終わりのリリィ 柊真昼、十六歳の転生(リインカーネーション) 作:志祈月織
軽い足取りで、真昼は百合ヶ丘女学院の校内を歩く。
学院にとっては部外者である真昼だが、誰一人として、彼女を不審に思うものはいない。
それは、真昼が進んで人気の少ない場所を選んで歩いているということもあるが、第一の理由は、真昼の姿だろう。
真昼は、天葉から奪った制服を着ていた。そして、さも自分はこの学院の生徒だ、という顔で、校内を歩く。時折、すれ違いざまに挨拶をされるが、それにも笑顔を浮かべて、答える。
今日が、入学式だということも幸いした。例え真昼に見覚えがなくても、新入生だと、勝手に勘違いしてくれる。だから、誰も真昼が不審者などとは思わない。
真昼は立ち止まり、校内の窓ガラスにうっすらと映る、自分の姿を見る。百合ヶ丘女学院の制服は、よく真昼に似合っていた。
──少し、胸元がキツいけど。
なんて、小さく微笑を浮かべる。
だが、いつまでもこの学院にいるわけにはいかない。すでにこの場所に用はない。なら、真昼の脱走がバレる前に、お暇した方がよいだろう。
真昼は、この学院からの逃走路を考える。一般的な、この学院からの移動手段は二つ。
電車と自動車だ。
だが、どちらの手段も人目に付きやすく、逃走には不向きだ。
なら、周囲の山を越えて、市街地に出るしかないだろう。
そんなことを考えていると突然、校内にチャイムが響き渡る。
すると、途端に校内の生徒がざわつき始めた。真昼は、想定より早く脱走がバレたのかと思い、物陰に身を隠して、生徒たちの様子を観察する。
だが、どうも様子がおかしい。生徒たちの行動は大きく二つで、CHARMを持たずに校内に集まる生徒と、CHARMを持ち校外に向かう生徒に分かれている。
真昼の捜索を行うことが目的なら、校内に残る生徒にも自衛手段としてCHARMを携帯させるはずだ。
真昼は何食わぬ顔で、近くを通りかかるCHARMを持った、緑髪の気の強そうな生徒に声をかける。
「ねえ、どうかしたの?」
「どうかしたもなにも、学校で生体標本にするために捕獲していたヒュージが脱走していたのよ」
「なるほど、それは大変ね」
「ええ、まったくよ。あなた、CHARMは?」
「今日は入学式だけだと思ったので、寮に置いてきちゃった」
「そう。なら、上級生の指示に従って、避難して」
なんて、適当に相手に合わせながら、事情を確認する。
しかし、これは真昼にとっては好都合だ。ヒュージ討伐に出た生徒に紛れて校外に出れば、目立つことなく逃走することが出来そうだ。
問題があるとすれば、真昼はCHARMを持っていないので、これから手に入れる必要があるということだが──。
「まったく、亜羅揶の奴は朝から騒ぎを起こすし、天葉様はどこにいるのか、約束の時間に遅刻して樟美は泣きそうになるし。おまけにヒュージ騒動って、とんだ入学式よ」
「天葉? それって、天野天葉様のこと? それなら、さっき救護室の方で見かけたけど」
「本当に? まったく、この緊急事態に何をしているのかしら。ありがとう、探しに行ってみるわ」
そういって、その生徒は人気の少ない救護室の方へと向かう。真昼はその後姿を見て、小さく笑った。
「さて、これで問題は一つ解決」
そして、その生徒の後を、足音も立てずに追いかけるのだった。
「これがCHARMか」
手に入れたCHARMを目線の高さに掲げながら、真昼は呟いた。
初めて手に持ったはずのソレは、自然と手に馴染む。
「確か、第二世代のブリューナクだったかな。ノ夜、起動できる?」
そう、真昼の中に潜む鬼、ノ夜に声をかける。
『どうだろう。鬼呪装備じゃないけど、なんとか行けるかな』
「そう。なら、早く起動しなさい」
