
ユイは、ただ泣いた。
2年分の涙を流し尽くすまで、ただ、泣き続けた。
「……ユイ」
どれぐらい泣いたのか。
木々の間から、白み始めた空が見える。その中でユイを呼んだのはハルではなく、母だった。
「その……」
父の亡骸の傍に座り込んだまま、母が手を伸ばしてくる。
その手に、ユイの体は反射的に身構えた。
それを見た母の顔が、悲痛そうに歪む。
「ユイ、今まで、本当にごめんなさい」
「謝って済むことじゃないのは、分かっているけど」
「でも、こんなお母さんでも、許しては、くれないかしら……」
「…………」
母に謝られるのは、いつものことだった。
ユイのことは放っておいていた母は、でもユイに依存してもいた。
叩かれた後は、いつも謝られた。謝られて、抱きしめられた。
そして、次の日にはまた叩かれるのだ。
でも、今度こそ。
今度こそ、大丈夫だろうか。
そう、考えて。ユイも手を伸ばした。
震える手が、母に触れる瞬間。
母の姿が、消えた。
「――え」
突然消えた母に呆然とする中、今度は頬を張るような、いやもっと大きな音が聞こえた。
同時に、母のうめき声も。
「あ――ぇ?」
何の言葉も出てこない。目の前の光景を、頭が理解できない。
ハルが、誰かの足にしがみついている。しがみついて、何か叫んでいる。
誰かが、誰かの髪の毛をつかんで、その顔を殴り飛ばしている。何度も、何度も。
狩人が、母を殴り続けている。
「――」
土の上に倒れた母のお腹に、狩人の
ほとんど意識も飛んでいたような母が、体をくの字にして悶える。
「……、めて」
血のまじった吐瀉物を口から垂らした母の顔に、狩人は容赦なく膝を打ち込む。
崩れ落ちそうな体を髪の毛をつかんで引きずって、頭をボールみたいに蹴飛ばした。
「やめて……」
手加減はしているんだろう。
そうじゃなければ、母の体はとっくにバラバラになっている。
だからって、あんなの。
「やめて、やめてよ!」
やっと動き出した体で、ハルと同じように狩人の腰にしがみつく。
でも、狩人は止まらない。
ハルとユイの力なんて、狩人には何の枷にもなっていない。ぐったりとした母を、更に殴ろうと引き起こす。
「やめてってば! お母さんが、お母さんが……!」
死んじゃう。
そう考えて、頭が真っ白になって、目の前が真っ赤になって。
赤い刃が、狩人の頭を打ち据えた。
ぜんぶの音がやんだ。
狩人を止めるハルの叫び声も、母のうめき声も、狩人が殴る音も。
ただ、ユイの荒い息遣いだけが流れた。
じぐじぐと、赤い鋏を通して、人の体を打った感触が手に響く。赤い刃の先端に、同じぐらい赤い血がこびりついていた。
衝撃で下を向いた狩人の頭から、特徴的な帽子が脱げ落ちる。
「お母さんを、はなして」
狩人の額には、ユイと同じような裂傷が刻まれていた。ユイが、ユイの意思でつけた傷。流れる血の赤さに、ユイの心が締め付けられる。
「おじさんでも、ゆるさないから……っ!」
震える足で、震える手で、震える声で、ユイは狩人に鋏を向ける。
もう頭がぐちゃぐちゃだった。
勝ち目なんてない。なんで狩人があんなことをするのか分からない。恩人なのに傷つけてしまった。お母さんが死んじゃう。
もうぐちゃぐちゃで、なんにも分からなくて、でも、だから、ユイは狩人に戦いを挑んだ。
そうしないと、いけないと思ったから。
それが、ユイの意思だったから。
――――【月の香りの狩人】
下を向いたままだった狩人が、ゆっくりと顔を上げる。
額から流れる血が両目に入っても、その青白い目は閉じないままで。
その眼光が、ユイを射貫く。
「――――ぁ」
それだけで、もうユイは動けなかった。
手足が死んでしまったみたいに冷たい。動くことも、逃げることもできない。
狩人が左手を上げる。その手に握られた短銃が、ぴたりとユイの額を捉えた。
死ぬ。
死
銃声が響いて、木々から鳥たちが一斉に飛び立つ音を聞いた。
真っ暗で、何も見えない。
あたたかい物が、ユイの頭を包み込んでいる。
嗅ぎなれた匂いがした。
この一晩で慣れてしまった、血の匂い。
そして、自分を抱きしめる母の匂いが。
ぐらり、と。母の体が倒れた。
