それは欧州の北方にあるキトスグラードという街でのこと
僕の母は肺蝕病という不治の病いにかかり、死んだ
それを見捨てた冷たい父が嫌で僕は家業を継がず医者になった
やがて父も死に、僕のところに一通の手紙が残された

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手紙

 

 

 あの時から僕は父が嫌いになった。

 

 それまでは自慢の父親であり、むしろ大好きだったのに。

 

 僕と父はよく一緒に馬鹿をやって遊んでいたものだ。泥団子を作ったりいたずらを仕掛けたりもした。今から考えると父は僕の成長に合わせながら、共に楽しんでいた。休みの日には大河まで出かけて釣りをしたことも多い。あまり釣れることはなかったけれど僕は父と二人でいるだけで心地よく、いろいろな話をしたのも懐かしい。

 

 だけどそれらは黒い記憶によって塗りつぶされた。

 

 父がまさかあんな行動に出るなんて!

 

 母が病院で苦しみ、息を引き取るその瞬間に立ち会いもせず、家にいたとは!

 信じられない。

 しかも父はのっぴきならない事情があったわけでもなく、それどころか下らないことをやって時間を潰していたのだ。いくら父が大工だからといって家にのんびり壁材を塗っていたなんて。

 母が大変な時だというのに、そんなどうでもいいことを…… やっていいはずがない!

 

 

 

 ああ、母は病いで死んでしまった。

 

 僕が小さかった時には、母はとても快活で働き者だったと思う。大きな洗濯かごを抱え込んで小走りする姿などが今でも記憶に残っている。

 

 しかし母は僕が八歳になる頃に病気になってしまったのだ!

 それはありふれた病気で、たぶんこの街の二十人か三十人に一人くらいはそれに罹って死んでいる。

 

 その病気の名前は肺蝕病だ。

 

 発症すると呼吸がしにくくなり、無理に激しい動作をすると倒れてしまう。症状が進行していくとだるさから起きることもできなくなる。やがては発作を繰り返して死んでしまうのだ。

 治ることはない。

 だいたいは発症から五年もしないうちに死に至る、そんな恐ろしい病なのだ。治療法はまだ見つかっていない。というのはそもそも原因がはっきりしていない。

 

 母の病いもまた数年をかけて進行し、やがて一時間立っていることもできず、家の中でやれる家事しかしなくなった。

 僕の記憶にある母の大半はのろのろとした動作のものでしかない。

 

 

 だが母は僕と父をとても愛してくれた。

 

 その微笑みは動作が遅いことなど帳消しにしても余りあるほどの価値に感じられた。

 

「ごめんなさいねケレンド。今日は体が重くてお弁当を作ってやれなかったわ…… 本当にダメね」

「いいんだ母さん。それよりもゆっくり休んでいてよ。弁当なんて途中でパンを買えば済むだけだから、母さんは無理しないで」

 

 そして母は僕にせめてできることをしてくれたものだ。

 よくベッドの上から手で僕の髪を漉いてくれた。

 

 その指はとても柔らかく、優しく、どれほどの愛情が込められているものか分かり過ぎるくらいに分かるものだった。

 今でも僕はそれを思い返すと涙ぐんでしまう。

 

 そんな母さんは発症から十年目に死んだ。この病気にしては例外的に遅いものであったが、やはりその牙から逃れることはできなかったのだ。実は家に飼い猫が一匹いたのだが、母と同じ時分にやはり肺蝕病のようになっても結局母より長生きして天寿を全うしたのは皮肉としか言いようがない。

 

 

 とにかく父は母の死に目にも来ることはなかった。これは事実だ。

 

 そのことは親戚中が知るところとなり、葬式の間じゅう非難の大合唱を父に浴びせていたのだ。父は何も言い訳せず沈黙したままだった。

 

「亡くなったポサダが可哀想だわ! あんなにいい人だったのに、とんだ旦那と結婚したものね」「ああ、たぶん肺蝕病になって働けないから邪険にされていたんだろうな」「酷い仕打ちだ。しかし愛情がなくっても最後くらい病院に来るだろ。普通なら」

 

 味方は父さんのただ一人の兄弟くらいなもので、他の親戚はみなそんなものだった。そして僕はというと非難に耐える父を可哀想に思ったりするわけがない。

 親戚以上に僕は父に対して非難の目を向けていたのだから。

 

 

 

 母が死に、間もなく僕は自分の進路を医者に決めた。父の家業である大工を継ぐことはなく医者になるのだ。

 

 目的は一つしかない。

 肺蝕病を治す方法を見つけるという無謀過ぎる夢を抱いて生きる。

 一応学費を出してもらう関係上、父に通告だけはした。

 

「父さん、医科大に行くよ。できたらこの街の医科大に行く」

「…… 分かった」

 

 父からの返事はたったそれだけだった!