『まったく、鬼使いが荒いね』
ノ夜が言うと、鬼呪の力がブリューナクへと流れ始める。すると、ブリューナクのマギクリスタルコアに黒い光が宿り、真昼の身体に力がみなぎる。
「なるほど、鬼の力を使うには問題がないのか」
『そうみたいだね。少し違和感があるけど、力を使うには問題ないよ』
「なら、少し体の調子を確かめようか」
そうして、真昼は足に力を入れて、地面を強く蹴る。それだけで、真昼の身体はすごい速さで、前へと進む。それは、常人が出せる速さなどではない。陸上競技の世界記録など比べ物にならない速度で、真昼は走る。
瞬く間に、百合ヶ丘女学院の校舎が小さくなっていく。それは、当たり前だ。鬼呪の力は、人間の力を七倍以上にする、驚異的な力だ。特に、真昼の中に巣食う鬼、ノ夜は最上位の黒鬼に分類される化物だ。この程度の速度で走ることなど、難しくはない。
「……力を使うのには問題ないか」
しばらくして、学院を囲む山の奥まで来たところで、真昼は足を止めた。そして、自分の体に違和感がないか、確認する。鬼の力は、ただ身体能力を向上してくれる、便利な力ではない。鬼は、人間の欲望を糧にする化物だ。少しでも鬼を信頼して気を許そうものなら、鬼に欲望を支配され、ただ己の奥を満たすだけの化物へと堕ちてしまう。
「いや、もう堕ちているのかな」
真昼は、すでに一度、鬼に支配された人間だ。自分の欲望のままに暴れ、それでも自分以上のさらなる化物の掌で踊り続けることしかできなく、最後には世界を滅亡へと追いやった。
今は何故ここにいるのかすらわからないが、果たして自分が正気であるなどと、言えるのだろうか。
「妙な記憶のことといい、やっぱり狂っているのかも。あなたは、どう思う」
そう、自分の背後に現れた化物──ヒュージに問いかけた。その化物は真昼を認識するや否や、鎌のような刃が付いた腕で、真昼に攻撃を仕掛けてきた。
直撃すれば、人一人の命など簡単に奪えるだろうそれを、真昼は片手に持ったCHRAMで受け止める。その表情に焦りなどなく、ただ、不敵な笑みを浮かべている。
「人の話も聞かずに、いきなり攻撃なんて酷いな。まあ、ヒュージに人の言葉なんてわからないんだろうけどね」
そう言うと、真昼は力を込めて、ヒュージを弾き飛ばす。
『真昼、力を貸そうか?』
「はは、冗談でしょ。鬼の甘言なんかに乗らないわ。それに、私の力を試すにはちょうどいいもの」
ノ夜の言葉を否定すると、真昼はヒュージに向かい駆け出した。
ヒュージの連続攻撃をかわしたり、ブリューナクで受け止めたりしながら、真昼は冷静に、自分とヒュージの力の差を確認する。ヒュージ相手に、通常の火器が通用するのは、一定のサイズまでだ。それ以上を相手にする場合にはリリィの力が必要となり、場合によっては複数人の協力がなければ打倒ができない。そんな、化物を相手にして、真昼は言う。
「でも、お前は私にはかなわない」
真昼がブリューナクを振るい、ヒュージの腕を一本切り裂いた。ヒュージは反撃にと無数の触手を伸ばすが、真昼を捉えることはできない。それどころか、真昼は忽然と、ヒュージの前から姿を消していた。
「ごめんなさい。ザコに、時間をかけている暇はないのよ」
その声は、ヒュージの真上から聞こえた。いつの間にか真昼は、目にも止まらない速さで移動し、ヒュージの上に立っていたのだ。
真昼はブリューナクをバスターモードに切り替えると、その銃口をヒュージへと突きつける。
どうも、ヒュージには真昼がつけたモノとは別の傷があり、すでに別のリリィと戦闘をしていた形跡がある。なら、この近くにそのリリィがいる可能性が高い。だから、人目につく前に逃げるため、早々に終わらせることにしたのだ。
「うち抜け、ズドン」
