お化け狩りの夜が廻る 作:甲乙
この地も呪われているのだろう。
水の底に沈んでいた廃村に足を踏み入れた貴方は、そう思った。
大量の水とは何かを断絶する物であり、それはつまり蓋だ。だが蓋をするということは、そこに触れるべきでない物があるということでもある。
あの神秘の湖の底に、秘匿を守る蜘蛛がいたように。
あの悪夢の海の傍に、呪いに満ちた漁村があったように。
町にしてもそうだ。狩り主である少女――ユイの町は、どこかヤーナムに似ていた。
※ ※ ※
夜廻さんたちへの、よくわかる解説!
ヤーナムとは、ヴィクトリア朝っぽい雰囲気のおしゃれな街である!
すっごい田舎にあるけど、すぐれた医療の街でもあるぞ!
とりあえず怪しい血を輸血すればみんな完治だ! かわりに獣の病になるけどね!
毎晩のように、獣になったおじさん達が獣を狩っているぞ!
何を言っているのか分からないだろうけど、獣狩りとはそういうものだよ! じき慣れる!
夜廻に例えて言うなら、
①夜になるとお化けが出てくる。
②お化けになったおじさん達が、みんなで除霊しようとする。
③おじさん達は自分がお化けだと気付いていない。
④むしろ少女たちをお化けだと言って襲ってくる。
⑤地獄絵図。
※ ※ ※
深夜とはいえ、あまりにも人気が無さ過ぎた。どの家も門扉を固く閉ざし、まるで夜を恐れているよう。
きっと住民たちは知っているのだろう。夜になれば、怪異が町を埋め尽くすのだと。
そもそも、こんな年端もいかぬ少女が一人で町をさまよっている時点でおかしい。住民たちもヤーナム民のように排他的なのか、あるいは大人を頼れない事情があるのか……。
そして何よりも、上位者の気配が強い。
上位者。それは、神に似た何か。
あの空の果て、宇宙から来た、何者か。
上位者は存在するだけで、あらゆるモノに影響を与える。
時には上位者が人に干渉し、人を狂わせる。時には人が上位者を求め、やはり人を狂わせる。
時には上位者の力が土地を狂わせ、時には狂った人が土地を狂わせる。
この地の町はヤーナムほど狂ってはいなかったが、これからもそうだとは限らない。
故に、上位者は狩らねばならない。
月の魔物を狩り、人の身で上位者に至った貴方にしか出来ない、貴方だけの狩り。
すなわち、上位者狩り。
例外は無い。そう、あの赤い裁ち鋏を持った、異形の上位者もだ。
「おじさん、気を付けて。……アレは、今までのお化けとは、ちがう」
ああ少女よ、分かっているとも。
アレは亡霊などではない。そんな、人から生まれた物などではない。人ならざる、もっと恐ろしい何かだ。
だから、貴方は特別な武器を抜いた。
上位者狩りに相応しい、ふたつとない武器。最初の狩人が用いた、全ての仕掛け武器のマスターピース。
最初の仕掛け武器、その銘を「葬送の刃」という。
上位者を相手に出し惜しみなど愚策。刃を連結し、その真の姿である大鎌を構える。
そのまま、こちらに背を向けている上位者に先手を取ろうとした貴方にユイは、
ユイの無言の飛び蹴りが貴方の鳩尾に突き刺さった。
存外に打たれ弱い貴方は再び悶絶した。
召喚されて数時間、だんだんと扱いが雑になっている気がする。最初からナメクジを見る目で見られていた気がしないでもないが。
そんな貴方に、使者は気遣うどころかスローイングナイフで頭を突っついてくる。やめたまえよ、お気に入りの帽子に穴が開くだろうに。
どうやら、ユイは戦いを避けて進むことを望んでいるようだ。
未だ詳しい事情など聞いてはいないが、ユイは誰かを探している。この慈悲深い少女のことだ、きっと大切な誰かなのだろう。