母が地に伏せる音で、ユイは我に返った。
「……お母さん……? お母さん!?」
死体みたいに動かない母を必死に抱き起す。自分を庇った母の背中をまさぐって、撃たれた傷跡を探す。
でも、どこにもそんな痕は無かった。
混乱するユイの腕の中で、母がうめき声をあげて、口を開く。
「……い、たい」
母の顔は、腫れと痣で別人みたいになっていた。口から、折れた歯が転がり落ちる。
そんな有様なのに、ユイには何故か母が笑っているように見えた。
「こんなに、痛かったのね」
母の目から流れる涙が、腫れあがった頬を伝っていく。自然と、ユイの指はそれを拭っていた。
「ごめん、……ごめんなさい、ユイ」
「こんなに、痛い思いをさせていたのね」
「ずっと、ずっと……」
母の体が崩れ落ちて、座り込んだユイの足元に頭を埋める。
「ごめんなさい、ユイ……」
母は、もう「許して」とは言わなかった。
ユイは許したかった。
ずっと、許してあげたかった。
許したかったけど、許し方を知らなかった。
今だって、分からない。
でも。
でも。
「――――」
何も考えないまま、ユイは母を抱きしめていた。
2年前、家族が壊れてしまってから初めて、ユイは自分から母に手を伸ばした。
ユイに難しいことは分からない。まだ10年しか生きていないのだから。
きっと、大人でも分からないのに。
ただ、母の命の危機に娘が身を挺して。
ただ、娘の命の危機に母が身を挺した。
それは、
答えなんて、誰にも分からないまま、母娘は抱きしめ合った。
夜が明ける。
朝日が、木漏れ日となって差す中で、真っ白な木の下で。
死体となった父と、傷だらけの母娘は、再会を果たした。
※
ハルは、その光景をただ見ていた。
これで、良かったんだろうか。
自分は、すこしでも、ユイを助けられたんだろうか。
――そんなの……。
そんなの、ハルに分かるわけもない。
ユイがあれで幸せになれるのかは、ユイにしか分からない。
ハルは、ただ全力を尽くした。尽くすことしかできなかった。
これが、誰かを助けるということなんだろうか?
左手の傷がチクリと疼く。それが肯定なのか否定なのかは、ハルにも分からない。
――何度も、ありがとうございます。
苦笑しながら、ハルは左手を握ってコトワリさまに感謝を捧げる。
自分だけではダメだった。
ハルと、ユイと、ユイの両親と、コトワリさまと、そして……。
狩人は、空に向けていた短銃を下ろした。
まるで、ユイ達のいる日だまりを避けるみたいに、木陰で佇んでいる。
そして、ハルが声をかける前に踵を返した。
「あ、まって!」
いつの間にか杖は無くなっていて、片足で跳びながら狩人を追う。声が聞こえていないはずもないのに、狩人は止まってくれない。どんどん、距離が広がっていく。
だから、ハルは大声で叫んだ。
「まってください!」
「ちゃんと、ちゃんとユイに言ってください!」
「このままじゃ、こんなの!」
ちょっと怖くて変な人だけど、悪い人ではなかった。
あんなことをしたのも、きっとユイ達のためだった。ユイ達のために、悪者になってくれた。
ユイだって、絶対に分かってくれる。
だから、だから!
狩人は何も答えない。
何も答えず、振り返りもせず、ただ奇妙な形の銃を空に向けた。
「ま――」
引き金が引かれて、音じゃない何かが響いたのをハルは聞いた。
何かが切れたような、破れたような、言いようのない感覚をハルが感じた後、
木陰の中には、もう誰もいなかった。
◎
長い夜が、ついに明けた。
怪異に溢れた町を、滅びた街を、悪夢を、歩き廻り、駆け抜けた夜が。
多くのお化けが、怪異が、獣が、上位者が、人々が、戦い抜けた夜が。
その夜を、二人の少女は生き延びた。
多くを失うはずだった少女達は、ある怪異と狩人の介入により、その運命を変えた。
新たな運命が、その縁が、より良いものであったのかは、まだ誰にも分からない。
運命も縁も、まだ始まったばかりなのだから。
夜は明け、太陽は寸分の狂いもなく動き続ける。
何事もなかったかのように、昼の世界が動き出す。
だがその中に、ヤーナムの狩人の姿だけは、どこにも無かった。
まるで、すべてが夢だったかのように。