 家業を継いでもらえなくて残念という感じは窺えない。

 父は僕に対して何も期待していなかったのか。あるいは関心すら無いのか。

 

 

 

 

 僕はこの街、キトスグラードの医科大に進み、無事に卒業した。

 そこからは主に研究生活に入る。

 ついに念願の肺蝕病との戦いだ!

 

 ちなみにこのころまで肺蝕病について分かっていることは幾つかある。

 

 一つは肺に炎症が起きるのが最初であり、やがては肺の壁が分厚くなっていくのだ。そうなると呼吸しても酸素を取り込めない、つまり肺の機能が失われる。それは主に顕微鏡の研究によって明らかにされた。

 しかしこれは当たり前といえば当たり前だ。

 体のどこの場所でも炎症というものが起これば、先ずは腫れて赤くなる。それが治まってくると、次に体は壊れてしまった組織を修復にかかるものだ。

 どんな炎症でもこの修復時に問題が起きやすい。硬くて何の機能もしない組織がいち早くそこを埋めてしまいがちなのだ。つまり体は手っ取り早く隙間を塞ぐ方を選んでしまい、機能を二の次にしてしまう。これが繰り返されればその器官はやがて機能しなくなる。

 肺蝕症はたまたまそれが肺で起きたというだけに過ぎない。

 

 肺蝕病を何とかするには、始めに肺へ炎症を引き起こす原因を知らなければならない。

 それを突き止めるのが最大にして唯一の鍵なのだ。

 

 実はそれについても若干の研究が進められている。

 この医科大は設立が古いため病人のデータが多く蓄積されているのが役に立つ。

 それによると街の発展と並行するように肺蝕病の病人が如実に増えているのが分かるが、しかもそれだけではない。

 街にただ一つある()()()()()の拡充と並行するように増えている!

 それがまだ無い時代にはこの病気も無かったのだ。

 

 

 中央蒸気炉とは、その名の通りキトスグラードの街の中央にある巨大な燃焼炉である。

 そこから工場や各家庭の隅々に蒸気が引かれている。

 

 本来からいえば北ヨーロッパのこの地は人が住むには寒過ぎるかもしれない。

 しかしここから蒸気が供給されているおかげで少なくとも家の中は快適だ。手軽に煮炊きすることもできる。しかも蒸気によって得られる恩恵はそれだけにとどまらず、蒸気の圧力を動力に変えることによって粉挽きもできれば洗濯釜も動かせる。

 つまり農村部よりずっと文明的で楽な生活ができる仕組みだ。

 

 ただし良いことばかりではない。

 

 どうして各家庭で燃やさずに中央蒸気炉に頼るのか。

 それはこの地にいくらでもある泥炭を燃やすためである。泥炭は石炭の一種とはいえ、炭化の程度が低いため非常に燃えにくく、巨大な炉を使って一日中火を入れ続けることによってようやく燃やすことができる。

 

 泥炭は燃やすにも不便な性質があるが、おまけに燃える時に大量の煙を出す。

 それが中央蒸気炉から常に吐き出されるので街はいつでも燻っている。

 

 昼間に上を見上げても太陽の輪郭ははっきりしない。よほど郊外に行かなければすっきりした青空を見ることは叶わない。

 更に、空気の湿りやすい朝方なんかは「酸の霧」がたちこめることもしばしばだ。

 これがまた厄介なものなのだ。視界が利かなくなるばかりではなく、家に入り込めば金属を瞬く間に錆びさせてしまう。だからこの街では食器類もガラスか木のものでなければならない。

 

 

 

 そして皆は薄々気付いている。この酸の霧が肺蝕病と関係することを。

 

 僕もこの酸の霧が肺を傷つける原因として最も怪しいと見た。

 研究を進めていき、中央蒸気炉の拡充そのものではなく、正確には燃やされる泥炭の量が発症数に比例することを突き止めた。

 

 この研究成果が認められ、僕は大学の正式な職員になるとともに若干の研究費を得た。

 

