お化け狩りの夜が廻る 作:甲乙
ユイと鬼ごっこをしていると、ハルはよく怒られた。
『ダメだよ、今のわたしは怖い鬼なんだから』
『走りで負けるのはしかたないけど、先に気持ちで負けちゃダメだよ』
『鬼なんかに、心で負けちゃダメだよ』
走るのが苦手なハルは、運動神経抜群のユイに勝てることなんてほとんど無かった。
ユイには勝てない。ユイになら負けてもいい。
そんな諦めが伝わると、普段はやさしいユイがすごく怒る。
なんでそんなに怒るんだろうと、気持ちがいじけてしまうこともあったけれど、今なら分かる。
こういう時の為に、ユイは怒ってくれていたんだ。
カツン、と足音とは違う音が聞こえたと同時に、飛び込むようにして倒れる。
ハルの頭上を何かがびゅんと通り過ぎて、近くの窓のガラスが割れた。
骨獣が前足を戻す間に立ち上がって、走り出す。擦りむいた手足と顔がじんじん痛んだ。
知るもんか。
背中にはユイがいる。ハルが避けないと、ユイが怪我をしてしまう。これ以上、ユイの怪我を増やしたくない。諦める理由にはならない。
走る先には二つの道。階段か、まっすぐか。
赤い糸は、まっすぐ伸びている。迷わず進む。
知らない街の知らない場所でも、コトワリさまが案内してくれる。諦める理由にはならない。
角から、お化けたちが出てくる。ぞろぞろと、5人か6人。
ハルか、骨獣か、もしかしたらどちらも捕まえる気なのかもしれない。捕まえて、火あぶりにしようとしている。
諦める理由には、ならない。
「どい、てっ!」
全力で走って、一人目をすり抜ける。二人目は大きく避けて、三人目が鉈を振り下ろす前に、足の間に飛び込んでくぐり抜ける。地面に顔を打って目がチカチカするけど、無視。
あと何人いるか分からないけど、もう何も考えずに走った。口から血の味がする。ただの鼻血。
“Gyeeaaa――!”
骨獣の鳴き声。
“Die! Die!”
“You filthy Beast!”
“I'll mess up your brain!”
お化けたちの叫び。
骨獣もお化けも、相手に見境は無い。同士討ちしている間に距離を稼ぐ。どうせ骨獣が勝つ。そんなに時間もかからない。
肩越しに後ろを見れば、散乱した武器の中で骨獣がまた雄叫びをあげている。頭の黒いベールはどんどん大きくなって、動きも速く、滑らかになっていく。
元の姿に戻っているんだと思った。だけど、そうだとしたら、あのベールはいったい何なのか。きっと、元からとても怖い姿をしていたに違いない。
追いかける骨獣の足はどんどん速くなる。逃げるハルの足は、遅くなっていた。
「はあ……、はあ……っ!」
左の足首の感覚が無い。
元から痛めていた足で、ユイを背負って歩き続けた。街に出てからは走りっぱなしだ。無理に無理を重ねた足は、もう痛みすら感じない。
それでも、降参だけはしたくない。ユイがいる。コトワリさまが導いてくれる。諦める理由にはならない。
ハルの心は折れなかった。
それでも、限界はある。
「あっ!?」
ズルリと足が滑った。
背中から倒れそうになって、ユイを下敷きにしないように身をひねる。そのせいで、変な姿勢で胸を打ち付けた。息ができなくて、目の前が暗くなる。
耳が聞こえない。霞んだ視界に、近づいてくる骨獣が見える。立たないと。
また足を滑らせて転んだ。血だった。血を踏んだんじゃなくて、左足から流れた血で滑ったんだと分かった。
やっと立ち上がる。体が軽かった。ユイがいない!
