おやすみラッピー   作:錫箱

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第一話:異邦1097年のクロックワーク

ボクがいた。名前はラップランド

 

 

 第一話/異邦1097年のクロックワーク

 

 普段ボクを側に置きたがらないドクターから急に呼び出しを食らうなんて、よっぽどろくでもないことの先触れに違いない。この身に巡る血が静かに尖っていくのを感じる。

 蝋の滴るような夏の、蒸し暑い日のことだった。

 少し遅いランチのトレイに最後までへばりついていたベーコン(ゴムの下敷きだったかもしれない。ある一定の精神状況下において、両者にはたいした差異がない)を噛みながら、ボクは食堂に隣接している売店で三文芝居的な林檎を一つ買った。店員はこちらの姿を見るやレジ奥に引っ込んでしまったから、代金とポケットに入っていた磁石をカウンターに置いて、それで買ったことにした。

 

 ロドス──偉大な体躯を以て荒地を征する方舟(アーク)──その体内に網目のように張り巡らされた血管たる通路を歩きながら食べる三文芝居的な林檎の味は、さほど三流役者というわけでもなかった。世に満ち満ちたフィクションの中にあって、この、皮を歯で断ち切る音と感触、そして果汁の刺激だけが現在のボクの持つリアルであり、あとのものは大抵芝居か、記号か、あとは死んでいるものたちだった。そしてこの林檎の「芯」を定義してしまえば、いずれこのリアルも思い出になって死んでいくのだろう。ボクの知ったことではない。

 生命に繋がっている行為以外に、もはや信ずるに値するものはない。最近、そんなところまでボクは歩いてきていた。だから──この腰に提がった二振りの剣がボクの存在する理由だとするならば──刀身にはいつも新しいリアルが必要だ。遠回りしたくせ、結局陳腐なヴィランだね。

 

「さてと」

 

 一人ごち、しばらく歩くうちに見えてきたエレベーターのドア。ロドスの構造を縦に貫いている、幾つかあるエレベーターのうちの一つで、これは直接「艦橋」……この船の制御中枢など、重要な機能が集中しているセクション……に上がるものだ。ボクの目的地もその「艦橋」にある。

 表示板を見ると、どうやらリフトは制御中枢のあるフロアから下降を始めているようだ。間の悪いことだね。

 ボクは「上昇」のボタンを押して後ろに退がり、ドアとは反対側の壁に寄りかかった。ドアを開いて降りてきた者が何者でも、この間合いなら即座に対処できるだけの余裕があるだろう。

 着く。開く。

 エレベーターの中から出て来たのは……足と、うずたかく積み上げられた本の山と、それを持つ腕だった。

 

「ひょわわ……とと、おち、ない。ふー」

 

 可愛らしい、小鳥のさえずりのような声がその腕と足と、ついでに本の山の持ち主らしい。なにせ象牙の塔が高くって顔が見えないものだから、時折二十度ほどにまで傾く塔の傾斜と相まって、背の低い少女とおぼしきその姿は非常に滑稽だった。

 ふと思い立ち、ボクはその本の山に両手を伸ばして、ズレて崩れそうな部分を真っ直ぐに整えてあげた。

 その時山の陰から覗いた、小鳥のような少女の表情と言ったら! 

 

「失敬……」

「ぴょっ!!?」

 

 頓狂を通り越して、何か一種機械の警告音のような小さい叫び声を上げたハミングバードは、白髪に茶色のメッシュが入った三つ編みと、スカートの裾を翻して即座に走り出した。走って、走って、走って……

 通路の角を曲がってボクの視界から消える頃には、もはや彼女の挙動はボクから逃げるためにあるというより、両腕いっぱいに抱えた本の斜塔の崩壊を抑えんとする心根によって走らされているかのように見えた。それがまた可笑しくって、ボクは閉まりかけているエレベーターのドアを腕で止めながら一人忍び笑いを漏らした。

 

 ──ドアのすぐそばにビニルの小袋のようなものが落ちている。

 ボクはそれを素早く──実に素早く拾い、エレベーターの中に身を滑り込ませた。目的の階を示すパネルをタッチし、揺るぎ始めた足元を感じながら壁に寄りかかる。

 

 ヒトがモノに走らされる──それも、知識の地層たる書物によって走らされる。無限の可能性を秘めた生命の霊長が、極地をも征した無敵の肉体が、オノレから染み出た分泌物の凝りに走らされて……