貴方は改めて、ヤーナムの少女に思いを馳せた。狩人の力を得ても救えなかった、あの少女を。
『……あなた、だあれ?』
『知らない声。でも、なんだか懐かしい臭いもするの』
『もしかして、獣狩りの人かな?』
『だったら、お願い。お母さんを探してほしいの』
少女の父親はもういなかった。
神父であり狩人でもあった彼女の父は、獣となっていた。そして貴方に狩られたのだ。
少女の母親ももういない。
神父と同じ場所で骸となっていた。それを見て神父は狂ったのか、あるいは狂った神父に殺されたのか。
どんなに力を得ようと、結局は。
ユイには気付かれないまま全身から血を噴き出した貴方は、立ち上がって頭を振った。
ユイをあの少女に重ねていないと言えば嘘になるが、狩り主が誰であろうとやることは変わらない。
狩り主を守り、敵を狩る。
遺志の中から青い秘薬を2本取り出し、1本を呷る。たちまち姿を朧気にした貴方は、ユイにもそれを手渡した。
はじめは胡乱な目で貴方と秘薬を見ていたユイだったが、飲むことに決めたようだ。意を決したように秘薬を飲み込み、そして。
【青い秘薬】
医療教会の上位医療者が、怪しげな実験に用いる飲み薬
それは脳を麻痺させる、精神麻酔の類である
だが狩人は、遺志により意識を保ち、その副作用だけを利用する
すなわち、動きを止め、己が存在そのものを薄れさせるのだ
※訳※
あたまのおかしいひとたちがつくった、へんなくすり
のむと、あたまが ぐるぐるになっちゃう
でも かりうどさんは、きあいで なんとかするみたい
すがたが とうめいになる
ユイを担いで、廃村を歩く。
秘薬の効能で極端に気配を薄くした貴方たちは、お化けに気付かれることもない。元より小さく、黒い毛並みが闇に溶け込むクロも問題は無いようだ。
脳を麻痺させ、意識を薄くすることで気配を断つ。あまりに気配が希薄になることで、まるで姿が透けたように幻視するのだ。
狩人であればその遺志の力で意識だけを保つこともできるが、どうもユイにはまだ早かったらしい。さっきからガブガブとクロが貴方の足を咬んで抗議してくる。やめたまえよ、痛いから。
当のユイはといえば、貴方の肩の上で気を失っている。「えへへへ」「おめでとうはる」と緩んだ口から
やがて、長い階段へとたどり着いた。貴方には見たこともない様式だが、どこか聖堂街の大階段を彷彿とさせる。
一歩一歩、石段を登っていく。登るほどに、上位者の気配が強くなっていく。
登り切った貴方たちを出迎えたのは、木製の巨大な門のような物だった。たしか鳥居と言う、人と神の境界を隔てる結界だという話を聞いたことがある気がした。それがいつの記憶であったのかは曖昧だが。
ならばこの先は神の領域ということになるが、どうにもそうは思えない。
何故なら、貴方の目に飛び込んできたのは、無数のゴミであった。奥の朽ち果てた拝殿が見えなくなるほどの、ゴミ、ゴミ、ゴミの山。
――――穢れた廃神社
そんな地名が貴方の脳に浮かんだ時、肩の上のユイがモゾモゾ動き出した。秘薬の効果が切れたのだろう。
「ぉめでとぅ……おめでとう、ハリュ……」
「ぅうん、だめだって……」
「
……若干、あられもない譫言になってきた。これ以上アレなことを口走らない内に起こした方が良いだろう。貴方は少女には優しいのだ。
ジョキン
背後から、金属音が聞こえた。
貴方は振り返ることもなく、すばやくユイをゴミの山に隠す。クロがすぐさまそれに続いた。懐中電灯を腰に差し、曲剣を大鎌へと変形させながら振り返る。