 いよいよ酸の霧が肺蝕病の原因だと完全に証明してやると意気込んでいたのだが…… 研究は思わぬ壁に当たってしまったのだ。

 大学では病気を治す部門や実験をする部門が幅を利かせ、僕のように地道な調査という手法をやる人間は肩身が狭い。別に積極的に邪魔をされるわけではないのだが、かといって応援してくれることもない。それぞれの部門は自分のところこそ至上という自負が強すぎて他には驚くほど無関心なのだ。そのため実際の患者への聞き取りに便宜を図ってもらえることはなく不充分なものとなった。

 

 

 かといって既に亡くなった人間についての聞き取り調査はもっと難渋を極めてしまう。

 もちろん亡くなった人そのものではなくその家族のところに赴いて話を聞き出すのだが……

 

「キトスグラード医科大学のケレンド・スキールと申します。亡くなられた奥様についてお話を伺いたいのですが」

「あ? 今さら何だ!! 助けられもしなかったくせに!」

「…… お悔み申し上げます。そこで肺蝕症を研究し、根絶する上で是非ともお聞きしたいことがあるのです」

「研究? お前なんかの研究? 出世のネタにでもするつもりか! 帰ってくれ!」

 

 本当に楽しいものではない。

「今さら何よ、お金ばかりかかって夫は治らなかったじゃない!」、「娘を返せ!」、訪問したとたんそんな言葉ばかりを投げつけられてしまうからには。

 

 しかし、肺蝕病の患者が病院に来た日付ではなく、()()()()()()()()()()()()()()()()を知らなければ研究は先に進めない。

 それらと、酸の霧を作り出す天候や風向きをきっちり対比することで、確実な証明が得られるのに。

 

 

 

 僕はそのために訪問を頑張って続けていったのだが、ある時一人の天使に出会った。

 

「ケレンド・スキールと申します。昨年亡くなられたハトン・キンスキー氏について是非ともお聞きしたいことがありまして」

「私は娘のナタリアです。父のことですね。何なりと」

 

 ナタリアという娘は拒むことはなく、かえって積極的に調査へ協力してくれた。

 そのナタリアは美しく、しかもそれだけではなく聡明だった。驚いたことに僕の研究の意義も素早く理解してくれたのだ。

 よくよく話を聞くと、ナタリアは間もなくキトスグラード医科大学を受けるらしい!

 僕と同じように、家族の命を奪った肺蝕症を根絶したいという志を抱いて。

 

 そして運命はまたしても素敵な出会いを用意していた。

 

 今度は外で僕とナタリアはばったり出くわし、ランチを共にしたのだ。

 その上ナタリアが大学に入った時、僕のところで研究助手のアルバイトをしてくれるように頼んでしまった。自分でもずうずうしいと思いつつ、勢いで言ってしまったのは僕が既に熱に浮かされていたのだろう。

 

 

 

 その後ナタリアは本当に研究室に尋ねてきてくれた。

 ナタリアの薔薇色の頬とブロンドの髪を見た時、どんなに胸が高鳴ったことか!

 

 そして僕はいよいよ恋に落ち、時が過ぎてナタリアもそれを受け入れてくれた。

 

 

 婚約の話が出る。

 僕はもう嬉しくてたまらない! しかしながらナタリアの言うことにたった一つ僕が肯定できないことがある。

 

「婚約の前にしっかりあなたのお父様と話をしなくては…… いくら何でもこのままじゃいけないでしょう」

「ナタリア、それは必要ない! いいんだあんな奴。僕だってここ何年もろくに話をしたこともない。それにあいつは長く出かけることも多くなったし、頼まれた大工の仕事だって真面目にやっちゃいないらしい。注文通りに作っていないって評判が僕のところまで来ているくらいだ」

「それでもお父様はお父様よ。たぶん奥様を失くされてショックが大きかったのよ」

「ショック? あいつが? そんなはずはない。僕も母も愛してなんかいないのさ」

 

 するとナタリアは僕の反発を無視して、諭すように話してきた。

 

「ケレンド、そういうふうに言わないで。絶対にそんなことはないはずよ。話を聞く限りとても愛情のあるお父様だと思うわ」

「だって、あいつは!」

「話し合わなければ、何も分からないでしょう?」

 

 

 

 だがしかし、ナタリアとの婚約を父に話すことは絶対にできなくなった。

 間もなく父が死んだのだ。

 

 それは事故死なのだが、何とそれが起きたのは中央蒸気炉だった。

 僕が知る由もなく父は頻繁に中央蒸気炉に通っていたらしい。

 