 

「アハハアハ。ルームランナー」

 

「ラップランド」の乾いた笑い声がマシンの中に木霊した。

 それでボクはキゲンヨシに水を差されたような気分になって、ふと手に持ったままだった、さっきの小さなビニル袋のことを思い出した。

 手のひらに収まるほどのその包装には、数枚のチョコレート・クッキー、ピンク色と赤色のキャンディが二つずつ、そして白い紙が一枚入っているようだった。

 胸のうちを一陣の細い寒風が吹き抜けるのを感じながら、ボクは袋をひっくり返してみる。紙の裏側には丸っこい文字でこう書いてあった。

 

【To Ifrit from Dr.&Snowsant】

 

 エレベーターはボクの意識をたぶらかしつつ、ヒトが向かうべきでない方向へと向かっていた。

 すなわち上へ、上へ、上へ。

 

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 ほら、あれがドクターだ。この舟の主の一人であり、世界が患う病(鉱石病)への救済。でもその姿はまるで、かつてあった戦争の、痩せ細った影のようだね。

 壁の一面を席巻するほど大きい窓を有するにも関わらず、薄暮のように弱い光源しか感じられない「ドクターの執務室」には、暗さからくる閉塞感に倍する圧迫が満ちていた。

 

「それでドクター……ボクを呼んだのはまさか、そちらにおわす、我らが敬愛せしケルシー医師『様』に小言を賜るためなのかい?」

 

 ボクは、この執務室の最奥のデスクに陣取っている「ドクター」のシルエットではなく、その脇に立っている、異形の魂を備えた女を見据えた。まるで熱を感じない眼光の反射がボクを迎え撃つ。

 

「ラップランド、結論を急ぐな。お前の素行と健康状態に対しては、以後も医療部及び人事部の適切な対処とカウンセリングが行われることだろう。私の直接関わるところではない。既に判っているはずだと思ったが。よもや、先ほどニ、三挙げた『挨拶』が小言だと思ったのか? 私の……指導はこんなものではないぞ」

 

 これだ。これだからこの女は。ボクはあからさまに肩を竦めて見せながら内心で唾を吐く。トゲ、理論、追撃、牽制。一つ口答えして遊ぼうとすれば全てセットで返ってくる。この美と暴力性の両立をバラと呼ぶのなら、今頃あの調香師(パフューマー)の花園はコキュートスにも等しい悪意の輪だろう。

 

「何か言いたげだな」

「別段主張はありませんよ、ケルシー医師。さあ、ご用件を伺いましょう」

 

 ボクは腰を折り、腕を差上げて非常に紳士的なムーヴを行った。床が見える。あの怪物女の「腕」でこのタイルに頭を打ち付けられたら、ラップランドの内側がボクにも見えるかな? 

 

《休暇だよ、ラップランド》

 

 顔を覆うフードとフェイスガードに阻まれた「ドクター」のその声は、男とも女とも、若者とも老人ともつかない奇妙な反響をボクの耳に届かせた。

 ボクは紳士的な構えを解いて、ゆっくりと髪を掻き上げた後、腰にある剣の柄に肘から先を載せた。

 

「今なんて言ったのかな? ドクター。聞き違いでなければ──」

《休暇だ。君に短期間の休暇を与え、その間ロドスから一時離れてもらう》

「……そう聞こえたね」

 

 

 なんてことだ。

「現在この舟がどこへ向かっているか知っているか? ラップランド」

 ケルシー医師の氷の涯のような声が問いを投げて寄越した。ボクは痒くもない耳をかっぽじって視線を天井に向け、それから窓の外を見た。苛烈な陽光の下に、クリーム色の荒地が延々と広がっていた。空は白く、かげろうは地平にあまねく立ち昇る。

 

「さあね。でも、このとてつもない枯渇から察するに、アナタの故郷か何か──」

「観光都市・シエスタだ」

 

 にべもなくケルシー医師は言ってのけた。

 

「はン、寝惚けた名前に相応の異名が付いた街で」

 

 シエスタという名前には覚えが……あるにはあった。確か「ビーチ」だったかな? 降り注ぐ白日(サンシャイン)と押し寄せるさざなみ、陽気な音楽。さぞ寒々しいことだろう。ボクはそっと身震いをした。

 