そして、遂に貴方はソレと対峙した。
それこそが本体であると言わんばかりに巨大な赤い鋏。
鋏に群がる無数の腕は、すべてが死体のような色をしている。鎌首を
赤黒い霞で成された体は形が判然とせず、そこに巨大な口だけが確かに存在している。
――――【裁断者】
異形の上位者が、貴方にその赤い刃を向けた。
向けた時には、もう貴方は間合いを詰めていた。
先手必勝。
甲高い音を響かせながら、曲がった大刃が振り下ろされる。
それを上位者は、その鋏で、
貴方は青白い目を見開く。
異形の姿に似つかわしくない、極めて精緻な防御技術。その意外性に、貴方の体幹がわずかにぶれた。
“
短い叫びと共に、鋏が突き出される。隙を的確に突いた、まさに致命の一撃。長大な二つの刃が貴方の胴体を両断する刹那。
貴方の体が「加速」する。
後ろに退いても間に合わない。故に鋏をくぐり、前に避けた。上位者の背後を取った貴方はその背に一撃を加える……ことはなく、加速した勢いのまま距離を取る。ゴミ山に激突する直前で足を止めた貴方と、音もなく振り返った上位者。
時間にすれば、戦闘開始から5秒と経っていない。だというのに、貴方はたしかな消耗を覚えた。
ああ、少女よ。たしかに、アレは違うな。
今度は上位者が先に動いた。正面からではない。音もなく横方向に動き出し、貴方を中心に円を描くように旋回する。貴方は動かず、じっと気を尖らせた。
実体など無いのか、相手はゴミ山もすり抜けて移動している。音もなく、障害物も無効。奇襲にはうってつけ。
ギ、
金属が軋む前の、わずかな擦過音。四時方向にいた上位者に斬りかかる。
鋏は既に開かれている。閉じた瞬間を、否。閉じようとする瞬間を狙った一撃。隕鉄で鍛えられた刃は、その速度が上がるほどに切れ味を増す。加速した速さを十全に乗せられた刃は、甲高い音を響かせながら死体の如き腕、その2本を斬り飛ばした。
だが上位者の腕は、2本だけではない。すぐさま別の腕が鋏に群がり、その刃を支える。
だがもう遅い。鋏という異質な得物の特性上、その攻撃は刃を閉じることでしか――
危
脳に走った警告に、再び加速して大きく距離を取った。
その足元を、猛然と横に薙ぎ払われた刃が掠める。
下段で振るわれた鋏は、地面に綺麗な円状の
あの上位者は、貴方の武器が速さであることを既に見抜いていたのだ。故に、その足を断とうとした。
だからこその下段。だからこその横薙ぎ。
腕を断たれた故の咄嗟の判断か、あるいは最初から腕を犠牲にするつもりだったのか。
どちらにせよ。
くく、と。貴方は肩を揺らす。
嗚呼、少女よ。たしかに、アレは。
上位者が鋏を開き。
貴方は、大鎌をかき消した。
突然の武装解除に、上位者もその動きを止める。それに対し、貴方は「狩人の一礼」で応えた。
上位者などと一括りにして悪かった。二度と言うまい。
その技、その意思。貴公の強さには、確かな芯がある。
借り物の武器で狩ろうなど、
右手に、ノコギリ鉈を。
左手に、獣狩りの散弾銃を。
貴方が最初に手にした、貴方自身の仕掛け武器を手に、貴方は青白い目を輝かせた。
貴方の狩りを、知らしめるために。
※
鐘が、鳴っていた。
鉈を、ふりおろす。
下にあるものが、ふたつになった。
鉈を、ふりおろす。
赤いものが、顔についた。
鉈を、ふりおろす。
赤いものが、口にはいった。あまい。
鉈を、ふりおろす。
みっつになった。
鉈を、ふりおろす。
よっつ。つかれた。
遠くで、なにかが戦っている。