 中央蒸気炉には加熱を要する産業用途のために釜のようになっている部分が設けられていて、誰でも使えるようになっている。

 どうも父が通っていた理由はそこで生石灰(ライム)を焼くためのようだった。

 生石灰(ライム)というものは焼くと砕けて、サラサラの粉になり、それを水とあわせて練れば真っ白の壁材になる。

 それはこの街でもそれほど珍しいものではない。貧乏人の家は外壁のレンガが剥き出しになっているが、金持ちの家はレンガの外側にこの壁材を塗っていることがある。レンガは外の冷気で凍結を繰り返すとぼろぼろに風化してしまうものだが、この壁材はしなやかさがあるのでそれを防ぐ働きをするからだ。

 

 確かに父はこの壁材がとても好きらしかった。

 

 しかし若干度が過ぎていて家の内張りまで塗ることも多かった。

 この街にある家ではほとんどの場合内張りにレンガは使われず、温もりのある木材が張られている。それなのに内壁の木にまで無駄に壁材を塗るのは酔狂としか言いようがなく、ありがた迷惑なことだ。

 中央蒸気炉に父が通い詰め、そして泥炭を炉にくべる貨車が脱輪して落下する事故に巻き込まれてしまったのは、自業自得の面がないわけでもない。

 

 

 

 僕は無表情で父の葬式を済ませた。

 するとその終わりがけに父の弟、つまり叔父さんが僕に一通の封筒をよこした。

 

「何ですか叔父さん、この封筒は」

「これはな、兄貴から以前渡されていたものだ。何かあったらお前に渡すように言われていた」

「え? わざわざ父がそんなものを? どうして」

「お前と顔を合わせると話ができないんだろうよ。心当たりがあるだろ」

「……」

「手紙に何が書いてあるかは知らないが、伝えたかったことがあるんじゃないのか。以前から言おうと思っていたが兄貴はお前が考えているような奴じゃない。ぶっきらぼうかも知れないが、少なくとも子供を本当に嫌いになるほど冷たくない。それだけは言っておきたかった」

 

 そして僕の手には封筒だけが残された。

 

 確かに叔父さんの言う通り、僕と父が顔を合わせたら喧嘩にしかならない。また生前に手紙をよこされても読むことはなかったろう。

 

 父が手紙に残してまで言いたかったことは何か。

 

 たぶん書かれた中身は謝罪なのだろうな。

 それぐらいしか考えられない。

 母に対して冷たい仕打ちをしたことへの。また僕との関係が冷え切ったことに対しての。

 叔父さんの言葉じゃないが、思い返せばそんな節があった。

 

 しかしもう今さらだ。

 全ては済んだことでしかない。

 

 僕は葬式の後処理に忙しく、封筒を開けることもなかった。

 

 

 

 

 そして僕はナタリアと婚約した。

 

 結婚も間近に控えたある日、二人は幸せからどん底に叩き落とされてしまった。

 

 ナタリアが、肺蝕病を発症してしまったのだ!!

 

 どうして、何かの間違いだ。

 可愛いナタリアがよりにもよって肺蝕病とは!

 

 何という残酷なことだろう。

 こんなことがあってたまるものか。僕が代わりになってあげられたら良いのに!

 ナタリアを失うくらいなら僕は百回死んでもいい。

 

「ごめんなさい…… あなたとは結婚できないわ。ケレンド、婚約は解消して」

「そんなことは言わないでほしいナタリア。結婚はする。二人で病気と闘おう」

「無理よ…… 結婚しても私は重荷にしかならない。そしてあなたはいずれ一人になってしまうわ。それなら別の人と幸せを掴んでほしい。お願いよ」

 

「結婚しようナタリア。僕は重荷だなんて決して思わない。それに今別れても、僕は君以外の誰とも結婚しない! ナタリア、君としか結婚するつもりはないんだ」

「ああ、ケレンド。とても嬉しい。本当は怖いのよ。だけどあなたの時間を無駄にしたくない」

 

 ナタリアは僕のことを思って身を引こうとする。

 だがしかし、僕は絶対の意志をもって押し切り、ナタリアと結婚した。

 

 

 

 二人だけでささやかな結婚式を挙げ、ナタリアは僕の家に来ることになった。

 

 本当はこんな複雑な思い出の沁みついた家でない方がいいのだろうが、幸か不幸か父が内張りを度々塗り替えてしまっているので色も雰囲気も以前のものではない。

 そして僕はナタリアを迎えるために家具の廃棄などの作業をしていたら、すっかり忘れていた父からの封筒が出てきたのだ。

 

 僕はそれを開けて読むことにした。

 別に読みたくて読むわけじゃないが、捨てるために一応目を通しておこうと思っただけだ。

 

 

「ケレンド、この頃はすっかり話をすることもなくなったな。いや、顔を合わせることすら少ない。お前は母さんが死んだ時のことでわだかまりをもっているのだろうが、あの時のことは本当に済まないと思っている。そしてお前が医科大を志したことはとても誇らしく思ったものだ。母さんの命を奪った肺蝕病を根絶したいのは俺も同じだからな。実はこの手紙はそのために書いた。俺に何かあっても必ずお前に伝えておくべきことがあるからだ。よく読んで理解してくれ。先ずお前は飼い猫のマルメを覚えているだろうか」

 

 何だろうこれは!