人形のように転がるユイ。
それに近づく骨獣。
ハルの頭の中で、何かが切れた。
<○>
悪夢のような光景だった。
女がこの街に立ち寄ったのは、ただの気まぐれだ。
仕事で次の街に向かう際に偶然、近くを通った。だから、もう何年も戻っていない故郷に寄ってみる気になったのだ。
この街が滅んだことは知っていたから、無人の廃墟になった街を見ても驚かなかった。悲しみも、また無かった。
故郷ではあるが、この街が好きだったわけではない。滅ぶべくして滅んだ。そうとしか思えなかった。
両親が死んだという墓地に花を供え、次は生家のある市街に向かった。そこでしばらく感傷にでも浸って、そしてここにはもう二度と近付かないでおこう。
そう、考えていたのに。
「なんなのよ、これ……」
夜の街は、獣狩りの群衆が闊歩していた。ありえないことだった。昼間は、耳が痛くなるほどの静寂に満たされていたというのに。
だからと言うべきか、群衆は生身の人間ではなかった。体は黒い霞のような影になり、しかし手に持つ凶器と狩りの狂熱だけは失っていない。
やはり、この街は呪われているのだ。
近付くべきではなかった。馬車の陰に隠れながら、女は激しく後悔していた。
このまま朝を待つという手もあるが、この街に限っては、いつも通りに朝が来るとは限らない。
危険でも、街の外を目指すべき。そう考えて、群衆の目を盗みながら街を忍び歩いていた時だった。
遠くから、獣の声がした。
それが耳に届いた途端、女の心は少女の時まで遡った。
幼い時から、いや生まれた時から刷り込まれていた恐怖。
獣狩りの夜に眠れたことなどない。ずっと母にしがみついていた。あの鳴き声が近くに聞こえた時は、母だって震えていた。頼りの父はいない。父は狩人だったのだから。
獣は、恐怖の象徴だった。
だから、広場で獣が暴れまわっているのを見た時、女は矢も楯も無く逃げ出そうとした。
小さな少女が、獣に飛び掛かるのを見るまでは。
悪夢のような光景など、この街ではありふれていただろう。
だが、今のこの光景だけは、誰も見たことがないのではないだろうか。
その獣には血も肉も無く、ただ骨格だけが動いていた。頭からは、黒い影がベールのように揺れている。
信じられない姿の獣。それと対峙しているのもまた、信じられない存在だった。
年の頃は10かそこらの、幼い少女。
年相応に小柄な体を包むのは、あまり見たことのない様式の服。元は白かったであろうその上衣は、血に赤く染まっている。
あの骨獣が血を流すわけもない。ならば、すべて少女自身の血なのだろう。
なんの武器も持たない少女がひとり、獣と戦っていた。
「――――ッ!」
少女が叫ぶ。何と言ったのかは聞き取れなかった。言葉ですらなかったのか、あるいは女が知らない言語なのか。
叫びながら、少女が骨獣の頭に飛びつく。飛びついて、小さな手で殴りつけていた。何度も、何度も。
骨獣は、頭についた草か虫でも払うように、少女を容易に振りほどく。小さな体が転がり、廃墟の壁に当たって止まった。
女は、息をのんだ。
少女は、すぐに立ち上がった。その幼い顔はやはり血塗れだったが、大きな目は爛々と戦意を滾らせている。まだ戦う気なのだ。
少女の背後には、別の少女が倒れていた。何故あそこまで戦うのか、容易に想像できた。
だが職業柄、女の目はそれが無謀だと見抜いていた。出血が多すぎる。そしてあの左足は、確実に折れている。
そこからは、体が勝手に動いていた。
護身用に用意していた火炎瓶を鞄から取り出す。まさか使うことになるとは思っていなかった。
ランタンの火で着火し、隠れていた路地裏から飛び出す。
「こっちよ!」
大声で叫ぶと、少女と骨獣が同時に振り向いた。特に骨獣から目の無い視線を向けられて足が竦む。怯えを振り払うように、火炎瓶を投げつけた。
骨獣を狙って投げたそれは、命中しなかった。筋力も技術も足りない投擲は、ただ石畳に油と炎を撒き散らしただけで終わる。
だが。
“Aaaaaaaaa――――!?”
骨獣の咆哮。いや、それは悲鳴だった。
「ある種の獣は、病的に炎を恐れる」いつか父から聞いた、獣の習性を今になって思い出す。骨獣は炎の熱と光から己を守るように、前足で頭を覆って動かない。
今しかない。
「行くわよ! 立って!」
「――!? ――、――――!」
呆然とした様子の少女を抱きあげて逃げようとするも、当の少女は激しく抵抗した。やはり女の知らない言語で喚きながら、必死に逃げようとする。
見知らぬ女を警戒しているのか。あるいは、もう一人の少女を気にかけているのか。おそらく後者だろう。
女とて、彼女を見捨てたい訳もない。だが狩人でもない自分では、一人を助けるだけで精一杯なのだ。そう自分に言い訳し、暴れる少女を押さえこんで無理矢理に抱き上げる。
そうこうしている内に、火炎瓶の油が燃え尽きた。
炎が消える。
火炎瓶は、もう無い。
骨獣が、頭を上げる。
女と少女は、それを見た。
骨獣に松明を振り下ろす、その姿を。
※
何がなんだか分からなかった。
狩人と別れて、クロも置いていって、草原でハルを見つけて、変な鐘のせいでハルはおかしくなっていて、なんとか鐘を壊して、ハルの左手の傷にハンカチを巻いて……。
そして気がつけば、この状況だった。
昔お父さんにおんぶされていた時のような揺れを感じて、固い地面に落とされたような感覚に叩き起こされて、痛む頭を押さえながら目を開ければ、見たこともない街にいる。
すぐ近くには恐竜の化石みたいな骨がひとりでに動き回っていて、思わず死んだフリをした。
そして、聞きなれた声と、見慣れた姿を見て、……それが血塗れになっているのを見て、もう全部どうでも良くなった。
「ハルを、いじめるな――――っ!」
頭に血が上って、目の前が真っ赤になって、近くにあった木の棒で骨獣の頭を殴りつける。木の棒の先には炎がメラメラ燃えていて、それが松明という物だと殴ってから気付いた。
思い切り殴ったのに、あまり効いた気はしなかった。相手の頭は大きくて、すごく固かったから。やっぱり、狩人のようにはいかない。
それなのに、骨獣はひどく暴れた。炎を嫌がっているんだと、すぐに気付く。
横目でハルを見る。隣には知らない女の人がいてギョッとしたけど、お化けではなさそうだった。
ハルの体は、傷だらけだった。誰にやられたかなんて、考えるまでもない。
キッと骨獣を睨みつけてやる。
許さない。
仕返しだ。
「狩りの時間だよ!」
狩人の口癖を真似して、松明を手にユイは飛び掛かった。
ユイは運動が得意だ。
もっと幼い頃から、走り回ったり飛び回ったりして遊んでいた。
鬼ごっこも、鉄棒も、木登りだって誰にも負けない。体育の球技では、男子も顔負けの大活躍だ。
それでも、今この時ほど冴えてはいなかった。
「――っ!」
振り下ろされた骨獣の前足を避ける。後ろでも横でもない、
狩人が教えてくれた、自分より大きくて速い相手との戦い方。
前に避けて、骨獣の後ろをとる。よく狙って、松明を突き出した。
“Geaaaaa――!?”