ブリューナクに鬼呪の力を込めて、トリガーを引く。
黒い閃光が、ヒュージを貫いた。
それで、終わりだ。真昼はゆっくりと崩れ落ちたヒュージから飛び降りると、すでに動きを止めてピクリとも動かないヒュージを見つめる。
「なるほど、これがヒュージか。思ったより、手ごたえがなかったなぁ」
この様子だと、鬼呪を暴走させなくても、ヒュージと戦うには問題なさそうだ。十分動けることも確認したし、早々にこの場を去ろうとしたところで、背後から人の気配を感じた。
──ヒュージに気を取られすぎたかな。
適当に会話を合わせて、隙を見て逃げる。それが無理なら、面倒だから殺す。
そう決めて、真昼は振り返った。
「あれ? 他にもこのヒュージを狙っている生徒がいたんだ。でも早い者勝ちってことで、許してね」
そして視線の先に立つ、そのリリィの姿を見て、
「──っ!?」
真昼の心が、激しく揺れた。
記憶にない少女だ。ハーフだろうか、西洋の血が混じった、美しい容姿。鮮やかな赤毛は、腰まで伸びて、太陽の光を反射して煌めいている。瞳の色は鮮やかな蒼色で、澄んだ空を思わせた。モデル顔負けのプロポーションは、真昼に匹敵するだろう。
そんな、美しい少女だった。その少女から、真昼は目が離せない。その少女を見ているだけで、胸の奥が酷くざわついた。
「真昼!!」
少女が、名乗ってもいない真昼の名前を呼んだ。その瞳には大粒の涙を浮かべて、だけどとてもうれしそうな笑みを浮かべて、真昼に向かって駆けてくる。
その姿に、真昼は強い衝動に襲われる。少女と同じく、走り出したい。そのまま、少女を抱きしめたいと、欲望があふれ出る。
『うわ、すごい欲望だ。よくわからないけど、いいよ真昼。その欲望を思う存分満たそうじゃないか』
ノ夜が、嬉しそうに笑う。ノ夜が、真昼の欲望を喰らいつくそうとしている。
真昼はノ夜の誘惑を振り払うように歯を食いしばると、ブリューナクを少女へ向かい突き出した。
「……止まりなさい」
刃を向けられた少女は足を止めると、驚いたように真昼を見つめる。
「なにを……」
「それ以上、近づかないで。殺すわよ」
真昼は、湧き上がる衝動を懸命に抑え、少女を睨みつけた。少女は真昼の剣呑な気配を感じてか、一歩後ろに下がる。
「ねえ、真昼……冗談ですわよね」
「さっきから、ずいぶん人の名前を気安く呼ぶんだね。あなた、もしかして柊の関係者かしら?」
真昼の言葉を聞くと、少女は悲しそうに顔をゆがめて、悲痛な声で叫んだ。
「わたくしは、柊ではありません。真昼こそ、どうしたのですか! わたくしのこと、忘れてしまったのですか。わたくしは──」
「ああ、うるさいな」
少女の声を遮る様に、真昼は言った。
少女の声を聴くだけで、胸の奥がざわつく。少女の泣きそうな顔を見るだけで、胸が締め付けられたように苦しくなる。これ以上は、限界だ。自分の欲望が、抑えられない。
だから、真昼は少女を殺すことにした。
真昼は地面へ強く蹴ると一瞬で少女の懐に飛び込み、ブリューナクを振る。少女は反射的にだろう、自分のCHARMで、真昼の攻撃を防いだ。
悪くない反応だ。おそらく、相当な技量を持ったリリィなのだろう。
「けど、これで終わりよ」
少女は攻撃を防ぎこそしたが、ブリューナクの一振りに耐えられず、腕が大きくはじかれてしまい、胸元ががら空きになる。真昼はその胸元を掴むと、背負い投げのようにして、少女を地面に叩きつけた。
「くっ!?」
きれいに受け身を取り仰向けに倒れた少女はすぐに起き上がろうとするが、そんなことを許す真昼ではない。少女の腹部を右足で強く踏みつけると、苦しそうに顔をゆがめる少女を見下ろした。
「はは、苦しい」
「ま……ひる……。わたくしです、思いだして──」