鐘が、また鳴った。
◎
月明りに照らされた、廃神社。
そこで、二つの影が乱舞していた。
ひとつは、黒い人型。ギザ刃のついた大鉈と長銃を手に、風のように疾走する。
ひとつは、赤い異形。真紅の大裁ち鋏を無数の腕で抱え、影のように
狩人が、獣のように身を低くしたまま走る。前に、右に、左に、稲妻のように鋭角な軌道で間合いを詰める。
右手のノコギリ鉈――対獣に特化された仕掛け武器が、裁断者に牙を剥いた。
その名の通り、鉈の峰部分がノコギリとなったそれは、肉に一度食い込めば獣皮ごと抉り飛ばす凶器。
その殺意に満ちた武器を、裁断者は鋏で迎え撃った。
弾く。
流すように、弾く。
一度、二度、三度と振るわれるノコギリを弾く。弾く度に、橙色の火花が闇夜を照らした。
無数の腕で握っているとは思えない、いや、だからこその精密動作。やがて、芯を捉えた弾きに、ひときわ大きな火花が散る。
潮目が、変わる。
“
鋏ではない。裁断者の腕の一つが拳を握り、狩人に振り下ろす。
狩人は半歩下がるだけの動きで回避。だが、それはもう鋏の間合いで。
“
ジョキン!
鋏が閉じられ、山積みされていたゴミをまとめて両断する。
狩人は、その刃の下にいた。
顎が地につく程の低姿勢。特徴的な帽子の陰から、青白い目だけがギラギラ輝いている。
裁断者の攻撃は止まらない。先ほどの意趣返しとばかりの連撃。幾度となく閉じられる刃が、ゴミを次々と両断していった。
危
膨れあがる、裁断の意思。
ぐるりとその体ごと回転した裁断者の鋏が、ゴミと地面をえぐり飛ばしながら狩人の足を断たんとする。
狩人とは、跳ぶことをしない。
人とは地を這う生き物であり、その身を空中に晒すことはつまり死だ。
狩人とは、退くことをしない。
巨大で素早い獣相手に後ろに退くことは、その身を差し出すことと同じだ。
狩人とは、防ぐことをしない。
強大な獣の膂力に、それはあまりに無力だからだ。
故に、裁断者の放った下段は必殺。防ぐことも、避けることもできない。詰み。
だが、それで狩られるようならば、ヤーナムの狩人はとうに死に絶えていただろう。
銃声。
狩人の左手に握られた散弾銃。
精度も威力も度外視され、ただ相手の動きを止めることだけに特化された銃撃。
広範囲にバラ撒かれた水銀弾が、一瞬だけの強固な盾となる。鋏が、止まった。
ノコギリが唸る。
その巨大な口を更に裂くように、ノコギリが食い込んだ。赤黒い霞が血煙のように舞う。
“
明確な傷を与えられても、裁断者は怯まない。どれだけ強靭な意思がそうさせるのか、鋏が、拳が、狩人を捉えんと乱舞する。
狩人は退かない。前に、前に避ける。食らいつく。
一度で狩れぬなら、幾度でも狩る。
バチン、と新たな水銀弾を装填した銃の照準を、正面の裁断者に合わせる。
背後から、擦過音。
「ッ!」
ありえない挟撃。
銃だけを背後に向けて発砲。その反動を利用して更に加速。くるりと身を翻し、正面の鋏をすり抜ける。
ジョキキン。二つの金属音。
大きく距離を取る。裁断者は、二体いた。
否、うち一体は霞のように消える。幻か。
否、その鋏はたしかに、狩人の左手を掠めていた。幻ではない。
だらりと下がる狩人の左手。散弾銃は遠くに飛ばされていた。
裁断者の口は大きく裂け、赤黒い霞に塗れていた。
狩人は怯まない。右手のノコギリ鉈を構え、真正面から打って出る。
裁断者は怯まない。裂けた口を食いしばり、真正面から迎え撃つ。
狩人が加速する。限界を超えた加速に両足から血が噴き出し、風圧がゴミ山を吹き飛ばした。