狙うのは頭じゃなくて、背中。なぜか背中に括りつけられた、木でできた十字架のような何か。
それに炎を移すように押し付けてやる。ブスブスと焦げ臭いにおいがする。でもまだ燃えない。
骨獣が頭だけをこちらに向ける。長い尻尾の骨が振り払われた。
ユイの腰ほどの高さの、下段攻撃。
今までのユイなら、跳んで避けていた。でも狩人は、そうしなかった。
地面にへばりつくように体を低くする。両足はしっかりと地面につけたまま。
頭の上の赤いリボンを、尻尾が掠める。
すぐに蹴りだされた後ろ脚を、前に転がって避ける。
跳んでいたら当たっていた。でもユイは、そうしなかった。
――ありがとう、おじさん。
もう一緒にはいなくても、狩人はユイを助けてくれていた。
ほんのすこしでも、その
骨獣の足を、尻尾を、噛みつきを、ユイは避ける。
避けて、後ろを取って、松明を押し付ける。
そして、ついに十字架が燃えだした。
“GyeeeeeAhaaaaaaaaa――――!”
今まででいちばん大きな悲鳴をあげて、骨獣が暴れ出す。
手足を滅茶苦茶に振り回して、ひっくり返って背中を地面にこすりつける。
そうやって、動きを止めてしまった骨獣に、女の人が何かを投げつけた。
感覚が冴えわたっていたユイには、投げられたそれが良く見えた。
カンテラとか、ランタンとか言う、火を灯すための昔の道具。
パリン、と。割れたガラスも、飛び散る油も、ユイには見えていた。
ユイは顔を覆う。
頭から油をかぶって、骨獣が激しく燃え上がった。
もう悲鳴も聞こえない。
手足をバタつかせても、それは却って炎を大きくするだけ。
頭を覆っていた黒いベールも、炎にかき消される。
その内に、骨獣は動かなくなって、油と十字架が燃え尽きた後、そこにはもう骨も残っていなかった。
「大丈夫? ハル」
骨獣がいなくなって、他のお化けがいないか周りも確認してから、やっとハルに声をかけられた。
近くで見れば、やっぱりハルは傷だらけだった。立つこともできないのか、知らない女の人に抱きかかえられるようにして座っている。もう絆創膏なんかで、どうこうできるような傷じゃなかった。
朧気に、誰かにおんぶされていたのを覚えている。きっと、ハルがここまで背負ってきてくれたんだ。
目覚めた時、ハルが骨獣と戦っているのを見た。あの怖がりなハルが、あんな怖いお化けを相手に。
ユイの為に、こんな傷だらけになって、がんばってくれた。
「……ごめんね、ありがとう。がんばったね、ハル……っ!」
まだ呆然とした様子のハルをぎゅっと抱きしめる。ユイも、目がじんと熱かった。
ユイの言葉が耳に届いたのか、ハルはふるふると震え出して、いつもみたいに、泣きだした。
「こわかった……。こわかったよぅ、ユイぃ……!」
きっと、ずっと怖い気持ちを抑えこんでいたんだ。
さっき見た、強そうな表情なんてまったく無い、いつも通りのハルだった。
夕方に別れてから、やっといつものハルに会えた。
離れ離れになっていたのは、ほんの数時間のはずなのに、もう何日も会っていないような気がした。
ハルの体と涙の温かさをもっと感じるように強く、強く抱きしめる。
……もうすぐ、この温かさともお別れしなければいけないという事実からは、目をそらして。
……あと、すぐ横で微笑ましいものを見るような顔をしている女の人からも、恥ずかしくて目をそらした。