真昼は何も答えない。ただ、今すぐ少女を殺したかった。殺さなければ、狂ってしまう。そんな衝動に、支配されていた。
「もう、いいわ。死んで」
真昼はブリューナクを逆手で持つと、その切っ先を少女の首元に向け、まっすぐ突き刺した。
そんな真昼から目をそらさずに、少女は祈る様に叫んだ。
「わたくしです、楓です!!」
地面に、ブリューナクが突き刺さる。
その刃は少女──楓の首元をわずかに外していた。
「かえで……」
真昼は、少女の名前を口にする。それだけで、胸が高鳴るのを感じた。
「そう、楓・J・ヌーベルです。十年前、あなたと想いを重ねた恋人です」
「十年前……恋人……っ」
真昼は、痛む胸を抑えると、後ろに倒れそうになる体のバランスを保つように、後ろに数歩下がる。
確かに、十年前に真昼には世界で一番大好きな恋人ができた。
だが、それは一瀬グレンであり、楓という少女ではない。
なのに──
「楓」
なのになぜか、その名前を口にするだけで、感情が揺るぐのを抑えられない。気分が高揚し、幸せだという気持ちが、抑えられなくなる。
楓を見ると、CHRAMを杖のようにして立ち上がり、真昼を見ていた。その表情は、殺されかけたというのに、恐怖や敵意などはなく、逆に真昼の身を案じているようにも見える。
そして、楓は言う。
「大丈夫、真昼?」
その声と重なる様に、もう一つの声が聞こえた気がした。
『大丈夫、真昼?』
その瞬間、楓の脳裏に過去の光景がよみがえる。
それは十年前、まだ五歳だった真昼が、満面の笑みを浮かべて走っている。その先で、大好きな恋人と会う約束をしているのだ。
今日はどんなことを話そうか。いや、なんだっていい。だって、そのこと一緒にいられるだけで幸せなのだから。
そんなことを考えて、約束の場所についた。
そこは、小さな河原だ。そして、真昼と同じくらいの背丈の子供がたっている。
真昼の視線の先に立つその子が、ゆっくりと振り返る。
その子の後ろ姿を見て、真昼はその子を呼ぶ。
『──』
はたして、自分は何と言ったのだろうか。わからない。
わからないが、真昼の声にこたえるように、大好きなあの子の顔が、真昼に向く。
『すごい汗』
その子は汗でびっしょりの真昼の姿に、驚いたように目を丸くする。そして、心配そうに言った。
『大丈夫、真昼?』
その子は、黒髪で生意気そうな眼をした男の子──ではなかった。
その子は、赤毛で澄んだ蒼いい瞳をした少女だった。
それは正しく、楓・J・ヌーベルだった。
「うわあああああああああ!!」
閉じられていた記憶の蓋が開き、真昼は叫ぶ。
鬼のことなど、気にしている余裕などない。ただ、あふれ出た記憶の波に押し流されるしかなかった。
「真昼……」
視界の端に、目を見開き、こちらを見る楓の姿が映る。
最愛の恋人の姿が、写った。
「いや、いやいやいやいや!! 見ないで、お願いだから醜い私を見ないで!!」
大好きな楓に、化物になってしまった自分を見られた。狂ってしまった自分が、楓を傷つけてしまった。
その事実に、真昼は悲痛な叫びをあげる。
「真昼!!」
「来ないで!!」
楓は真昼に駆け寄ろうとするが、それよりも早く、真昼が動く。
鬼呪を暴走させ、ありったけの力を込めて、ブリューナクを振る。
楓を拒絶するように、大地が二つに割れた。
地面にできた大きな亀裂の前で、楓が足を止める。楓が何を言いたそうに真昼を見るが、
「──ごめん」
真昼は、それだけ呟くと、楓に背を向けた。
これ以上、楓の前にいることが耐えられなくて、その場から逃げ出した。
夜も更けた頃、楓は本日から過ごすことになった自室にやっと戻ってきた。
電気もつけずに、楓は疲れた体をベッドの上に投げ出すと、天井を見上げて、深く息を吐いた。