裁断者が咆哮する。己を奮い立たせるような大音声が、ゴミ山を吹き飛ばした。
狩人が接近する。ノコギリ鉈の間合いはごく短い。近く、もっと近く。
裁断者が構える。ギリギリと鋏に力を込めていく。強く、もっと強く。
狩人がノコギリ鉈を振り上げる。まだ遠い。だが構える。
裁断者の動きが止まる。すでに鋏の間合い。だが止まる。
狩人が隠し札を切った。ノコギリが変形し、鉈へと変わる。倍に伸びる間合い。変形攻撃。
裁断者もまた隠し札で応えた。再び現れる分身。1体、2体、まだ増える。その数、3体。
大型の鉈が、裁断者を引き裂かんと。
4つの鋏が、狩人の四肢を断たんと。
「コトワリさま!」
少女の叫び。
※
この人形に、どれだけ救われたのか分からない。
ユイは子どもだから、暗くなれば家に帰らなければいけない。ハルと別れなければいけない。
家に帰っても、誰もいないのに。
そんな時は、この人形に「ただいま」を言った。「おかえり」と返してはくれないけど、すこしだけ心が暖かくなった。
寝る時は、この人形に「おやすみ」を言った。傷が痛む時は、この人形を抱いて寝た。すこしだけ痛くなくなった。
起きたら「おはよう」を言ってから「ありがとう」と言う。つらい夜をのりこえさせてくれたお礼を。
ユイは、ずっとハルを頼りにしてきた。
ハルがいない時は、この人形を頼りにしてきた。
でももう、ハルは遠くの町に引っ越してしまう。
だから、これからはずっと、この人形だけを頼りにしなければいけない。
その人形を、ユイは。
「コトワリさま!」
放り投げた。
あの人形をあげれば、コトワリさまは見逃してくれる。そうしないと、狩人は手足をバラバラに切られてしまう。
人形か、人の命か。
どっちが大事かなんて、ユイでも分かる。それが、どんなに大切な人形でも。
――ごめんなさい、ハル……。
人形をくれたハルの笑顔を、忘れたことはない。
それをユイが捨てたと知ったら、ハルは泣くかもしれない。嫌われるかもしれない。
ハルも、ハルの人形も、ハルの笑顔も、ぜんぶ無くなってしまうのだ。
落ちていく人形の姿が、滲んでいく。
ユイの目から涙があふれて、人形が、コトワリさまの前に、
地面から生えた使者が、人形をキャッチした。
「…………へ?」
ユイの口から、間の抜けた声が漏れた。
見れば、狩人もコトワリさまも、ただ立っていた。狩人の手にはもう何も握られていなくて、コトワリさまもただフワフワ浮かんでいる。
狩人はじっとコトワリさまを見ていて、コトワリさまには目が無いけど、狩人をじっと見返している……気がした。
戦いは終わったのか。
ゆっくりと慎重に狩人のところに歩くユイの足が、光る石畳を踏む。
「わぁ……」
思わず、ため息をもらしてしまった。
辺りを埋めつくしていたゴミの山。それがすっかりと無くなっている。たぶん、狩人とコトワリさまの戦いで、神社の端に飛んでいってしまったんだろう。
ゴミに隠れていた石畳は、不思議な光を放っている。しかも、よく見るとそれは大きな人型をしていた。
――助かりたければ、手と足と首のある物を代わりに差しださなければならない。
もしかして、これのおかげだろうか。コトワリさまは、あいかわらず怖い見た目をしているけど、今はどこか穏やかな様子に見えた。
ちら、とユイの方を見たような動きの後で、ふわりと空に浮かぶ。そのまま、夜にとけこむように消えてしまった。
一つの、置き土産を残して。
「おじさん! 大丈夫?」
駆け寄ると、狩人はまた青白い目でユイを見下ろす。ケガしているはずの左手に触ろうとすると、狩人はそれを避けるように一歩退いた。