「で、そのシエスタに何の御用なのかな、ドクター?」

《言っただろう。休暇だよ。若い子たちの気晴らしに行くのさ。ミュージックフェスにバーベキュー、昼はビーチで夜はプール。最高だろ》

 

 ボクは三秒ほどかけてまばたきをし、その倍の秒数息を吸い、同じだけ吐いた。

 

「この船はいつからヒッピーのキャンピングトレーラーになったんだっけ? あのクソ騒がしいノーテンキ(能天使)がロドスと長期契約を結んだ時から? それとも甲板によく座ってる麗しのセイレーンがあの村から帰って来てからかな?」

《そうかもな。だがたまにはそういう……ハイ・タイムズも必要だと思うんだ》

「たまには、ね。そう思うんだったらボクの病室とアイツのパーティー会場を一キロメートルは離しておいてくれるかな。ボクが『たまには』の例外に週四回悩まされないようにね」

《ケルシー先生》

 

 ミス・ケルシーがボクに同情らしい目を向けたように見えたことは過去に一度だってなかったような気もする。そして今これからも絶えるだろう。

 

「400メートルならばすぐにでも手を打とう」

 

 果たしてラテラーノの神は我が安眠を祝福したものかな。

 で、だ。

 

「さて、生活環境と……健全な精神活動のための改善が期待されたところで訊きたいんだけれど、ボクをそのシエスタとやらに引っ張って行くつもりなのかい」

《いいや?》

 

 ドクターは当然のように首を横に一度振った。

 

《君のような存在はあらゆる意味であの街には不釣り合いだ。君の『休暇』には、もっと相応しい場所がある。そうだろう》

「そうでもないさ。ヒップホップにラップ、ダンスミュージック。ボクも大好きだよ。♪ 『Hey,You.This song is POP』♪ ──これは違ったかな」

《ラップランド》

「……嘘ではないんだけどな」

 

 執務室の隅のダストシュートまで歩いていって、ボクは上着のポケットの中にあったものを捨てた。つい先ほどリンゴの芯と定義された残骸は、金属製のダクトを湿った衝撃音とともに転げ落ちていき、ボクの過去ですらなくなった。

 ボクはケルシー医師とドクターに背を向けたまま両の手を広げた。

 

「さあ、キミ曰くの『殺し屋ラップランド』だ。そのボクに何をさせたい? 休暇……いつも通り病室でクロスワードとジェンガでもやってればいいのかな? そうでなければさっさと命令してよ。ボクがゴミ箱に独り言投げてる間にさ」

 

 残念ながらボクの問いに対して背後から聞こえてきた声は、ケルシー医師のものだった。ドクター、そういうところだよ。肝心な場面でしょっちゅう「…………」だもんね、キミは。

 

「お前に与えられたのは間違いなく休暇であり、任務ではない。期間は一週間、場所は……シエスタにほど近い集落だ。だった、と言うべきかな。現在住民は存在しない。数年前に移住したようだ」

 

 ボクは挙げていた手を下ろした。

 

「アレは思ったより悪くない味だった」

「シエスタへの中継地点であり、小規模とはいえ工業を生業とする者たちの住居群でもあったこの廃棄集落には、旅客用の施設もいくつか存在する。ロドスとの契約下にあるトランスポーターが十八日前に現地を訪れた際の報告によれば、各種インフラはすぐにでも復旧可能なようだ」

「…………」

「シエスタへの旅程は以前から計画されていたが──我々はこの機に調査隊を組織・派遣し、廃棄集落に存在する工業施設の視察と、物資サルベージを行うことにした。ラップランド、お前にはこの調査隊に加わってもらいたい」

 

「へぇ、それが休暇かい」

 ボクは「休暇」の部分をことさらに強く発音し、ゴミ箱に背を向けて二人の医師へと向き直った。

 

「物資サルベージ? ゴミ拾いのお供がどうしてバカンスになるのか、納得のいくように説明してほしいな」

《いいだろう》

 今度こそドクターが喋りだした。

《先にケルシー先生が言った通り、この廃棄集落は既に無人であり、危険──感染生物や武装団体の活動、天災の予報といったことだけどね──も報告されていない。ラップランド、君は確かに調査隊の護衛という立場にはなるが、「万が一」に備えての派遣だ。常時戦闘態勢を取る必要はない。シエスタに行くオペレーターたちと完全に同じ扱いだ》

「……まるでシエスタで何か起こるのがわかってるみたいだね」

 