長い一日だった。
ヒュージ討伐の後、入学式が問い行われた。流石はヒュージとの戦闘における最前線、百合ヶ丘女学院だけあり、ヒュージ脱走による混乱などはほとんどなく、粛々と式は執り行われた。
そこまでは、よかった。
問題は、その後だ。楓は、理事長に呼び出された。
聞かれたことは、もちろん脱走したヒュージのことだ。
真昼が逃げるように消えた少し後、駆け付けた梨璃と夢結は、その場の光景に言葉を失った。
なにせ、ヒュージがすでに討伐されているどころか、地面には自然にできたとは思えない深い亀裂が走っていたのだ。
当然、どうしたのかと詰め寄られたが、楓は一瞬にも満たない時間で、真実を話さないことを決めた。
だから、自分がこの場に来たときには、すでにこうだった、と答えた。
梨璃は純粋にに、夢結は訝し気に、他のリリィが先に討伐したのだ、と結論付け、学院に戻った。
だが、当然そんな言葉でごまかせるはずもなく、事情を聴くために理事長室に呼び出されたのだ。
そこにいたのは学院理事長代理である高松咬月と生徒会の三役だ。
その場の剣呑な雰囲気に、楓は警戒心を強くした。
呼び出しの名目は、高等部編入試験をトップで合格し、また本日のヒュージ討伐で一定の成果を見せた楓を労うため。だが、そんなことはもちろん建前に過ぎない。
真に聞きたかったのは、あの場での出来事だ。
なにか、不審な点がなかったか、と聞きたのだ。
咬月は言葉こそ好々爺としていて親しげだったが、メガネレンズの向こうの瞳は、楓の表情の変化を少しも逃さないというように、鋭い力が込められている。
それは、他の三役も同じだ。蛇ににらまれたカエルの気分が分かった気がした。
だからこそ、楓はここでも真実を隠すことにした。
なぜなら、少なくとも咬月は、真昼の存在を知っている、と確信したからだ。
表向き、ヒュージを討伐したのは三役の一人、出江史房ということになっている。
だがもちろん、出江史房ではないことは、この場にいる本人がよく知っているだろう。そして、あの亀裂を作ることはリリィの力でも容易ではないこともわかっている。
だからこそ、ヒュージを討伐したリリィが真昼だとわかっているし、その姿を見ているかもしれない楓に探りを入れているのだろう。
真昼は、この学院の制服を着ていた。なら、真昼は学院に少なからず関係しているのだろう。
百合ヶ丘女学院は強化リリィの保護をしている、と聞いている。
楓が知る真昼の事情を考えれば、強化リリィとして、この学院に保護されている、という話は理屈として通じる。
だが、それは真実だろうか。もし、この学院で真昼が保護されている、というのなら、なぜその事情を楓に話さないのか。探る様に、婉曲な会話で、楓が失言するのを待っているようにも見える。
本当に、真昼はこの学院で保護されていたのか。それとも逆で、あの柊家の命令で真昼がこの学院に潜入していたのではないか。
もしくは、この学院こそが真昼を狂わせた元凶ではないか。
反G.E.H.E.N.A.主義を掲げていても、それはあくまで外からの評判だ。実際はどうかなど、自分の目で確かめなければ、わかるものではない。
誰が敵で、誰が味方なのかはわからない。結論を出すには、あまりにも情報が少なすぎる。だから、真昼は真実を隠すことにした。
そんな腹芸をして、ようやく戻ってきたのが、今の時間だ。
「疲れましたわ」
楓は思わず、呟く。
荷物の整理もまだ済んでなく、部屋の隅には生活用品や着替えなどの荷物が高く積まれている。使用人は連れてきていないので荷ほどきも自分で行う必要があるのだが、今はその気力すら出ない。
