「しっかり帰ってきてくれたのね。安心したわ」
心臓が飛び跳ねた。
革靴の紐をほどいていた手を止め思わずばっと顔をあげるとホッとした笑顔の雪ノ下と目が合う。
後ろめたい心の内を読まれたのかと一瞬思ったが、何のことはない。高校の入学式で交通事故に遭ったことを引き合いに心配してくれていたのだろう。
「い、いきなり顔をあげないでくれるかしら、びっくりするじゃない…」
「そうだな、すまん」
雪ノ下と俺が通う大学の丁度中ほどにある1LDKのマンション。つい一週間ほど前から住んでいるのだが、いまだ家に家族以外の人間がいることには慣れない。
反対に雪ノ下は高校の三年間をひとり暮らしをしていたからなのか、誰かと生活を共にするということが妙に楽しいようで今まで見たこともないほどいきいきと日々を送っている。
とは言え高校を卒業したばかりの二人が同棲することを、内情は別として世間的に見れば好ましいものとは取られない可能性が高い。雪ノ下の親御さんが議員をしている関係もあるので当面の間は秘密にしていく予定だ。
しかしそんな秘密を持つことも雪ノ下にとっては楽しみの一つであるらしく、杓子定規に、四角四面に生きていたあの頃からは想像もつかない茶目っ気のある笑顔を近頃は見せてくれる。
「あなたがどうしても来るなと言うから入学式には行かなかったけれど…、やっぱり行ってみたかったわ」
「入学式に彼女同伴で来るやつがどこにいんだよ……だいたい、ただでさえ代表挨拶なんてもんさせられて目立ってんのに、お前まで見つかったらしつこく絡まれて帰れなくなるに決まってんだろ」
同棲を始めてよりこちら、珍しくもなくなってきた雪ノ下のわがままを今回限りは断固として断腸の思いで断ったのだがどうやらまだ納得できてないらしかった。いつぞや俺が可愛いと誤爆したエプロンの裾をいじいじしながら頬を膨らませている。
代表挨拶のお礼でもらった金券でケーキを買ってきているので何とかこれで早めに機嫌を直してもらいたいところだ。
「もう大学生なのだから恋人くらいで大騒ぎしないわよ」
しかし再三に渡って説明しても、何を言っているのかしらこの童貞は。みたいな表情で(たぶん違う)俺を見る雪ノ下には世に蔓延る童貞どもの現実を教えてやらねえといけないみたいだ。
「いーや、絡まれるね。俺ならお前みたいに綺麗な奴を恋人にしてる人間を見つけたら絡みはしないが呪いはする自信がある」
「そ、そう……、それなら仕方がないのかもしれないわね」
な?可愛いだろ?
さらにお土産で買ってきていたケーキを渡すと殊更に機嫌を良くし、スリッパをパタパタ鳴らしながら冷蔵庫へとしまいに行ってくれた。
洗面所で手を洗いリビングへ戻るとテーブルの上にはすでにたくさんのご馳走が並んでいた。
その豪華さで驚く俺に雪ノ下はエプロンを外しながら近づいてきた。
「ほら、あなたも部屋着に着替えてきなさい。スーツはクリーニングに出しておくから私が預かっておくわ」
熟練の女将のような手つきでするすると俺のジャケットを脱がす雪ノ下はとても楽しそうだ。
もしかすると小さい頃に母親がしていたのを見て憧れのようなものがあったのかもしれない。
雪ノ下はポケットに入っていたハンカチやティッシュを取り出し入念に確認するとそのままの流れでジャケットの襟元へと自らの顔を押し付けようとするので慌てて声をかけた。
「――何してるんですかね雪ノ下さん」
「ハチマニウムを摂取するのよ」
「さいですか…」
俺が諦めたのを見て改めてハチマニウムとやらを摂取しようとジャケットへと顔を押し付けた雪ノ下はほんの数秒フリーズすると表情を戻しこちらへと向き直った。
「――――ねえ、八幡」
「なに、加齢臭?普通に傷つくからやめてね?」
「女性ものの香水の匂いがするわ」
………小さい頃に母親がしていたのを見て憧れたのかな?
言ってる場合じゃねえな。
何もやましい所のない俺がここで口ごもるのは逆効果だ。まるでやましいことがありますと宣言するが如しだ。
「満員電車かなんかで匂いが移ったんじゃないのか?知らんけど」
あくまで平静に(平塚静ではない)。いつもの軽口と同じように。
いや、実際に何があったわけでもないのだから本当に焦る必要なんて欠片もないのだが…
「ならこの肩に着いている長い髪もその満員電車とやらが原因かしら」
心の奥底どころか前世まで丸裸にされそうな極寒の視線を全身に浴びせられる。
先ほどまでの温もりとの温度差で風邪をひいてしまいそうだ。
「――なんてね、冗談よ。昔、母が帰ってくるのが遅かった父にかまをかける時にあんな感じだったの。ふふ、八幡ったらずいぶん迫真の演技ね」
「あ、ああ。俺の父ちゃんもかまかけられて全部げろってんの見たことあるわ……」
やばい。雪ノ下さん怖い。つーか雪ノ下家が怖い。
何が怖いって髪の毛は間違いなくあの時に本当に着いたものだ。
もし今後仮に万が一まかり間違って何の因果かによって三船さんと会うことがあった場合、物的証拠を少しでも残すことはこの名探偵を前にすれば全てをつまびらかに説明するようなものだろう。
まあ、そんな機会はないんだけどな…
部屋着に着替えてテーブルへと腰掛けると雪ノ下がグラスへ発泡する淡い黄金色の飲み物を注いでくれた。
「シャンパン…?」
「ええ、今日は特別な日だもの…、正式に交際することになってちょうど1年。だからあなたもケーキを買って来たのでしょ?」
「当然だ」
俺のできる一番キリッとした顔で即答した。
まさかご機嫌取りのために買ってきたなどと知られたら……即入籍もあり得るぞ……
「それであの…、秘密にしないといけないから指輪とかは着けられないじゃない?」
「まあ今どきファッションで指輪をすることも多いし別に平気だとは思うがな」
「それでも私が輪廻に渡ってあなたのものであるという実感が欲しくて…」
ふっ、重い。
来世まで付き合うことになってるじゃん。
そう言って雪ノ下が部屋の片隅に置いてあった紙袋から取り出したのは、いつの日か由比ヶ浜にプレゼントしたことのある例のモノであった。
と言ってもあの時は由比ヶ浜が首輪とチョーカーを勘違いしていたが今回は勘違いではない。
雪ノ下はそのチョーカーを俺に渡すと、髪を手で纏めうなじを見せつけるように背を向けた。
「あなたに着けて欲しいの……」
あくまでチョーカーはアクセサリーだ。そこについている宝石が永遠の絆・純潔・永久不変の石言葉を持つダイヤモンドだったとしても。
なのに、そのはずなのに。なぜか手が動かない。
まるで奴隷の首輪のように、これを嵌めてしまうとその瞬間に運命が決定されてしまうように思えてならない。別の意味でハメるとかいうボケも全然笑えない。
着け方が分からずに戸惑っているのだと勘違いした雪ノ下によって外された金具を両手に持ち、そのまま眼前の白い首へとゆっくりとまわしかける。思わずゴクリと息をのんだのは雪ノ下か俺か。
「嬉しい」
雪ノ下の首元でキラリと光るチョーカーを俺は直視することが出来なかった。