 ドクターは椅子の背に深くもたれ、腕を頭の後ろで組んだ。ケルシー医師が咎めるような目で見ているのもお構い無しだ。

 

《リスクの話をしてるんだ。どこの世界に「100%の安全」がある?》

 

 少なくとも、今までのボクの仕事相手は安全な世界にいるさ。

 

「ラップランド、お前にはこの調査隊入りを拒否する権利がある。が、拒んだ場合は当然ロドス艦内に留まってもらうし、特別手当の龍門幣もない。お前自身が言った通り、個室でクロスワードとジェンガをしてもらうことになるが」

「もしくは首輪とリードつきでシエスタの砂浜をお散歩かな? ボクはそれでも一向に構わないけどね、ケルシー先生。普段アナタたち医療部の皆様が『危険物』に強いている扱いと対して変わらな──」

 

 ボクはそこで口をつぐんだ。十数メートル向こうに立つケルシー医師の体から、何か金属質の……モノが軋むような音が聞こえたからだ。

 ケルシー医師の体内に影のように潜む「あれ」の長大さと素早さ、鋭さ、狂暴さをすべて知り尽くしているわけではない。以前に一度、あれを目の当たりにした時は……

 よく覚えていない。数ヶ月前、とある殲滅作戦のブリーフィングの時だったか。今みたいに口を滑らせた結果、あれが「出現」した。その時ボクと彼女の距離は数十センチかそこらのはずだったが、気がつくとボクは十メートル飛び退いていたらしい。

 言い方を変えよう、その瞬間、ボクはケルシー医師を中心とする半径十メートルの円内に身を置くことを無意識に回避したんだ。

 つまり、それくらいの脅威だ。刀を抜いたって生き残れる保障はないし……金を貰ったってもう一度見せられたくはないくらいには、見るに堪えない代物だしね。胃液モノだ。

 

 で、今の音には聞き覚えがあった。だからボクは賢いラッピー(PAPPY)のように押し黙って、小さくお辞儀したのさ。

 幸い、今回はドクターが彼女を制してくれた。

 

《二人ともよしてくれ。休暇前に始末書沙汰は御免だ》

 

 今度は音もなく、ケルシー医師は「矛」を納めたようだった。あの年増、意外と激しやすいところもあるのか? いつも表面上は鉄の棺のようで、ボク以外の者に直接的な害意を示した場面をついぞ見たことがないけれど。希少な機会を誘発できたのだとしたら、日々磨いてきたボクのこの、ユーモアのセンスもなかなか捨てたものじゃないかもしれないよ。ラップランド。

 

《ともかく、シエスタ行きが嫌なら──嫌だろうね──君の休暇の行き先は自室か、この素敵な町のコテージだ。さあ、どうするかな? ラップランド》

 

 キミは卑怯だよ、ドクター。それでこそボクの×。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 明朝一一○○にブリーフィング。でもってそれが終わり次第出立だそうだ。まったく、なんと慌ただしい追放だろう! おそらくあと二十四時間未満で、ボクは望みもしないバカンスに追い込まれようとしている。休暇! 

 ワインもダメ、ミルフィーユもダメ、残された選択肢はサンシャイン・ビーチ・シティ、もしくはゴーストタウンのコテージだ。作戦行動中、何度か「ドクターの指揮によって上空から投下された遮蔽物で侵攻ルートを塞がれた敵機動部隊の連中」を見かけたことがあるけど、不憫さにおいては今のボクとさして変わらないのではないかな? 回れ右、袋小路、ルート変更。全部彼の手のひらの上だ。

 

「大丈夫、ボクはキミが思ってるよりずっとしぶといさ。ドクター……」

 

 ボクはロドスの最下層へと墜ちてゆく鉄の箱の中で呟いた。

 長い長い下降を終えたエレベーターのドアが開くと、まずまばゆい照明に照らされた真っ白なサイエンス・フィクション的通路が目に飛び込んでくる。続いて、上層部に比べて設定温度が数度は低い空調の風がボクの肌をよそよそしく撫でる。

 ここは……そうだね、ロドスの「病院船」としての役割を最も色濃く表すセクションだ。ロドスはまず第一に製薬会社であり、次に鉱石病を源とする紛争に介入し鎮圧するための武装組織であり、最後に哀れな鉱石病患者のための憩いの家であるという。

 ボクがロドスを最初に訪れた時、まず案内──というよりは連行──されたのも、この階層だった。船内にいくつかある病棟の中でも、ここは特に重篤な患者が取り扱われる場所であるらしい。

 

 さて、あの子のVIPルームはどこだったかな? 