代わりに、使者が手記を差し出す。
【私はやった! つまり、勝利!】
一枚だけの手記を読んで、ユイは安堵に顔をほころばせる。使者は、さらにいくつかの物を手渡してくる。
無事に帰ってきた人形の青いリボンを優しく撫で、一度は捨ててしまったことを心の中で謝った。丁寧にナップサックに仕舞ってから、最後に渡された物を手に取る。
「これって……」
それは、真っ赤な裁ち鋏だった。
刃も、持ち手の部分まで赤い、大きな鋏。見まちがえようもない、コトワリさまの持っていた鋏だ。
【縁切りの刃】
慈悲深き上位者、コトワリさまから授けられた双刃
これはその神威を借りた紛い物にすぎないが、その刃は重く鋭い
二つの刃を仕掛けにより連結することで、真の姿が明らかとなる
縁とは、しばしば血と赤に喩えられる
故にその刃は血に塗れたように赤く、また温かい
さすがに本物よりは小さいけど、鋏としては巨大と言っていい。子どものユイが持てば、それはほとんど剣か何かのようだった。
「うわぁっと!?」
両手で抱えるように持つと、二つの刃が外れてしまい、ユイは悲鳴をあげる。
もしかして壊してしまったのか。またコトワリさまが怒ったらどうしようと焦っていると、足元の使者が両手を合わせるような動きをして見せる。
動きをマネしてみると、カチリときれいな音がして、また鋏の姿に戻った。
しかし、重い。これは狩人が持つべきじゃないかと、視線を上げると、狩人はいつの間にか拝殿に座りこんでいた。
「……おじさん?」
狩人は何も答えず、ただ使者が手記を渡してくる。
【ひと休みの時間だ】
【この先、武器が必要だ だから、貴公】
【血の加護がありますように…】
ハッと顔を上げる。こちらを見る狩人は、ひどく疲れているように見えた。あれだけ動き回ったのだから当然だ。
不安を抑えこむように、鋏を強く握りしめる。
狩人は、がんばってくれた。彼がいなければ、ユイも無事にここまで来られなかったかもしれない。
だから、次はユイの番だ。
「……分かった、ここで待っててね。後で、ハルといっしょに迎えにくるから!」
重すぎる鋏は分解して、片方はナップサックに結びつけて背負う。
右手に赤い鋏を。
左手に懐中電灯を。
それこそ狩人のような姿になったユイは、狩人と使者に背を向けて、
「クロ、お願いがあるんだ」
愛犬に、あることを告げた。
<●>
暗い山の中に走っていく小さな背中を見送り、貴方はひとり息を吐いた。
足元では、使者がいつになく大人しい様子で貴方を見ている。
すこし離れた場所で、黒い子犬が姿勢よく座り、貴方を見張っていた。
『クロは、おじさんをお願い』
『見張ってないと、また変なことしちゃうから』
『朝になったら、ハルとチャコもいっしょに、お散歩にいこうね』
どこまでも慈悲深い少女だ。
この小さな獣をこれ以上の危険にさらすまいと、ここに置いていったのだろう。
それを理解しているのかいないのか、
もう戦えない貴方を、見守っている。
ボトリ
今まで意思の力でなんとか保っていた左手が、地に落ちた。見事な
それに、右手と両足が続いた。四肢をすべて失った姿で拝殿によりかかり、貴方は月を見上げる。
また、守れなかったのだ。
あの少女ならば大丈夫だろうか。
否、ここまで上位者の気配に満ちた地で、武器をひとつ手にしただけの少女が無事でいられるはずが……。
無念の
◎
クロは、夢のように消えていった狩人の跡を鼻で辿る。
そこには、もう何の匂いも、残っていなかった。