俺の子猫が蜜柑の香りを漂わせつつ、腕の中でモゾモゾと動く気配を感じて、意識が浮上する。この馬鹿猫は、自分が俺にどれ程特別待遇を受けているのか分かってないのだと思い出す。
いや、正確にはどれ程愛されているのかを理解していなかったのだ。まさか……片想いされていると、誰が思うのか。
それを理解して、これ迄に経験が無い程に甘く愛を囁いたと言うのに、それでもまだちゃんと伝わったのかと考えれば不安になる。たまさか、ここまで自己評価が低い存在がこの世に居るとは思いもしなかった。
これ程迄に気の弱い人間が、どうやってこの海で生きてきたのか。全く持って謎だ。
俺の腕がデカいからか、隙間を見付けて難なく抜け出した子猫は自分の代わりに枕を差込み、ふわりと毛布を掛けてきた。心配性な子猫は、どうやら俺の体調を気遣っているらしい。
……俺にヤり殺されそうになったのは、寧ろナミの方だろうに。俺の恋人である自覚がなかった事で、多少ではなく虐めすぎた自覚はあるのだ。
そっと頭を撫でて来るその手が優しく、慈しみに満ちているからこそ……不安になる。この甘さが、消え失せちまう事が俺には怖い。
最近はいつでも素肌に触れる服装だったと言うのに、今は何故か脱がせないと触れない服を着ているナミを横目に、消えた尻尾と耳を思う。アレを生やした能力者は、俺と趣味が合うだろう。
JOKERに探させるか。そういや、あいつに会う事を目的に出て来たのに、すっかり忘れていたな。
いつの間にかナミとの旅行になっていた事に気付けば、寝ているのも気持ち悪い気がして身体を起こす。本当に、調子を崩されてばかりだ。
甲板に出て見れば、次の島を見詰めて楽しそうにしている子猫が見える。その後ろ姿から、消えた筈の尻尾が揺れているように思えるのは、俺の頭が可笑しくなったのだろうか。
気を取り直し声をかけようとしたその時、風により飛ばされて行く布切れを見る。それだけならば何とも思わなかったが、馬鹿な子猫がそれにじゃれつこうとしていれば話は違って来るものだ。
このままでは海に落ちる。そう判断したのが先か、それとも姿を変じたのが先か。
俺はそれを判断するよりも早く、海に落ちる前にとそれを取り戻して、甲板へと戻る。そんな俺を、惚けた顔で見上げて来る無防備なナミがいた。
人の形に戻りつつそれを首に巻き直してやると、頬や耳だけでなく項まで赤くなっているのに気が付く。布が飛ばされそうになったのは、風の責任でありナミに責任はねェだろうと思った直後、布の端にある刺繍に気が付けば息を飲むのも当然だろう。
俺の旗印に蔦が絡まり、蜜柑が小さく繋がっている。それはサイズ感を考えても、ナミが俺に絡んでるようにしか思えないその構図。
これは、どう表現したらいいのか。むず痒いような、叫びたいような、だが、そっと大切に心にしまい込んで置きたいようなそんな気持ちにもさせられる不思議な感覚。
ナミといると、今まで必要としなかった数多の感情が押し寄せる。これは、俺がナミに感化されて居るという事なのだろうか。
「あ、ありがとう……」
こんな形で照れは伝染するものか。赤くなりそうになる自分を内心で叱責して、誤魔化すように口にしたのは他愛ない言葉。
「海に落ちなくて良かった」
言葉にしてみれば、それも俺の本音だと気付く。流石に俺も、海に落ちられては助けられねェ。
うちの海賊団は基本的に能力者だから、海に落ちたら終わっちまう。そう思って息を吐き出した時、聞こえて来たナミの笑い声。
「ふふ……」
「ん?」
「私、甘ったれになったなぁって思って」
「……足りない」
本当に甘ったれになったと言うなら、俺の女である自覚を持ちやがれ。そう言うつもりで開いた唇から音が出るより早く、突風が目の前にいた筈のナミを連れ去ろうと浮かび上がらせる。
即座に姿を変じてナミをひっ掴むと、とりあえず島へと移動しておいた。そうしなければ、部屋に閉じ込めちまう気がしたから。
降り立つのに人のいない所を選べば、自然に花々の咲き乱れる所となり、ナミは嬉しそうに頬を緩ませた。その姿に安上がりな女だなと思う。
「カイドウ!花が沢山ある!ありがとう!」
「……俺が咲かせた訳じゃねェだろう」
「でも、連れて来てくれたわ。……綺麗」
どこか切なそうに花を見上げるナミに、そんな顔をさせるのは本意ではないのだと思いながらも、それを言葉にできないままに溜息を落とす。そんな俺に気付いて心配そうにその顔を歪ませるナミに、そっと手を伸ばしてみれば駆け寄り擦り寄る優しい温もり。
怪我でもしたのか、何処かに不調でもあるのか、それとも……気分を害してしまったのか。そんな考えが伝わって来る表情。
俺はこの甘やかな微温湯に、絆されている。もっと非道にならなけりゃ、俺もあの甘っちょろい奴らと同種に見られちまう事だろう。
そんな事を思えば不愉快だが、今はそれよりナミの笑顔を取り戻したい。その為に俺は言葉を向けようとするが、いい言葉なんて思いつきもしねェ。
「ナミのせいじゃねェ。寧ろ」
「寧ろ?」
「俺自身への憤りだ」
慰める言葉も、甘い言葉も俺には紡げない。ならば、素直に伝える他どうしろと言うのか。
そんな俺を不思議そうに俺を見上げるナミの髪に絡む花弁にさえ、不快になる。俺のものに触れるなと、無言のままその花弁を投げ捨てて膝をついた。
そうしなければ、視線を合わせるのも困難な小柄な女。強いのに脆くて、美しいのに可愛い、矛盾の塊。
「……誰にでも、優しくしてんじゃねェよ」
「へ?」
俺の不満を受けてナミは驚きを隠しもしない。ここに来て、やはり理解しちゃ居なかったんだと気付かされる。
ここまで来ると才能じゃないのかと言いたくなるほどに、鈍い。これが世に言う天然だろうか。
ここで諦めるって選択肢が無い時点で、俺の負けだ。そう思えば、言葉は自然と口をついてでる。
「ナミは、俺の女だ。……俺にだけ、愛想振りまいてりゃ良いんだよ」
「……えっと、え……?私、カイドウの……?」
「俺は、ナミを恋人だと認識している。いつまでも、セフレだとか、ペットだとか、そんな妙な事考えてんじゃねェよ」
「な……!?えっ!?」
「不満でも、あんのか」
自然と低くなった俺の声に怯えるのでは無く、ただ赤くなるその姿。妙に幼く、なのに唆られる。
なんで考えてる事がわかったの?と言いたげなその瞳。不満なんてなくて、ただ、混乱してると伝えてくる表情。
このままかき抱いてやろうとした瞬間、吹き付けた突風がまたもやナミを連れ去ろうとする。それにより予定より強く抱き寄せちまって、腕とかを痛めちまわなかったと不安になりつつも、手放せない。
腕の中から、手放してやれない。そんな事をしたら、この女は……消えちまうような、そんな気がする。
春一番が春を連れて来る風だと言うのなら、俺からナミを奪わないでくれよと思う。春の女神を思わせるナミだからって、風が俺の春を奪わないでくれ。
これ迄奪うばかりだったツケなのか。そんな事を思いながらも、こいつだけは手放せないと……強く、祈るように感じていた。