 人の気配どころか、生物の歴史さえも感ぜられない無機の廊下をあてもなくぶらぶらと歩く。しかし、ほどなくして、その「部屋」が近いことを報せる兆しは訪れた。

 皮膚が疼く。冷たい空調にさらされたボクの肌を、あるはずのない「火」が焼いている。

 何度か曲がり角を通過するたびに、火のイメージは強くなっていった。歩ごとにますます燃え盛るような火。見えず、揺らめかず、何物をも焼かない。ただそこに佇むように在り、ろうそくの芯を燃やしている。

 恐らく戦場で研ぎ澄まされた感覚でなくとも、この通路に充満する火……いや、もうすぐ近く! あのドアだ……あの白い扉から漏れている、見えず触れ得ざる火だ! この火を感じとることは、そう難しくないはずだ。テラの遺伝子が、ボクらに火への恐れを教えてくれている限りは。

 

「Here's Lappy!」

 

 口の中で小さく呟き、恐らく厳重にロックされているであろうドアの前に立つ。

 側にマイク付きのインターホンがあるね。幸か不幸かモニターもカメラも付いていないけど。

 ボクは唇を舐め、そのボタンを押した。

 十二秒数えたと思う。

 

「誰だ」

 

 スピーカー越しに聴こえたその声。たとえ一音節だけ切り取ったとしても、声の主が心の底からこちらを拒絶していることだけは感じられるだろう。

 彼女は「火」そのものだ。精神はともかく、肉体を火に愛される者など存在しない。だから彼女は存在そのものが他者への拒絶に近いんだ。

 

「…………」

 

 ボクは黙っていた。

 数秒の沈黙を経て、まだ幼さの残る少女の声がもう一度。

 

「医療部のヤツじゃ……ないな。ドクターや『センセー』でもない。オマエの影は知らない形してる。誰だ? 答えないと、上の連中にツーホーするぞ」

 

 ……この未熟さに、ここまで強大な力が宿るのか……

 ボクはひそかに歯噛みし、同時に沸く心を抑え、嘆息に似た息を漏らした。物理・アーツ共に並大抵の力では揺らがせることすらできないであろう強固な扉越しに、他者を威圧する──しかも、こちらからは彼女の姿が見えないのに、向こうはボクの影を見ている! 

 火だ。本物の火だ。

 当然のように、ボクは敬意を払うことにした。まずは壁の向こうに恭しく一礼。

 

「これは失礼。ボクの名前は」

 

 なんだっけ? 

 ああ、そうそう。

 

「ラップランド。今日は君にお届け物があって来たんだ」

 

 数秒おいて、困惑したような声がスピーカーを震わせた。

 

「ラップ─何だって? いや、今思い出すからちょっと待ってろよ。えーと……クソ、わかんねぇ。何か用か?」

「用件はさっき言ったよ、ハハ」

 

 笑みが漏れてしまった。

 

「あ? あー。そっか。なんか言ってたな。届け(もん)だっけ」

「そうだよ。ここを開けてほしいな」

 

 それから十秒間もの間、扉の向こうの少女は低い唸り声を上げ続けていた。敵対的なものではなく、単純にボクという来訪者を迎え入れていいものか考えているだけのようだ。

 そうしてようやく返ってきた意味のある音声は、どこか悔しそうだった。

「んー、あー。ダメだ。この部屋に入っていいのはオレサマと、医療部の当番のヤツとサイレンスとドクターと、あと……えーっと」

「ケルシー医師、かい?」

「あ、それだ。よくわかるな。でも、オマエは入れてやれない。悪いけど」

「じゃあ、手だけ出してよ。渡してあげるから」

 

 またも唸り声。

 

「わかった。でもこっちに手を突っ込むなよ。ケイホー鳴っちまうかも」

「まさか」

 

 十数秒ほどして、プシューと空気の抜けるSF的効果音と共に扉は十センチ開いた。隙間からぶっきらぼうに突き出された腕は少し灼けた色をしていたが、その健やかな肌の与える印象とは裏腹に、どこか樹脂のように不透明な無機物を思わせた。

 そして何より、そこかしこの皮膚を破って飛び出した、黒い鉱石の錐形が……大地の×が……

 