楓は正々堂々とした立ち合いを好んでおり、騙し合いや探り合いのような、美しくない手段をとるのは嫌いなのだ。見知ったばかりの相手を疑ってかかるとなれば、なおさらだ。
だから、真昼に関する情報を掴むためとはいえ、苦手とする手段をとるのは、精神的な疲労が高い。
だけど、そんな弱音ばかりは言っていられない。だって──
「やっと見つけた」
十年前から再開を望んでいた、最愛の恋人を、柊真昼をやっと見つけることができた。
けど、それは最悪の形でだった。
真昼は、楓のことを忘れていた。いや、忘れさせられていたのかもしれない。
柊家やG.E.H.E.N.A.なら、真昼を都合の良い駒にするために、記憶改ざんぐらいするだろう。そして、それ以上に酷い人体実験も受けたのだろう。だからこそ、楓でもまったく敵わないような、驚異的な力を持っていたのだ。
「でも、泣いていましたわ」
真昼は、楓を見た瞬間から、ずっと泣きそうだった。真昼本人が気が付いていたかわからないが、苦しくて、悲しくて、くしゃくしゃに顔をゆがめていた。
それは、楓を殺そうとする直前でもそうだ。だから、楓は真昼が少しも怖くなかった。どんなに圧倒的な力を持っていても、恐怖は感じなかった。
ただ、真昼のことを救いたいと思った。抱きしめたいと思った。それだけだ。
その後の、真昼の狂乱の様は、見ているだけで痛々しいほどだった。楓のことを思い出したのかわからないが、見てほしくないと泣き叫び、楓を拒絶し、逃げだしたのだ。
そのことを思い出し、楓は強くこぶしを握る。爪が掌に食い込んで血がにじむが、痛みなど無視して更に力を籠める。
自分に、力がないから真昼を泣かせた。もし、自分にもっと力があれば。逃げる真昼に追いつき、その手を取る力があれば。真昼が自分の醜いなどと蔑むことなく、守ってあげられる力があれば。真昼がいくら拒絶しようとも、気にせずに抱きしめる力があれば。
「少しは強くなったと思いましたが、まだ全然弱いですわ」
そして、楓は薄暗い部屋の天井を見上げて、呟いた。
奇しくも同時刻、真昼は廃ビルの一室にいた。
部屋の隅に座り込み、膝を抱えて背を丸くする。
蘇った記憶による混乱は、だいぶ収まっていた。
だから、真昼は崩壊した世界で過ごしたことなどないということを思い出した。
真昼が十五年を生きた世界は、ヒュージという化物とリリィという少女が戦う、この世界であることを、思い出した。
世界を滅ぼす死のウイルスも、人の血を吸う化物も、一瀬グレンという少年ですら、真昼の記憶の中だけの虚構の存在だと、理解してしまった。
まだ整理しきれないもの、理解できていない記憶はあるが、その中でも一番大切な思い出だけは、確かに胸の内にあった。
柊真昼は、楓・J・ヌーベルを愛している。
そんな想いが溢れていた。
『だったら真昼、すぐにその娘のところに行こうよ。そして押し倒して、自分の欲望でメチャクチャにしようよ』
「黙って!!」
ノ夜の誘惑を拒絶するだけの余裕が、今の疲弊した真昼にはなかった。
いや、元からそんなものはなかったのだ。すでに真昼は、狂っていたのだから。
本当の自分も忘れて、大好きな楓のことも忘れて、偽りの記憶を持った自分を正気だなどと勘違いしていたのだ。
今も気を抜くと、自分の意識が消えそうになる。もう一人の自分が、出てきそうになる。
楓を押し倒したい。どす黒い欲望で、楓のことを犯したい。そして、いっそ殺してしまいたい。
そんな、
「真昼」
楓が決意を込めて言う。
「楓」
真昼が絶望の中で言う。
「わたくしが、貴女を救います」
「早く、私を殺して」
最後の方は駆け足になりましたが、アニメ版一話完結となります。
次から、少しアニメの話数がとぶ予定です。
更新ペースは遅いですが、これからもよろしくお願いします。