 予期した内容とはまるで違う。

 肺蝕病についてのことと思えば、次に猫の話だとはわけが分からない。

 

「マルメも母さんと同じように肺蝕病になった。しかしあれほど長生きしたとは不思議なことだ。そしてマルメを見ていると、なぜか壁材のところにばかり擦り寄って、そこを寝る場所にしていた。いくら動かしてもすぐに戻るんだ。だから俺には気付くことがあった。それに何か意味があるんじゃないかと。そしてあの壁材は普通レンガに塗るものだが、東洋の島国では家の内張りの木にも塗ることで快適に過ごす、そんな話を聞いたことがある。だから俺は藁にもすがる思いであれを家の内張りに塗ったんだ。母さんが退院してきたらそこで過ごせるように…… そしてマルメと同じく、病気がいくらかでも治まるように。そんな前向きの作業でもしていないと気が狂いそうだった。しかし結局母さんは病院から家に帰ってくることもなく、何の甲斐もなかったが」

 

 事実は…… そうだった。

 

 父さんは母さんを見捨てるどころか、愛しているがために一生懸命そんな作業をしていたのだ。何とか病気を良くしたいため、わずかな可能性を求めて。

 僕は誤解していた。

 父さんは冷たいどころか溢れるほどの愛を持っていたのだ。母さんに対しても、おそらく僕に対しても。

 母さんを失った苛立ちを父に向けてしまった僕にはそれが見えなくなっていた。

 

 呆れ果てる。自分の馬鹿さ加減に。

 

「母さんが死んでからも俺はその壁材に本当に効果があるか調べていたんだ。大工を続けながら、こっそり内張りにそれを塗ったりしていた。迷惑がられることも多かったが。しかしやっぱり、あの壁材に肺蝕病を防ぐ効果があるようだ! それを塗った家には肺蝕病が少ない。このことをお前にぜひ知ってもらいたかった。ケレンド、お前の力で広めて、少しでも肺蝕病を減らしてくれ。頼んだ」

 

 父さんは医者ではないが、父さんなりに肺蝕病を何とかしようと頑張っていたのだ!

 そして何と僕よりもずっと先を行っていたなんて。

 

 

 僕はこれらの知見を直ちに世間へ発表した。しかし家の壁と病気の関係なんて奇天烈にしか思われず、当然反応はかんばしくない。

 

 ただし僕には立証の方法が残されている。しかも僕自身にとって素晴らしい方法でもある。その壁材がふんだんに使われている我が家にナタリアを迎え入れて住んだ。

 僕とナタリアがいつまでも幸せに暮らすことを願いつつ。

 

 すると、ナタリアの肺蝕病が進行することはなかった!

 若干の制限はあるが、明るいナタリアのままで共に生涯を生きることができた。

 

「あなたのお父様に感謝しましょう。お父様の愛と願いは無駄になることはなかったのよ」

「ああ、その通りだ。肺蝕病を倒すのは結局…… その二つだった」

 

 

 

 

 

 

 __ キトスグラード医科大学の構内に小さな碑が建てられている。

 

 

 肺蝕病撲滅の偉大な立役者、ケレンド・スキールとナタリア・スキールの夫婦の名が刻まれて。

 

 あの生石灰(ライム)を焼いた壁材は広く普及し、肺蝕病を大幅に減らすことができた。後の研究で分かったことには生石灰(ライム)を焼いてできた消石灰、つまり水酸化カルシウムが酸の霧を吸い取って中和していたせいだった。

 ついには中央蒸気炉の排気口そのものに消石灰による浄化装置が取り付けられ、肺蝕病は根絶された。

 

 

 あれから二百年経つ今日でも壁材についての発見のエピソードは広く知られている。

 だが今では科学的な意味よりむしろ別の意味で教訓とされている。

 

 家族は話し合った方がいい。

 誤解を解かなければ無駄に年月を費やすことになる。

 

 

 

 

 

 

 


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