「おい、さっさと渡せ。つか、何なんだよモノはさ」

「おっと、ごめんね」

 

 ボクは上着のポケットから例の小袋を取り出して、それを×に溢れた手のひらに乗せてあげた。パッと手が部屋の中へ引っ込む。ボクはわざと部屋の中が見えない位置に立っていた。向こうからもボクの顔は見えないはずだ。

 

「なんだこれ? 食い物……だよな」

「きっとね。そびえるほどの本を抱えたリーベリの少女が落としていったのさ」

「は? あー。もしかしたらあいつかもな。最近サイレンスからよく話は聞いてる。でも、名前覚えてねーや」

「みんなの名前、覚えたい?」

「べつに。忘れたくないだけだ」

「…………」

「言っとくけど、毒とか食えねーもん入っててもわかるんだからな。こないだドクターがおいてったキカイで見ればすぐだ」

「×」

「え? なんつった?」

「何でもないよ。話せて楽しかった。じゃあね」

「え、あー。じゃな」

 

 ボクは早足でその場をあとにした。

 結局、彼女もボクのようではないんだ。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 自室に帰ってみると何もない。朝起きたからにはベッドがあり、昨日とある本を読んだからにはそれがテーブルの上に伏せてあってしかるべきなのに、部屋からはそういった事柄が消え失せていた。

 

「ケルシー先生にも困ったものです」

 

 数時間前まで自室だった空き部屋の中央に立つボクの背後から静かな声がした。振り向いてみると、桃色の毛並みをしたコータスの若い男が戸口に立ってボクを見つめていた。

 

「キミは?」

「医療部の者です。ラップランドさんですね?」

「たぶんね」

 

 自室がこんな有り様じゃ、何もかも「たぶん」だよ。

 

「四十五分前、ケルシー先生から、あなたの居室をこのA一◯九号室からD一◯一号室に変更する旨が我々に伝達されました」

「ふうん。仕事が速いね」

「お荷物が少なかったものですから。十五分前には全ての行程が終了しました。新しい部屋──D一◯一号室の間取りは、この部屋と概ね同一です。家具や書籍の再配置も、この部屋を参考にした上で完了しています」

「違いとしては……ヒップホップとアップルパイ、バーベキューは無し?」

「そういうことになりますね」

「案内してくれるかな」

「そう仰せつかっていますので。こちらへ」

 

 ボクたちは通路を行き、階段を三つ降り、角を一つ曲がった。

 指し示されたドアを開けてみると、ボクの部屋を真似て作られた、しかし歴史のない部屋が出迎えてくれた。なんと気味の悪いことだろう。テーブルの上に伏せられた本の、その開かれたページまで昨夜のままだった。

 

「我々としても、部屋の主に断りもなく、その所有物を運び出すことは不本意でしたが」

 

 コータスの青年が、別段申し訳なさそうでもなしに淡々と語るのを聞き流しながら、ボクはシーツの真新しくなったベッドに寝そべってみる。

 

「なにぶんケルシー先生の下命でしたので。ご勘弁ください」

「気にしてないよー。あー……一件。検査キットはどこだい」

「簡易のものがシャワールームの扉の横に。検体の提出はこれまで通り、明朝6時から8時までにお願いします。他に何か?」

「ん。もういいよ。じゃね」

 

 誰の匂いもしないシーツに顔を埋めて、ボクはドアの閉まる音と、それから彼の足音が遠ざかるのを待った。

 もう近くには誰もいないらしい。寝返りをうち、天井を仰ぐ。布と衣の擦れる音がおさまった後、部屋には通風孔の唸る音と、ボクの耳鳴りの他に音がなくなった。

 耳鳴りの奥に潜り込み、じっと感覚を研ぎ澄ませると、いくつもの小さな声が身を寄せ合って記憶の中にひしめいているようだ。新しい声ほど近く、古い声ほど高く、遠く。

 

 ウツツが思いのままにならないというなら、ボクにとってこの声の他に音など必要ない。これから眠りにつくならば、なおさらだ。今日は闘いもないのに話し、聞きすぎた。

 今日のうちに取り扱われたそれら数多くの言葉にも、地下牢にいた少女のたった一言を除けば、有意義なものは存在しない。

 ボクは彼女の言葉を何度も口の中で繰り返し、記憶のざわめきへと入念に埋め込んだ。

 他にすることもないから今日はもう寝よう。

 おやすみ、ラップランド。

 

 

 

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